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 竹串に刺した簡易で低廉な天麩羅
1、先ず」「揚物屋」があった
江戸の庶民たちが食べた天麩羅については、『守貞漫稿』(嘉永6〜1853)に詳しい。
  京阪の天ぷらは前に言える如く、半平の油揚げを言ふ。江戸の天麩羅は、 アナ  ゴ、芝エビ、コハダ、貝の柱、スルメ、右の類すべて魚類に温飩粉をゆるくときて、  ころ もとなし、しかるのち油揚にしたるを言ふ。菜蔬の油揚は江戸にても、てんぷ  らとは言はず、あげものと言ふ也。
これは、江戸末期天保頃(1830頃)の天麩羅の様相を言っている。
ここで言う「揚げ物」であるが、これも盛り場などの屋台店で商っていて、庶民の家庭料理ではなかった。これを食べた男たちが、これは旨くて重宝とばかりに自宅の土産として購入し、飯の菜へと発展して行ったものであろう。天麩羅もこれと全く同じようにして普及したものと思われる。
   ◆轡虫四季に鳴かせる揚物屋   
 
菜蔬類を油で揚げる音を、轡虫の鳴き声に擬している。轡虫は夏の虫であるが、この鳴き声と同じようなガチャガチャという音をたてて揚物屋は、季節に関係なく商いをしているということである。
   ◆揚物屋是は何だに聞き飽きる
 
ころもを付けて揚げているので、中身がわからない。買い手は「これは何の揚げ物だい?」と必ず尋ねる。
       ◆衣や薄き片そぎの二文揚げ
 
野菜を薄く削いで、衣を薄く付けた揚げ物は、一串が二文という安さであることが分かる。


2、「てんぷらり」と「てんぷら」

天麩羅であるが「てんぷら」は「調理」という意味のポルトガル語である。江戸の初期に「てんぷらり」という料理がすでにあったことが当時の料理書に載っている。徳川家康が「鯛」の「てんぷら」を食べて腹痛を起こし、死亡したという俗説が知られているが、もしほんとうに食べたとしたら、江戸中期以降に庶民たちに好まれた天麩羅ではなく、ポルトガル料理「てんぷらり」えあったと推測される。
 また、「天麩羅」という名前を考案したのが戯作者で著名な山東京伝であるという説がある。これは京伝の弟京山が記した『蜘蛛の糸巻』(弘化3序ー1846)にあるが、要約すると、天明初年(1781頃)に大阪の商人が江戸へ来て、魚の胡麻揚げに新しい名を乞うたところ、京伝は天竺浪人の「天」、ふらりと江戸に来たので「ふら」、これを組み合わせて「天ぷら」と命名したと言う。「てんは天竺のてん、即ち揚ぐるなり。ぷらに麩羅の二字を用いたるは、小麦の粉のうす物をかくるといふ義なり」と、京山は解説している。この大阪の商人は利介という名であるが、この後、その商売で成功したかどうか定かではない。 
 喜多村均庭の記録によると、寛政末(1800ころ)に日本橋の屋台店の吉兵衛が庶民向けの天麩羅を考案し、成功を収めたという。川柳にも、
   ◆吉兵衛は天麩羅で名を挙げた店
と詠まれて、この句が発刊された天保4年(1833)頃に、吉兵衛という天麩羅屋があったと推測される。

3、屋台店から始まった魚肉の串刺しの油揚げ

 天麩羅は江戸の盛り場の屋台店で始められ、これまでの野菜の揚げ物ではなく魚類を具とし、迅速で低廉なために庶民に受け入れられたのである。
   ◆天麩羅の店に筮を立てて置き
 
筮は占いするための竹製の筮竹で、ここでは竹串の形容である。
   ◆筮竹で判断させる天麩羅屋
 
竹串に魚肉を刺して、それにころもをまぶし、油鍋に入れて揚げるのである。鍋から竹串だけが突き出ていて、ぶつぶつと揚げている時には、具が何かはまったく分からない。
   
小平治を武鑓で突く天麩羅屋
 
小平治は「四谷怪談」の小幡小平治で、魚の「こはだ」の別名である。「こはだ」の切り身を竹串に刺して揚げたことが分かる。
 具を表した川柳としては、次のようなものがある。
   ◆天麩羅屋大きな形りでたこを揚げ
 
凧を上げるのは子供の遊びであるが、天麩羅屋では大の大人が「たこ」(蛸)を揚げていると見立てたのである。
   
蛽子にころも着せている天麩羅屋
 
中国の奇僧の蛽子和尚はエビを常食したとの故事があり、それを踏まえて天麩羅屋がエビにころもを付けている実態を延べ、蛽子和尚は僧侶であるのにそれに衣を着せると洒落れたのである。
   
天麩羅の蝦を手長が喰って逃げ
 
屋台を取り囲んで、揚がった天麩羅を次々と食べている人々、その人垣の後ろから手を延ばして竹串を取り、さっと食べて混雑に紛れて銭を払わずに立ち去ってしまう輩がいたということである。無銭飲食である。蝦の種類に「手長蝦」というのがあるが、それに掛けた趣向である。 

4、天麩羅の始まりは文化年間(1800年代初頭)で、1串4文
 
一串どれくらいの値段であるか不明であるが、前述の揚げ物が一串二文であると考えれば、天麩羅も「寛永通宝」の四文銭のことを勘案して、一串四文であったと推測できる。
 英泉画の絵本『柳樽』七編(弘化3ー1746頃)の17丁に、「天麩羅」と看板がある屋台店と同じく屋台の蕎麦屋の絵がある。そこの三句の川柳が添えられ、
   ◆天ぷらの口は四五丁すべるなり
   ◆てんぷらの見方に夜たか蕎麦屋つく
   ◆四文屋の前にあま犬向かひ合う
とある。最後の「四文屋・・・」の句は、「天麩羅」屋の真下に二匹のいぬが描かれ、その下に添えられているので、これは明らかに、天麩羅一串が四文であることの証となると思われる。
 そして、この屋台の「天麩羅」屋には、町人姿の四人の男たちが寄り合い、その繁盛ぶりが類推できる。その内の一人は、手に小田原提灯を下げているので、夜店であることも分かるのである。
   ◆高札の側で天麩羅鼻へ懸け
 
庶民に幕府からの伝達や注意事項を掲示する高札場は、人通りの繁華な辻にあったので、そこはまた屋台などの露天商で賑わう所でもある。この句は文政4年(1821)刊行の柳多留に載っている。
 天麩羅を食ったこの男は「おれ、初めて天麩羅を食べてみたが、なかなかいけるぞ」と、同輩たちに自慢をした場面であると思われる。柳句で見る限り、この頃が屋台の天麩羅屋が、庶民に知れ渡り始めた創設期である。
   ◆天麩羅の指を擬宝珠へ引んなすり
 人々が集まる盛り場は、橋のたもと近辺が多く、特に両国橋河畔は色々な屋台店で賑わった。天麩羅の串を摘んだ手に、油気が付いたので、それを橋の欄干の擬宝珠になすり付けたという実道作の写生である。


 田楽と塩梅よしのおでん

1、田楽の串は京阪は二股、江戸は一本
 
豆腐を短冊型の長方体に切って竹串を刺し、味付け味噌を塗って焼いたものが田楽である。田楽舞のさぎ足に形が似ているところからの命名であると言う。
   ◆田楽はむかしは目で見今は喰ひ
 
農耕民が祝う田植えの際の舞踊が「田楽」であり、江戸時代にはほとんど廃れ、食物の名称となったことを言う。
 また、現代では蒟蒻田楽が一般的であるが、これが普及し始めたのは、明和期(1765頃)からであり、それ以前は田楽と言えば豆腐である。これ以後も、豆腐と蒟蒻の田楽が両用されている。『守貞漫稿』(嘉永6−1853)に、
  京阪の田楽串は股あるを2本用ふ。江戸は股無しを一本貫く也。京阪は白味噌を  用ひ、江戸は赤味噌を用ふ。各々砂糖を加え摺る也。京阪にては山椒の若芽をみ  そに摺り入れる。江戸は摺り入れずに上に置く也。各々木の芽田楽と言ふ。江戸、  夏以後はからし粉を練って上に置く。
とあり、京阪と江戸との差異を述べている。串の形状の違い、味噌の違い、木の芽田楽と言う呼び名は同じでも、その調理の違いなどが歴然としている。


2、田楽は豆腐が正式
 
現代の豆腐は木綿豆腐でさえも柔らかくて、橋で撮むと崩れてしまうが、当時の豆腐は固くて、串刺しにしても崩れることはなかった。『均庭雑考』には、田楽について絵入りで考証が行われているが、その一節に、
  そのかみは豆腐も今の如くならず固ければ、是も団子などのやうに立て灸しなり。
とあり、現代人の想像以上に固かったことが記されている。
  ◆湯豆腐は色紙でんがくは短冊
 これは豆腐の切り方を言う。湯豆腐用のは色紙型の薄い正方形であり、田落用は厚めの長方形である。


3、真崎稲荷舎は田楽茶屋の名所
 
江戸の中期に、田楽と言えば隅田川畔の真崎稲荷社の周囲にあった諸店が著名であった。『後は昔物語』(享和3−1803)に、
  真崎稲荷はやり出て、田楽茶屋の出来たるは、我23歳(宝暦6.7年ー1756.7)の頃  なるべし。鳳岡先生の会日にそのはなしを始めて聞けり。江戸町の名主は先生の  門人にて、その男が別て甲子屋と申す茶屋の田楽はよし申すなりなど、先生に語り  しを聞けリ。その後、大いに繁盛し、青楼の夫人をいざないて遊ぶ人も多かりき。   (略)真崎は手前の角、若竹や(後、袖すりや)、また甲子屋、川口屋、玉屋、いね  屋、仙台屋、桐や(道を隔て)、八田屋など、いずれも繁盛なりき。
とある。現代の真崎稲荷はすっかり寂れて、小さな社があるだけで昔日の面影は全く無い。文中の「青楼の夫人」とは、吉原遊郭の遊女のことで、遊女を誘い出して、ここに田楽を食べに来る通人も多くいたのである。また、ここで田楽を食べてから吉原へ繰り込む男たちも多かった。
  ◆田楽で帰るが本の信者なり
 
真崎稲荷に参拝し、ついでに田楽茶屋で田楽を食べ、それで帰宅する人は、本当に信仰のために真崎稲荷に来たのである。しかし、殆どの男たちは田楽で腹こしらえをして、真の目的地の吉原へとおもむく。
  ◆田楽で崩す小判はあてがあり
 一両小判を、一分金や二朱銀などに崩し、これからの遊興費に当てる算段である。
ともかく、江戸中期には、田楽と言えば正樹稲荷社という通念があり、次のような句がある。
  ◆田楽かウナギかと聞く柳橋
 船宿がある柳橋で、舟を頼むと「田楽ですか、それとも鰻ですか」と、その行き先を尋ねると言うことである。つまり、隅田川をさかのぼれば「真崎稲荷」であり、下れば深川であり、どちらへ行くかを謎めかした趣向である。


4、花見には田楽
 
豆腐の田楽と言っても、味付けにはかなりの種類があったらしい。『道聴塗説』に、
  春もやうやう長閑に成り行けば、木の芽田楽、海胆田楽を始めとして、鶏卵、交趾浅茅、阿漕等の田楽、花下の一興に供すべし。とあり、種別がのべらさているが、「木芽、海胆、鶏卵」などは調理素材なので察しがつく。しかし、「交趾、浅茅、阿漕」は、商品名である。どんな田楽か想像するだけで楽しい。
 春の花見の頃には、人々が集まる所に露店の田楽屋が店開きをする。
  ◆短冊の豆腐も売れる花の山
 「短冊の豆腐」で田楽を表している。王子の飛鳥山、品川の御殿山、上野、隅田川堤などの、花の名所には人々が謂集し、花を愛でながら飲食をする。
  ◆田楽の味噌へ摺り込む桜花
 
田楽を焼いている所へ、桜の花びらが散りかかるという長閑な風景である。
  ◆耳をそぎめを摺り花の下で焼き
 
「耳を削ぎ落とし、目を磨り潰し」という物騒な表現を使って、意表を衝いた趣向である。耳は豆腐のそれ、目は山椒の芽である。
  ◆田楽を焼くうち拾うさくらんぼ
 
葉桜の頃の花見である。田楽を注文して、それが焼けるまでは手持ち無沙汰なので、地上に落ちている桜桃を拾っている景である。


 
田楽は、味噌が垂れないように用心して食べる。晴れ着にでも味噌が付いたら、それこそ大変である。
  ◆借り着仰天田楽の鞘走り
 
腰に差している刀が、ふとしたはずみに抜け出ることがあるが、これを「鞘走り」と言う。そんな表現を使って、借り着に田楽を落とした時の驚嘆を述べる。
  ◆田楽も紙のいるのは美しい
 
女の食べ方である。懐紙を出して、味噌垂れが垂れないように慎重に食べている女の姿態である。きれいに髷を結い上げ、着物の袖にも留意しながら、紅を塗った口を少し開いて食べている様子が彷彿として来る。
  
田楽の口は遠くであいて行き
 垂れ味噌の雫が落ちないうちに、口へ入れようとする動作。ほとんどの人が、皆同じような行動をするという発見である。よくぞ、細かく観察したものだと感心する。

6、女が好む山椒味噌
 
家庭でも豆腐の田楽を作る。
  ◆勝ってしきりに鳴動して田楽
 
台所で摺鉢を使って山椒味噌を拵える。摺鉢を摺る音が、派手に聞こえて来るのである。「鳴動」という大袈裟な言葉を遣った洒落である。
  ◆田楽を嫁桃色になって焼き
 
串差しの豆腐は、炭火で焼く。串を並べて団扇で扇ぎながら、焼いている嫁であるが、炭火の余熱で顔が赤くなり、ほんのりと顔面が桃色に染まっている情景である。
  ◆田楽を内儀の分は山椒味噌
 
当時の女たちは、概して生臭いものは敬遠する。ウニを塗ったりしたものよりも、この家の女房のものは山椒味噌にするというのである。
  ◆田楽の後へすましの吉野椀
 
豆腐田楽を食べた後に、吉野塗りのお椀に入った澄まし汁が出る。味噌味の口直しに、野菜の入った薄塩味の汁を飲む。

7、「塩梅よしのおでん」は夜商い。魚肉の練り物のおでんは無い
 
「 おでん」は田楽と言う女房詞である。この「おでん」が、庶民の食べ物として寛政期(1700末期)頃から、夜商いされている。『守貞漫稿』(嘉永6−1853)に、 
  上燗おでん。燗酒と蒟蒻の田楽を売る。江戸は芋の田楽も売る也。
とあり、すでに豆腐の田楽ではない。こんにゃくと里芋の煮込みを「おでん」と称したことがわかる。この発祥は謎であるが、肉体労働者や遊里への漂客を目当てにした、至って低廉な行商であったと思われる。燗酒をのませ、そのツマミとしたのが蒟蒻おでんなのである。この行商は「塩梅よしのおでん」と呼び声を上げながら、夜に巡り歩いた。
「塩梅」とは、もとは塩と梅酢でほどよく味を調味したという意味であるが、「味付けがちょうどよい」から「味のよい」「旨い」という意に転化している。おでんの行商者は、「あんばいよしの・・・・・」と売り声の初めに付けるのが定例であった。『京伝予誌』「寛政2−1790)に、
   塩梅よしのおでんより、上手を行きたる美味にて・・・・・
とあり、また『辰巳婦言』(寛政10−1798)にも、
   夜はよもすがら、おでん白菊あんばいよしも、内の工面はあんばいわるく・・・・
とあり、この言葉が当時の流行語であったことを示唆している。
  ◆どぶ六とお伝は夜の友かせぎ
 
「どぶ六」という男と、「お伝」という女が夜に共稼ぎをしているという趣向を使って、燗を付けた濁り酒と蒟蒻のおでんは、夜商いであるという実体を述べている。
 『春告鳥』(天保8−1837)に、
   おでんやおでん、あまいとからい、おでんやおでん。
と、行商の売り声が記録されている。さて、この「あまいとからい」というのは、何であろうか。これ以上の資料が無いので、解明が出来ない。「あまい」は薄味で、「からい」は濃い醤油味を言うのか、それとも「からい」は蒟蒻に芥子を付けるということか、詳細は不明である。当時のおでんは、具を沢山いれてたとしても、蒟蒻、里芋、豆腐、はんぺん等がせいぜいであろう。はんぺんについては、
  ◆時に半ぺんを菜に入れる安料理
とある。中国春秋時代、越王勾銭を助けたはんれいが「時にはんれいなきにしもあらず」と詩を作ったが、この文句を取り入れた趣向で、はんぺんを野菜とともに煮込んだ料理は、かなり安価で、庶民的であったことが分かる。

参考文献 著者渡辺信一郎 「江戸の庶民が拓いた食文化」

 

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