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食文化の革命は屋台店から
粘り糸をひく、叩き納豆
1、納豆は寺院で作る
納豆の食品としての歴史は、分かっているようであまり知られていない。納豆という名称は寺の納所で作られた豆という意味からであると言われる。中国の寺院からこの原型が渡来したとも言う。江戸期においても、寺では夏のうちから納豆を作り始める。
◆年玉を寺は夏から心掛け
作った納豆を貯蔵して置き、寺では年始に檀家へ配るのを恒例とした。歳暮の贈答とすることもある。蓋に寺のなを書いた曲物へ納豆を入れる。寺の僧侶たちの年賀廻礼は正月四日からが定めであった。四日以前には、庶民たちが四角な扇箱をお年玉として配る。
◆四日から年玉ぐるみ丸くなり
経木で作った四角な扇箱は正月三日までで、四日からは頭も丸く、曲物も丸く、寺の年始用の納豆配りが始まることを言う。
◆納豆へ和尚壱本指を見せ
檀家廻りの年始は、僧侶は駕籠に乗ったり、供僧の後を悠然と歩いたりして、この家には、納豆が一箱でよいとか、少し多くあげるとか、指図する。
◆納豆へ地理に詳しき所化が付き
所化は、修行中の弟子の僧である。壇家の所在に詳しい弟子が先導して、納豆配りを行う。納豆の曲がり物は、お盆に乗せて運んだり、合羽箱に入れて運搬する。
◆盆持った所化乗り物へ走り付き
弟子の僧が納豆を配りながら、僧侶の乗っている駕籠に、走って追いつく情景である。
◆合羽箱あけて納豆一つ出し
合羽箱(籠)に納豆をそのまま入れて、椀でそれをしゃくって、檀家の家の丼茶碗などへ入れ代えるということも行われている。粘りついて大変だと思われがちであるが、実は寺納豆は「浜名納豆」であったらしい。これは現代でも作られているが、大豆を醗酵させて塩汁に浸し、香料などをいれて干し上げた、鼠の糞のような納豆である。
◆納所来て椀を突っ込む合羽籠
納所は寺務を扱う僧。合羽籠から納豆をすくいとる様子を言う。
納豆の入れ物は、経木で作った曲物の他に、薄い紙のような削ぎ板を三角に折り曲げ、底に紙などを張ったものも使われた。
◆納豆は頭の寒い鳥帽子也
この容器を鳥帽子に見立てている。
2、浜名納豆・唐納豆・しる納豆
「浜名納豆」は遠州浜名宿で始めて作ったので、この名があり、『松屋筆記』に、「遠州浜松にて浜名納豆とて製は、山椒の辛皮を加えたる干納豆なり」とあるように、真つ黒な粒である。『東行話説』(宝暦10−1760)には、
毎年正月六日に、巳日名越祓を関東に調進のため、家来通行の折、浜名納豆と て、鼠の糞のやうなる物を取りて帰る。見つきに似ぬよき味にて、酒の肴にはえな らぬもの也。
と、初めて食べた時の驚きが記されている。
「唐納豆」は、『本朝食鑑』(元禄8−1695)にも説明されているように、木臼でついて6月から11月まで熟成させ、また晒し乾しを繰り返し、山椒の粉を入れて味がよくなった時に、木の葉の形状に作る。または、泥状にして食べる。どちらかと言うと「なめ味噌」に近いものであり、現在の金山寺味噌の類である。「味噌納豆」または「しる納豆は、観音寺納豆ともいう。『鳴呼矣草』(文化3−1806)に、
観音寺の制は天下に冠たり。天然の美味にして、香気つよく粘り甚しく、糸を引く 事連綿としてたえず。
とあり、俗に「糸引納豆」とも言う。よく似た白大豆を藁苞に入れて適温中に置き、菌を繁殖させて作る。江戸の庶民たちが好み、毎日のように食べたのは、この納豆である。
3、納豆は叩いて汁仕立てで食べる
江戸庶民の納豆の食べ方にも、時代による変遷が見られる。『真佐喜のかつら』(天保末ー1840年代末期)には、
おなじ頃(亨和・文化ー1800年代初め)、冬に至りては、納豆を売るもの、たたき 納豆とて、粒納豆をよくたたき摺りて、それを四角・三角なる形にかため、壱人前 をいくつと定め、それぞれ豆腐のさいのめに切り、菜をきざみ、辛子をかきたるま で添へて売りつける故、調法なりしが、これもやみたり。
とあり、この当時の食べ方がたたき納豆汁であったことが分かる。購入してすぐに食べられるように、賽の目に切った豆腐や刻み菜や辛子を添えて売ることが流行し、庶民たちが重宝がった様子が記されている。さらに『世のすがた』(天保4−1833)をみてみると、江戸の中期までは粒納豆よりは、叩き納豆が主流であり、味噌汁のような食べ方であり、しかも一人前八文という低廉さであったことが記録されている。
納豆汁を家庭で作ることも行われた。納豆をまな板の上で細かけ刻み水にとぎ、煮て、汁仕立てとし、塩や酒で調味してから、魚や鳥などの肉を入れ、次いで菜っ葉を入れる。好みによって辛子を添加する。
◆納豆に七種打って叱られる
正月七日は七草粥を食べるが、その時、なずなをまな板の上で拍子を取りながら歌に合わせて切り刻む。納豆を叩くのに、七草を打つのと同じ調子で叩いたので、「おい、おい、七草じゃないぞ。納豆を叩くだけだ」と叱られたというのである。
◆納豆を上品に聞きや鳥の骨
歳末に、庶民たちは鴨を料理し、正月のご馳走とするが、肉は雑煮用とし、骨も内臓も皮も捨てることはせず、包丁の背で叩いて細かにし、汁などに入れる。納豆をまないたの上で叩いている音が、歳末の鴨の骨を叩く音に酷似している実体である。
◆裏店の鴨納豆と見さげられ
裏長屋の侘び住まいの者が、やっとの思い出工面して正月用の鴨を手に入れ、それをしきりに叩くが、それを聞いている近所の者たちには、「相変わらず、納豆を叩いていやがる」としか思われないということを言う。納豆汁である。野菜などの淡白な具ならばよいが、魚や鶏肉を入れたものは、女たちに敬遠された。
◆おふくろは納豆汁のきしょくなく
「気色」とは、「その心持顔に現れること」の意味であり、「気色なし」であるから、「わしゃ、いらんよ」というわけである。若夫婦が作った納豆汁は気に染まないのである。
◆納豆汁目顔しのんで母のける
これも、気に入らない具が入っていた場合である。椀によそってもらったのはいいが、鴨の皮などが入っていたので、素知らぬふうをしてそっっと捨てる動作を言う。
4、叩き納豆が廃れ、粒納豆が庶民の大好物になる
叩いた納豆を入れた汁は、江戸中期には庶民の常食であったが、それが時代の下降とともに、嗜好も変化し、次第に粒納豆だけを食べるようになる。『嬉遊笑覧』(文政13−1830)の記述には、元禄より以前の貞亮の頃(1684頃)は、叩き納豆汁が全盛で、約150年、そのままの食習慣が続いた。そして、文政から天保期(1830頃)にかけて、叩き納豆汁は廃れ、現代のような食べ方である粒納豆が流行り出したのである。
◆懸り人納豆箱の底を舐め
「掛り人」は、「掛かりゅう人」とも言い。居候である。食事の時には、特に自己主張が出来ないから、家の者が納豆をよそった後の、豆粒が残っていない箱の底を舐めて、その味覚で飯を食べるという実態である。
◆お椀で納豆を喰ふ壱人者
納豆売りから購入する時に、お椀に盛ってもらったのを、そのまま食べている独り者の不精を言う。
◆納豆の笊底を買う朝寝坊
朝、遅くおきたために、行商者から売れ残りの納豆を買う情景である。笊に入れて売り歩く行商の、その底にこびり付いている納豆を掻きき集めた物を買うのである。
現代でも、東日本では毎日のように納豆を食べるが、滋養と安価と簡便さから、江戸の庶民たちの大好物であった。『江戸自慢』(江戸末期)には、
鳥の啼かぬ日は有れど、納豆売りの来ぬ日はなし、土地の人々の好物なる故と 思われる。
とあり、土佐人である。この記録の著者は、江戸人の納豆好きを感嘆の目で眺めている。
謎づくしの江戸の食品
蜜淫の味、鰒と西施乳
1、庶民の味覚、夏は初鰹、冬は鰒
鰒(ふぐ)は有毒であることは知られていたが、その美味にひかれて常に常食された。
『和漢三才圓會』(正徳3−1712)には、
新しき鰒(ふぐ)、能く腸血を洗浄し、これを食ひて毒に中らず。冬月、争い喫ふな り。和漢共にしかり。
とあり、肉をよく洗って刺身にして食べれば、毒に当たることもなく美味であり、冬の珍味であるという。雪がちらつく頃、鰒売りの行商が「フグや、フグや、」と町々を触れ歩く。
◆白妙の中をかすかにふぐの声
鰒売りを呼び止めて、魚を見せてもらう。魚屋は桶の中から頃合いの魚を出して、盤台へ乗せる。それを見てから、値段の交渉となる。
◆雲打ち払ひ夏の魚見せる也
「雲打ち払い」という箇所は、謡曲「鉢の木」の文句取りである。また、魚偏に夏と書いて「鰒」となるという洒落でもある。
◆盤台の雲打ち払ひ値が出来る
酒好きには、鰒の刺し身または鰒汁が絶好である。少しぐらい高価でも、ちゅうちょなく買うのが、江戸庶民の意気というものである。
2、武士も食べ始めた江戸中期、毒に当たればお家断絶
江戸庶民にこのように持てはやされた鰒も、江戸の中期頃までは武家は決して食べなかった。
『塵塚談』(文化11〜1814)に、次のようにきされている
河豚・コノシロ、我等若年の頃武家は決して食せざりしもなり。(略)
当時の様子がよく分かる。江戸中期から鰒をよく食べたのは「卑賎」と言われた庶民たちであり、その美味を体験していた。武士たちは頑健にも伝統的な食生活を墨守していたのである。その頃は、鰒が一匹12文程度であり、安蕎麦一杯が16文であるのと比較すれば、いかに安価であるかが分かる。また、面白いのは、干し鰒は無毒であるので貴賎を問わずに食べたことである。
鰒の旨さが庶民たちの口から喧伝され、仲間や奴などの下級武士たちも口にするようになり、次第に上流階級にまで至ったのは宝暦期(1751頃)である。
『根無志具佐』(宝暦13ー1763)に、
惣じてむかしは、人間も素朴にありし故、毒といふものは喰ぬと心得、河豚を恐る る事、蛇蠍の如くなりしが、次第に人の心放蕩になりゆき、毒と知て是を食す。河 豚を喰ふて死たる者、其家断絶と律をたてて、上仁を好ども、下義を好まず、ふぐ やふぐやと大道を売りありく。
と、この頃の世相と嗜好の移り変わりが描かれている。そして、安価であった鰒の売価が、一匹200文から300文へと跳ね上がったのである。
武士たちも争うように食べるようになると、鰒の毒に当たって死ぬ者も出て来る。その場合は、身命を軽く扱ったとして、「お家断絶」という法律を出して厳罰に処したが、それでも鰒の美味は人々を魅了し、法律の効果は無いに等しかったという。
3、鰒の旨さは間男の味
鰒の旨さは「蜜淫の味」(みついんのあじ)とまで称された。『和漢三才圓會』(前出)には,
暫時の口味になじんで身命を賭けtものにするは、蜜淫する者と趣は一なり。
と述べられ、毒に当たるかどうかと、内心ひやひやしながら危ぶんで味わう旨さは、ちょうどよその女と道ならぬ交合をするのに同じであるという。
◆間男をするに等しき鰒の味
◆命は塵芥間男と雪の鰒
4、絶妙の味「西施乳」
また、鰒のどの部分が一番美味しいかというと、それは鰒の「つちすり」であると言われる。魚の鰒のいちばん肥えたところで、「すなづり」とも言う。ここの肉の味は絶妙で、「西施乳」と俗称されている。これも『和漢三才圓會』に、次のようにある。
其の腹つちすりの味最も美なり。呼んで西施乳となす。
また、『牛馬問』(宝暦6−1756)に、
腹中の膵を西施乳といふ。これは西施が美にして国を乱るるを、この魚の味美に して毒あるに比すなるべし。
とある。『牛馬問』では鰒の内臓としているが、ともかく油が乗っていてこたえられない美味なのである。中国の越の傾国の美女西施の乳の味のように、素晴らしく旨いというわけである。これは、刺身なのか汁に入れた場合なのか、明確ではないが、恐らく刺し身であると想像される。
◆西施乳買うと女房顔しかめ
一般に、江戸の女たちはあまり斉見を好まない傾向にある。初夏の初鰹にしても、亭主は刺し身を賞味しても、女房たちは「雉焼き」という場合が多い。高価な鰒を購入する亭主に対して、家計を預かる女房はいい顔をする筈がないし、また西施は常に顔をしかめていたとの故事があり、この西施の仕種を利かせた趣向の句である。
参考文献 著者渡辺信一郎 「江戸の庶民が拓いた食文化」
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