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刺身はいつ頃から常食されたか
1、「切る」の忌み言葉から「指身」
『俚言集覧』(明治32増訂)で「さしみ」の項を見ると、
魚軒。鯛指身。
とあり、現代のような刺身のような漢字になっていない。『江戸語の辞典』(昭和54刊)によれば、
生鮮魚の肉を薄く切って、醤油などにつけて食うもの。江戸は刺身と作り身を区別 せず、また魚肉ならざるものにもいう。
とあって、魚肉に限らず薄く切った肉片のことのようである。一説に「切る」を忌み詞としたため、「指身」「差身」という名称になったという。 『和漢三才図絵』「正徳3−1713」では、「魚肉薄ク切ルヲツクルトイフ」とも述べる。現代でも京阪地方では「刺身」と言わず、「お作り」と称している。
現代人は新鮮な魚を、ほとんど刺身にして食べるが、江戸中期頃は刺身は一般的に普及していなかった。しかも上流階級のひとびとは刺身は食べず、庶民たちが食べたのは、鰹・平目・フグに限定されていた。特に、初夏の到来とともに江戸っ子は初鰹の刺身を好んで食べたが、現代とは違って「辛子味噌」をつけるのが常であった。
◆切目正しきへからし附けて喰い
魚膾のように乱切りにした魚肉ではなく、長い肉身を崩さずに切れ目を入れて切るのが、江戸の刺身である。鰹の肉片に包丁を入れ、崩さずに、刺身の一切れずつに辛子をつけて食べる実態を言う。
◆今喰へばいいと不気味なさしみ売り
冷蔵庫の無かった頃であるから、イキがいいうちに食べる。「今なら大丈夫だ」と言って売る刺身は、どうも当たりそうで不安だという心境である。
◆煮るように切ってくれろは呑まぬ奴
酒好きの者は、鰹を刺身にして殊才とするが酒菜とするが、下渡は飯のおかずになるように煮て食べたことがわかる。この鰹が旬になる以前は、もっぱら平目の刺身を賞味した。
◆時鳥白い刺身はもう食へず
ホトトギスが鳴き始めると、それは夏の到来なのであり、いよいよ鰹の出番となり、それまで食べていた平目も季節外れとなるのである。
◆知恵のなさ四月ひらめのさしみ也
初夏になっても平目の刺身を食べているのは、高価な鰹を購入する資金の捻出ができないという才覚の無さなのである。
◆のろっこい味噌で平目のさしみ也
生温かい辛し味噌を付けて、平目の刺身を食べている者への軽蔑である。それを付けるのは鰹に限るということを言外に言う。
ところで、鮪はもっぱら塩を振って焼いて食べていたが、鮪が大漁の時には安価になるので、江戸の末期からは次第に鮪の刺身が食べられるようになる。『一話一言』(寛永8〜文政3)に、「文化7年、一日に一万本の漁あり」とあり、また『我衣』(文化8−1811)十九には、「12月初旬より、まぐろおびただしくとれ、一日に千二百程、河岸入りせし」とあり、その時は一本が六百文ぐらいで、肥料にしたり、頭や尾などは往来に捨て放って犬猫も食わなかったという。
その様子は
◆江戸の道肉林になるまぐろ漁
と句に詠まれている。行商の「まぐろ売り」などは、イキの良さを強調して、生の切り身をその場で食べて見せることもあった。
◆まぐろ売りきっぱしなどを喰って見せ
「イキがよくて、旨いぜ」と言わんばかりに、生肉の切れっ端を口に入れる。鮪の刺身を常食していない頃なので、こんな場面が珍奇だったのである。
『宝暦現来集』(天保2序ー1831)の「文政頃より天保2年)までの流行の条に、「塩まぐろを止めて、すき身が売れる」という記事があり、この頃から鮪の刺身が庶民の間に広まったことがわかる。そして刺身とは言わずに、「透き身」という呼び名であった。
2、斬目正しく紅白に盛る
刺身について詳述しているのは、『守貞漫稿』(嘉永6ー1853)28編である。様態を知る上の資料なので、引用する。
これによれば、京阪では鮪の刺身は「初の身」と称したこと、江戸では祝賀の時に鯛の刺身、普段は鮪や鰹の刺身を食べていたこと、冬にはヒラメの刺身を専らとし、ヒラメや鯛の白身の刺身と、鮪の赤身の刺身を皿に盛り並べ、「作り合わせ」と称して、その色合いも楽しんだこと、江戸では魚肉を乱切りにせず斬り、正列に並べること、鯛やヒラメには辛子味噌や山葵醤油を付けて食べ、鮪や鰹は大根おろし醤油を付けて食べること、魚肉の皿にまみれぬように刺身皿にはよしずなどを敷いたこと、添え物は、糸切大根、糸切うど、生紫海苔、生防風、姫たで、黄菊、おご、大根おろし等であること、夏にはスズキや鯉の刺身を冷水で冷し、正列に切り身を並べずに、乱切りのまま食べたこと、などが明らかにされている。これは、江戸末期の嘉永年間(1850年代)の様子であるが、刺身の「ツマ」なども記され、現代とほぼ同じであることがわかる。
◆刺身の手際紅白の山を見せ
皿に盛られた、白身と赤身の刺身を並べた「作り合わせ」の色合いを、リアルに述べている。当時の庶民たちの目には、魚の生肉の切り身が綺麗に並んでいる様相が、目新しいものだったのである。
◆茶屋女さしみ作るを申し立て
簡単な小料理屋で、さしみ作るのに客の了解を得ていたようである。現代では宴会料理には、刺し身は不可欠で、必ず出されるが、当時は「刺し身」を敬遠する人々もいたように推察される。
◆うまくない差身は酢だのこんにやくの
刺み身を食べながら、「この刺み身はまずいね」などと、散々小言を言っている状況である。
◆あらした刺し身破損した瓦屋根
皿に盛り付けられた刺し身を、食べ荒らした後の嘱目の実景である。食べ残しの切り身が乱雑になっている情景を、嵐で破損した瓦屋根に見立てている。同様に
◆お刺身に蓼は瓦にはへた草
という句もある。切り身を瓦に例え、蓼を添えた様子を瓦に生えた雑草に見立てている。盛り付けた刺身と具(ツマ)の取り合わせが、珍奇なものとして庶民の目には写ったのである。
3、庶民相手の「刺身屋」繁盛
江戸末期から、魚の刺し身が安価で滋養に富んでいることが知れ渡ると、それを専門に扱う商売屋も出来てくる。『守貞漫稿』(嘉永6ー1853)4編に、
刺身屋。鰹及びマグロの刺身をもっぱらとしこの一種を生業とする者、諸所に多し。銭五十文、百文ばかりを得る。粗製なれども、料理屋より下直なる故に行はる。
とあり、安価な店として庶民たちに歓迎された。また、同書二十八編にも、江戸には刺身一種を生業とする小店あり。小店にて魚多き日は、四十八文、弐百文ばかりよりこれを売る。
とあって、刺身だけを売る店が所々にあったことがわかる。
◆かつほより秋はさしみの一きわだ
秋冷の季節が来ると、初夏の鰹の刺し身よりも鮪(きはだ)の方が時節に適っていると言うことと思われる。
◆香の物程にさしみを女房切り
女房が刺し身を作ると、大きい切り身にはしないで、漬物の大きさに小さく切るという。家庭に刺し身が普及しつつある様子がうかがえる。
謎づくしの江戸の食品
日本酒の謎
1、清酒は偶然にできた、それは元禄の少し前
◆神代にもだます工面は酒がいり
◆神代にもだます酒と女なり
神代の頃から、相手を騙すためには、酒と女にたよるのが、一番の便法であるということである。
江戸の初期には、清酒つまり山吹色に澄んだ酒はなかった。酒と言えば濁酒しかなかった。
『北窓瑣談』(文政12−1829)巻一にも、
酒の今の如く清酒になりしは、わずかに百四十五年、此のかた事とぞ。今にても、西口の偏地は、皆濁り酒なり。唐土などにても、濁り酒多しと聞ゆ。
とある。これらの書物を書かれた年代から、百四十五年遡及させると、延宝年間の頃(1680年代)となる。元禄期のほんの少し前である。従って、映画やテレビの時代劇で、江戸初期に清酒を飲んでいる場面があるとすれば、それは真っ赤な虚偽なのである。清酒が出来たのは、工夫を凝らしてそうなったのではなく、偶然出来たのである。
ここでは『摂陽落穂集』(文化5序ー1808)巻3を、引用する。
往昔は今のごとく、清くすみたる酒にてあらず。皆、にごり酒にして、今のどぶ六と唱へる事なり。ある時、鴻池、山中に召還ひの下男、根性あしきものにて、主と何か口論せし事有りて、もはやこの家に奉公せじとおもひ、何がな腹いせして返らんと、当りを見廻せし程に、裏口に灰桶の有しを見付け、家内の見ざるやうに土蔵へ持行き、かの桶なる灰を酒桶に投げ込み、心よげに独り笑ひして、そしらぬ顔に立かへりける。さて、主人はじめ家内の者、かかる事とは露しらざりしが、右の酒桶の酒を汲み出さんと、ひしゃくにて汲みあげ見るに、こはいかに、きのふ迄のにごり酒、忽ち清くすみ渡りたるは不思議なりと、一口呑んで見るに、香味もまたいたって宜しくなりたるは、いかなる事やらんと、よくよく見るに、桶の底に何やらん溜りたるものありて、やがて酒を汲み出し考ふるに、これはいの桶の入りたるより、にごり酒の清くすみて、自然と香味も宜しく成りたると心得たり。この奥義をば、人に沙汰ばし致すなと、家内のものをかたく制し、それよりにごり酒に、すまし灰を入れて清くすみ渡りたる上酒とし、売り始めたりし かば、諸人不思議のおもひをなし、次第に商売繁盛し、後世富貴の第一となりたるも、いはれはかくと知られけり。
池田地方は、昔から酒造業が盛んであったが、ここの鴻池氏が、偶然の機会から清酒を作ったという記述である。
2、コクある味酒は「下り酒」「富士見酒」「戻り酒」
江戸期において、酒の名産地とされたのは、池田、伊丹である。『道聴塗説』17編(文政12−1829)には、
天下に銘酒多し。博多の練酒は洌く、鞆の宝命は甘し。上戸の常に用ゆべきは、池田、伊丹、灘の酒に越ゆるものなし。東部の製は、浅草山屋が隅田川を第一とす。灘とは、西宮より神戸へかけて、摂州海辺につづきし酒造家の総称なり。其他、三州をはじめ、江戸に入来る酒、枚挙し難し。
とあり、大消費地のえどには、霊岸島と箱崎島の堀江の「新川」の酒問屋へ、各地から搬入された。
◆さて是は伊丹入っ樽ご進物
◆徳利のお土産何より伊丹入り
伊丹の地名を生かし、「痛みいる」(恐縮に存じます)に掛けた言葉の遊びでの句であるが、伊丹の銘酒がいかに到来物の貴重品であったことがわかる。
池田の酒に使う水について、面白い話がる。『譚海』巻四(安永頃ー1772頃)に、
「摂州池田は一村酒家なり、その酒を造る水を、その所の川水をくみてつくるなり」
とあり、その川の上流で獣の皮を洗う人々が住んでいるので、公訴して川洗いをやめさせたところ、池田の酒がさっぱりとう旨さがなくなってしまった。酒家は驚いて、再び上流の人たちに皮洗いをしてくれるように頼み込んだ。そして、もとに復したところ、酒の味も戻ったということである。酒のコクについては、意外なものが役立っている実体である。
また、池田、伊丹の酒を舟に積んで、江戸まで回遊して来ると、味合いにコクがひときわ出ると言われる。これを「下り酒」と称して珍重した。遠州灘の荒波に楺 まれた酒は、「富士見酒」と俗称されて、上酒とされる。また、江戸に送った酒を再び馬の背につけて、東海道を上り、西に運んだ酒は、「戻り酒」と名付けて、珍重するとも言う。
『摂陽見聞筆拍子』(発刊未詳、新燕石十種)巻一に、
伊丹池田の造り酒は、生諸白といふ。元来、水のわざにや、造り上げたる時は、酒の気ははなはだからく、鼻をはじき、何とやら苦くあるやうなれども、遥かの海路を経て江戸に下れば、満願寺は甘く、稲寺には気あり。鴻池、ことに辛からずなどとて、その下りし侭の樽より呑みて、味ひ格別なりと賞翫す。
とある。「満願寺」「稲寺」「鴻池」は、ともに酒造家の名である。
◆いずれ菩薩は道明寺満願寺
「菩薩」は米の異称。「道明寺」は粳米を粉にしたもので、白玉餅などの原料にする。「満願寺」は酒造家の名。収穫された米も、いずれは加工されて白玉や酒に変身することを、仏教臭を利かせた趣向である。
◆満願寺づぶ六殿の旦那寺
「づぶ六」は酒に目が無い人のことで、「満願寺」の酒ならば、喜んで一滴傾けるという実体を、いつもの行きつけの「旦那寺」を持ち出した趣向で、これも「寺」尽づくしである。
◆男山舟で見合いのさやく姫
「男山」は、伊丹の酒の銘である。「男山」を積んだ舟が、遠州灘で富士山を望見しながら運航しているのを、男と姫の見合いという趣向を凝らしている。「木花咲耶姫」は、富士山の神と言われる。
◆上かたの高根に見へる富士見酒
「高根」と「富士」との語呂を配して、上方から下った富士見酒が、普通よりも高い値段で売買されることを言外に含まれている。
3、酒樽はなぜ杉の木か
酒造りの桶は、すべて杉の木を用いる。『譚海』巻八(安永頃ー1775頃)に、酒を造る桶は皆杉なり、古木を用いるなど、酒よく出来るなり。名酒を造る桶は、五六百年に及ぶ板にて造りたる桶なる由。とある。
『瓦礫雑考』巻下(文化十四刊ー1817)には、
酒屋の軒に、杉の葉束ねたるをつることは、杉の葉を酒にひたす事あり。又、木香といひて、よき杉の木の根を削りたるを、酒の中に入るることあり。又、酒に用いる器物、みな杉にて造るものなれば、これらによりて、かくするかとおもへど、猶よくおもふに、杉の葉を酒にひたすことは、味変わりたるをなほさむとて、すること也。
と述べられ、木香を付けることによって、味をよくすることともに、味の変わった酒を直すために、杉木が用いられるようである。
酒樽の四斗入りのものは、菰をかぶせて包んだ。これを「菰被り」と言う。
◆片口へ小便たれる菰かぶり
◆菰っかぶりの小便が上戸すき
酒樽の菰被りは、酒屋の棚に置いておき、木製の注ぎ口を底の方に差し込んで、木栓を抜くと、酒が自然の重量で注ぎ出る。これを小便になぞらえている。また「菰被り」は、着物が無く菰を身に纏っているところから、乞食の異称でもある。従って、この画句も乞食の様子をも、下敷きにしている。
◆菊水は菰被りには過ぎた奴
「菊水」は、池田の銘酒。この句は、菊水の紋のある菰を纏っている乞食のことである。乞食には菊水の紋のある菰」は、分不相応であることを言う。
現代では、あまりお目にかからないが、昭和中期頃まで、酒屋には樽酒が置かれていた。客が「おい、一合、くれ」と言うと、樽酒の注ぎ口の木栓を抜いて、一合枡へトクトクと酒を注いで、キュと音をたてて栓を締めるのは、なかなかの風情があった。木栓が適度に酒に湿っているので、木栓を抜いたり、差し込み締めたりすると、独特の音を発するのである
4、下り酒の銘、「男山」「七つ梅」「花筏」「八重桜」
川柳に詠まれている酒の銘柄を並べると、まず、「男山」。これは伊丹産である。
◆元服の祝儀は酒も男山
◆呑口をおやしてひょぐる男山
「男」を意識して作った句である。男子の元服には「男山」と言う銘の酒が相応しいということである。「ひょぐる」は小便をするという江戸語である。樽酒の「男山」が置かれ、木の呑口がぴんと立っている様子を男児の朝の溜小便に例えている。
◆男山車力こっそり岩清水
今日と南部にある。男山の岩清水八幡宮に掛けた趣向である。樽酒を車に積んで運搬する途中で、喉の乾いた車力が樽にこっそり穴を空けて、盗み飲みしている状況を言う。
◆奥の気晴らしお銚子も男山
男っ気ない、大奥の奥方や姫君や御殿女中たち。酒を飲むなら、気晴らしついでに、銘柄も「男山」にするということである。
伊丹の木綿屋で造った酒は「七つ梅」である。『瓦礫雑考』巻下(文化十四刊ー1817)に、
五雑俎にも泉ハゲシケレバ酒香バシといへる如し。故に、摂津国伊丹にて造るよき酒に、星の井と名づくる酒あり。俗にこれを七つ梅といふ。樽つつみたるむしろに、七『瓦礫雑考』巻下(文化十四刊ー1817)には、星をしるしにつけたるが、うめばちといふもんのかたちに似たる故なり。
◆七つ梅ふり出す袖の梅で散り
「七ツ梅」と「袖の梅」の語呂あわせであるが、「袖の梅」は吉原廓内で販売した。酔覚ましの薬である。梅の関連から「散る」と表現しているが、「七ツ梅」を飲んで悪酔いしたので、それを直すために、「袖の梅」を服用したと言う意味である。
◆帯解きの祝儀の酒も七ツ梅
「帯解き」は、七五三の七歳時の祝いで、主に女児が該当する。「帯解き」の七歳と「七ツ梅」の「七」を掛けた技巧の句である。
◆伊丹から積んで掉さす花筏
「花筏」は伊丹の銘酒である。伊丹から船積みして、江戸へ回遊してくる様子を、「棹」と「筏」の緑語であらわしている。
◆気の浮いた池田伊丹の花筏
池田伊丹から江戸へ運ばれた酒を飲んで、気が浮かれることを言う。「八重桜」も、伊丹の銘酒である。
◆八重一重散り込む隅田の花筏
隅田川河畔の花見の時に、花びらが盃に散りこむ風情を述べながら、「八重桜」と「花筏」の銘酒を同時に詠み込んでいる。
◆片口へ滝は伊丹の八重桜
「片口」は、中柄の銚子のことで、その銚子へ樽から酒を注ぎ込むことを、「滝」と表現している。
5、江戸の地酒は隅田川の水で作った「墨田川」」
浅草雷門並木町の山屋半三郎店で、寛永年中(1623頃)に隅田川の水を使って創生し、伝法院公英僧正に献上したところ、称賛されて「隅田川」という銘を賜ったと伝えられる。
◆ありやなしやと振ってみる隅田川
◆いざこと問はん一升はいくらする
◆まだありやなしやと樽の隅田川
「伊勢物語」の東下りの隅田川の場面で、「名にし負けはばいざ言問はん都鳥わが思ふ人ありやなしやと」と詠んだ著名な歌がある。この歌の文句を援用して作られた句である。徳利や樽に、まだ「有るのか無いのか」と酒の有無を確かめる動作や、隅田川は一升いくらするのか聞いてみようという趣旨の句作である。
◆吸筒の中も名所の隅田川
隅田川河畔は、桜の名所として春には人々が集まり、賑わった。「吸筒」は竹製の水筒で、隅田川の花見に持参する水筒にも「隅田川」が入っているという寸法である。
◆気違ひ水もひんのよい隅田
◆品のいい気違ひ水は隅田川
酒の俗称は「気違ひ水」とも呼ばれるが、この両句ともに謡曲「隅田川」の、梅若を一途に探し求める母親に掛けている。
また、駒形町の内田甚右衛門の店の銘酒として、「宮戸川」「都鳥」があった。鯉丈の『和合人』(文政6−1823)に、
「是は宮戸川と申す御酒だはな。」「都鳥とついた樽が1本ねへと、台所がしまらぬへ様だは。」
などとあり、庶民には知れ渡っていたようである。
◆網舟で呑んでる酒も宮戸川
◆涼み舟網手の猪口で宮戸川
宮戸川は、隅田川の別称であり、そこに舟を浮かべて漁労をしながら、その川と同じなの酒を呑んでいることを言う。
◆都鳥飲んで足まで赤う成り
隅田川に生息する鴨を「都鳥」と呼ぶが、鴨の足がピンク色であるので、「都鳥」を痛飲して真っ赤に酔い痴れたことを述べている。
和泉町の四方の店で売った「瀧水」も、江戸の地酒として有名である。
◆瀧水を升で量る和泉町
◆四方の瀧飲めども尽きぬ和泉町
瀧の水と酒との関連づけた句作である。この四方の店は、内田屋と言い、名酒「剣菱」と赤味噌をも売り出し、評判をとっていた。「剣菱」は、もとは伊丹の酒であるが、江戸中期からは内田屋が販売元となっている。『五月雨草紙』(慶応4−1868)によれば、物価高騰の幕末の値段であるが、「剣菱」一省「280文」と記録されている。現代でも「剣菱」は酒好きの間では嗜好されている。
◆すき腹へ剣菱ゑぐるやうにきき
「剣」のイメージを利かせた趣向である。刀で腹をえぐるように、酒がしみ渡るというのである。著名な酒であるので、川柳にも多く詠まれている。
◆剣菱で出来た喧嘩が隅田川
「剣菱」を飲んで酔いい、喧嘩騒ぎとなったが、喧嘩の仲直りは「隅田川」を誓い酒として手打ちのしたということである。
◆剣菱の大紋を着る俄雨
突然の雨に、剣菱の紋が大きく書かれた酒菰を引き被って、雨具の代用とする場面である。
6、酢のような安酒は一合八文、時代の下降とともに高騰する
酒の価格の変遷については、太田南畝の『金曽木』(発刊未詳、随筆大成)に、子が稚きころ、(略)酒の価、1升120文、132文を定価とす。賎しきは80文、100文もあり。中比、148文、164文、200文にいたり、240文ともなれり。是は明和50戊子より、南鐐4文銭出来て、銭の相場賎く、物価貴くなれるなり。
とある。太田南畝の幼き頃とは、大体、宝暦明和の頃(1700年代半ば)である。江戸時代初頭の元和期(1600年代初め)は、酒1升24文であり、嘉永通宝が流用しはじめると、物価は上昇し、慶安期(1600年代半ば)には40文から60文となり、元禄期(1600年代末期)は酒1升90文、宝暦明和の頃(1700年代半ば)では120文ぐらいとなり、文化文政期(1800年代初め)で200文と上昇している。
◆高い水壱升九十五文なり
天明2年(1782)の川柳に、このようにあり、その高騰ぶりに庶民的な感情では、ついて行けないという嘆きの実感である。
馬子や陸尺(駕籠かき)や車力などの肉体労働者が飲む酒は、1合8文か12文であった。仕事が終わって,煮売家(居酒屋)などで簡便に飲む。
◆八文が飲むうち馬は垂れている
馬お近くの木などにつないで、馬子が8文の安酒を一杯ひっかけている間,所在なげな馬は小便を長々と垂れているという場面である。
◆八文は味噌を片手にうけて飲み
酒肴も安価なもので間に合わせるので,安酒に味噌という取り組みである。
◆豊島屋で又八文が布子を着
「豊島屋」は安い田楽で酒を飲ませるので、有名な店である。防寒着の代わりに、八文の一合酒をあおって体を内部からあたため、それで布子(防寒着)を着たような気になるという。庶民の実体である。
次は,1合12文の酒の場合である。『無事志有意』(寛政10−1798)に、
何さ,しょせん,辻八卦は言ふ事があたる物じゃねえ。それより十二文出し一ッぱい呑むのがいい。
とあり、安価な酒は12文という認識があったことがわかる。
◆夕立に困って下戸も一二文
裕方の俄雨煮遭い、慌てて屋根の下に飛び込んだが,そこは酒屋であったので,雨避の返礼として、飲めない酒一合購入する加笑しみである。
◆一二文が酢を下戸ふるまはれ
酒好きな男に付き合っている下戸である。「まあ、いっぺえ、飲みなよ」などと、酢に近い安酒を強いられている場面である。
『よしの冊子』14(寛政期ー1700年代末期)に、酒に関する面白い世情が記録されている。少し長いが、当時の様相が浮き彫りにされている。
本銀町きの国や五平衛手代秀之助、御免の新製酒屋をさしだし、「亀代住」「このきみ」の銘酒を商ひ、一樽につき三七両二分、一升につき百匁壱分(116文のことかと思う)づつに売り払い候よし。湯島近辺より買人引き続き参り、としまやの白酒を売り候時の如く、店一ぱい、番付などにて売り渡し、大繁盛いたし候由。もっともこの節、田舎新酒も所々酒屋にて商ひ、一升に付き百八文づつにてござ候由。このたび、審査蚊帳一升に付き百十六文にござ候間、少々値段は高値にござ候へども、新酒屋のはずいぶん呑み申し候由。百八文はのめ申さず候由。
とあり、これは寛政2年(1790)の夏のことである。新酒屋が開店し、「亀代住」「このきみ」となずけた酒を、1升116文で売り出した所、大繁盛したという記述である。田舎の安酒に一升百八文のものもあるが、これは不味くて飲めないとも記されている。下直の酒が流行しはじめたので「満願寺」「剣菱」なんどの名酒も値下がりすることを、上戸たちは期待したが、期待外れであったとも書かれている。
とかく粕くさく、甘たるく、逆上いたし、腹合あしく、いくら呑候ひても、少しもきき申さず、ただ小用ばかり出候とさたし候よし。その上、田舎新酒、壱升に付百八文くらい、所々に出候に付、同じ値段で同じ位呑んでは、少しも面白くないものだ。
とあり、安酒は、酒粕の匂いが濃厚で、甘く、頭にばかり響き、腹具合も悪くなり、多量に飲んで一向に酔った気分になれないというのである。
◆首ばかり生酔なる田舎酒
「生酔」は、今で言えば泥酔のことで。安い田舎酒を飲むと、頭にだけ酔いが廻り、全身の陶酔感には程遠いことを言う句である。
酒屋の値段表が、『三省録』(天保14−1843)に載っている。この値段表は慶安期(1600年代末期)のものであるので、江戸初期である。
げんきん 御めしるし 酒酢醤油直段附 鍜治橋御門前南角 小島屋嘉平衛
| 新諸白一1升に付 |
| 1 |
大阪上酒 |
代四十二文 |
| 1 |
西宮上酒 |
代五十二文 |
| 1 |
西宮極上酒 |
代六十四文 |
| 1 |
伊丹上酒 |
代七十文 |
| 1 |
伊丹極上酒 |
代八十文 |
| 1 |
山路木綿屋 |
代九十文 |
| 1 |
極上味醂酒 |
代百文 |
| 古酒1升に付 |
| 1 |
大阪上酒 |
代六十四文 |
| 1 |
西宮上酒 |
代八十二文 |
| 1 |
伊丹西宮上酒 |
代八十文 |
| 1 |
池田極上酒 |
代百文 |
| 1 |
大極上酒 |
代百十六文 |
| 1 |
大阪上々酒 |
代百三十二文 |
| 1 |
焼酎 |
有り |
この表から、産地や売値が分かって興味深いが、「諸は記」とあるのでこの頃はすでに清酒であることも了解される。
酒の売値については『守貞漫稿』(嘉永6ー1853)にも、
文化文政中、上酒二四八文ばかり、今安政に至り、一升三百四十五文より、或は四百文なり。
と記録されている。江戸の初期より二百年の間に、実に一升の値段は十六倍に高騰している。
7、酒のいろいろ、女も好んだ味醂酒とワイン
日本酒は、燗をして飲むのが普通である。暖めることにより、酒に含まれている毒素が消滅すると言われる。『三養雑記』巻3(天保13−1842)に、
唐の白楽天が、仙遊寺に題す詩に、林間ニ酒ヲ暖メテ紅葉ヲタクといへる句、朗詠にも載せて、人の知るところなり。酒をあたためて飲むこと、むかしよりのならはしなれど、今世のごとく、四時ともに常にあたためるにはあらず。
と述べられて、古式では9月9日の重陽の節句から暖めるとしている。
酒を燗して飲むことは、江戸時代にも実際に行われているが手っ取り早く飲む時には冷や酒が多かった。俗に「冷や酒と親の意見はあとで効く」とも言われる。
◆徳利は井戸へ身投げの冷やし酒
夏には、冷や酒として愛飲されていた。徳利に縄を結んで、井戸の底に沈め、充分に冷えた頃に引き上げるのである。
◆冷や酒は五臓六腑の家尻り切り
「家尻り切り」は、盗人が家屋の裏を破って侵入することである。冷や酒を飲むと、内臓に直接酔いが廻らず、暫くしてから変な具合に酔ってくる実感を言うのである。
味醂酒は、焼酎、糯飯、麹を混和して醸造した酒で、甘味があるので、女性に好まれた。『三省録』(天保14−1843)に、「極上味醂酒、百文」とあり、一升の値段である。普通の清酒よりは高値である。
◆味醂酒も茶碗で飲めばすごく見へ
盃などで上品に飲むと、いかにも女性の酒という雰囲気があるが、茶碗へたっぷり注いで飲む様子は、異様な感じがするのである。
◆褒めぬこと嫁味醂酒が嫌い也
初々しい嫁が、「味醂酒は、あまったるくて、嫌いだわ」などと言うのは、言外に普通の清酒の方が好きだということで、これは感心できないという、男の心情である。
◆味醂酒が効いたで嫁は琴を出し
一曲弾いてくれと人に勧められても、始めは恥ずかしがって弾く様子は見せなかったが、味醂酒を相伴しているうちに、酔いに紛れて度胸が座り、「それでは」と言って、琴を用意するという場面である。
◆味醂酒で真っ赤誠の面汚し
これは男の場合であろう。あまり酒に強くない男が、味醂酒で酔って顔が真っ赤になったのである。「真っ赤な嘘」という成語を利かせ、「真っ赤な誠」と「真っ赤な面」を掛け、それに「面汚し」と続けた趣向で、味醂酒で酔うとは、ほんとうに情け無いという訳である。
「あられ酒」も味醂酒の一種で、水に漬けた蒸米と麹を入れる。別名「霙酒」ともいい、奈良地方の名産である。
◆あられ酒あんまり人の呑まぬもの
江戸の町では希少で、あまり庶民の目には触れなかったようである。
「桑酒」は、桑の実を入れて醸造した酒で、味醂酒に似ているが、芳烈という。京都の名産と言われる。
◆桑酒を具合の悪い人が呑み
江戸の庶民は、常用しなかったんであろう。桑の木箸は長寿の呪いとされるので、桑の薬効を期待して呑むというのである。
「菖蒲酒」は、菖蒲の根を刻んで、それを浸した酒である。「あやめ酒」とも言う。5月5日の端午の節句に、邪気に払うために飲む。
◆勇を奮って乳母も飲む菖蒲酒
男児の世話を焼く乳母も、付き合い上から、飲み慣れない菖蒲酒を、思い切って飲む情景である。
「珍陀酒」は、現代流に言えば、ワインである。『独寢』(享保12頃ー1727)に、
今、南蛮よりチンタといふ酒わたるなり。これも葡萄の汁にて造りたる酒なり。
とあり、また、俳諧集『明和辛卯春』(明和8刊ー1771)に、炭太祗の句として、
紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て
と載っており、江戸中期には、通い人の間では知れていたことがわかる。川柳にも、
◆ぢんだ瓶持たぬばかりの座敷持
という作がある。「座敷持」は、吉原遊郭で、部屋持の上に位した上位の遊女のことである。自分専門の座敷を所有する高級遊女で、その座敷には名画や琴や様々な高級な調度品が設えてあり、ワインの瓶が置いてあっても相応しい程の様子であることを言う。
8、鍋で煮る煎り酒、焼酎を多飲して引火して死ぬ
次は「煎り酒である。現代ではあまりお目にかからないが、鍋で酒を煮詰めるものである。酒に醤油を加え、削り節を入れ、それに梅干を数個入れて、焼塩で味付けをしてから、鍋で煮る。この「煎り酒」は、グビグビと飲むものではなく、一種の調味料のよう使い方をしたように思う。
◆入り酒を鍋にのまれて叱られる
◆うろたへていり酒鍋に皆のまれ
煎り酒を鍋で煮詰めているうちに、ちょっと気を許している間に、水分がなくなって蒸発してしまった状況である。焦げ付かないように、かなり丹念に煮たことが推察される。また、煮詰めている最中に火災が出るという句もある。
◆いり酒について狐火のげいをさせ
◆いり酒をひうどろどろにしてしまひ
◆煎酒をヒウドロにして下女は逃げ
手品師が、仕掛けを使って火を燃やしたり、芝居などで「ひょうどろどろ」と鳴物が鳴ると青い火が宙を舞って、幽霊が出る場面をイメージして、炭火に零れた酒に引火した様子が述べられている。
『卯花園漫録』(文化・文政頃ー1800年代前半)に、煎り酒の早作りが記録されている。
早煎酒の法。酒三盃、醤油半盃、大梅五つ鰹節沢山にて、右の割合にてよし。 最も色赤過ると思はば、醤油を減じ、焼塩を加へ、あんばいすべし。
梅干しや塩を加えて煮るので、長期の保存にも堪えると言われる。
次は焼酎である。『和漢三才圓會』(正徳3−1713)には、「焼酎」「火酒」「アラギ酒」とあり、製法を記したあとに、「その清き水の如きなるを取る。味極めて濃烈なり。けだし、酒の露なり」とあり、別項として、
阿蘭陀のアキラ酒、琉球及薩摩の泡盛酒は、皆かの国の焼酎なり。気味甚だ 辛辣。皆此等は皆、生酒を蒸し造成す。
とあって、泡盛にまで言及している。焼酎はアルコールの度合いが高いので、あまり江戸の人々には馴染みの無い酒のようである。『北窓瑣談』(文政12刊ー1829)には、「九州の俗、好んで焼酎を多く飲む事なりとあり、一女性が大いに焼酎を飲んで炬燵にあった所、口より煙を吐いて燻って死んだという例を挙げている。また、『三養雑記』(天保13刊ー1842)には、焼酎を多飲した男が、煙草を吸ったため、口から炎を発して死んだことが記されている。
◆焼酎を口おしそふなつらで呑み
強い酒なので、ガブリと飲むわけには行かず、おちょぼ口で少しずつ飲む様子が描かれている。また、傷の消毒として焼酎が使われている。
◆焼酎で引のしをする向こう脛
怪我をした脛に「火延し」(現代でも言うアイロン)をあてるように、焼酎を平均に掛ける状況である。
泡盛は琉球・薩摩の特産なので、次のような句がある。
◆鶏肋で泡盛をのむ薩摩部屋
薩摩屋敷の仲間の長屋では、時折、鶏の肋の部分の骨付き肉を炙って、故郷の泡盛で酒盛りをする実態を言っている。やはり、中国料理の影響なのであろう。江戸の町の人々が鶏を食べるのは、正月の雑煮に入れる程度であった。
◆泡盛で目に見ぬ五臓透き通り
琥珀色の日本酒と違って、清冽に透明な酒なので、痛飲すると五臓六腑が透き通るような感じがするという。想像である。『退閑雑記』(寛政9序ー1797)28編には、「泡盛、琉球製也」とあり、泡盛専用の徳利を図示して、
わら包にて来る也。凡そニ合半ばかりを納れたり、名づけて、「ひとわかし」と言ふ也。
とあって、幕末には江戸の町へも渡米していたことがわかる。泡盛に悪酔いした時の手当てとして、『海録』巻18(発刊未詳・国書刊行会本)に、
泡盛にあたりたるには、豆腐一丁余も総身へぬり附くれば、毒を解くといヘリ。 これは薩摩人の伝の由。
とあって、ニ日酔いの解消のために効くと言う「きらず汁」同様に、大豆製品の効用が述べられている。
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