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 謎づくしの江戸の食品

砂糖の謎、唐三盆とは何か  

1、砂糖は舶来品、その名も唐三盆

 江戸時代の百科事典、『和漢三才圓會』(正徳3−1713)には、白砂糖、氷砂糖、黒砂糖、石蜜とあってすべて外国から渡米し、長崎を経て全国に広められると述べられ、日本での産地は記されていない。これによって、江戸中期には、砂糖はすべて舶来品であり、また貴重品であったことがわかる。
 白砂糖の上品を三盆と言い、また唐来品であったので、『唐三盆』と言う。白砂糖を精製した上等のものに、なぜ「三盆」の字を当てたかは不思議である。そこで『俚言集覧』(明治38増刊)を引くと、
 砂糖の上品を云う。(増)初めの舶来せしは、支那人三品なりしより、起こりし名 なりといふ。
とあり、さらに『守貞漫稿』(嘉永6−1853)28編には、
 日本上古これなく、中古以来、長崎入船の蘭一種を持来る。蘭館の地名を出島 と云ふにより、其糖を出島白と云う。支那よりは三種白糖を持来る。上品を三盆本と云う。次を上白、下品を太白と云う。
と記されているので、「三盆」の謂われがほぼ了解される。つまり、中国からの舶来であるので「唐」、その時に白糖の上等・中等・下等の三種の砂糖が入来したため、三種の内の最高級という意味で、「三盆」と言われたらしい。次いで、「上白」「太白」と呼んだこともわかる。
 当時、し白砂糖は高級品であり、薬として扱われたので、薬種屋(または生薬屋・木薬屋)で売られていた。売値は、「一斤で拾匁ぐらい」『梅翁随筆』(寛政年間ー1700年代末期)と記録にあり、およそ銭に直すと一斤で六百文ぐらいである。約六百グラムで六百文である。百グラムの砂糖が百文というのは、庶民たちの一家族の一日の生活費が200文ぐらいであったことからすると、かなりの高価である。当時の物価の目安を、筆者は「低廉な盛り蕎麦一杯が十六文」「おひねりのお賽銭が十二文」から起算することにしている。
   ◆生薬屋つぼから出して泣き止ませ
 
泣くてむずがっている幼児に、砂糖を少量与えて機嫌をとる状況である。だだっ子にも、砂糖の甘さは抜群な効果を上げたのである。


2、黒砂糖を一日百六十樽嘗めた江戸庶民
 
江戸の庶民たちは砂糖の甘味を知るようになってから、その旨さに魅了され、白砂糖が日本で生産される以前は、粗悪な黒砂糖の甘ささえ珍重している。『俗耳鼓吹』(天明8−1788)によれば、
    江戸の人、一日、黒砂糖百六十樽を嘗るといふ。
とある。黒砂糖は享保の頃(1700年代初期)から作られ、薩摩が主産地である。棺桶の樽に似た樽詰で運搬されていた。
   ◆黒砂糖死人のやうにあつかはれ
 
  ◆早桶はらりぬっと出る黒砂糖
 人々の目には棺桶の樽が馴染み深いから、いかにも死人を詰めているように思えるのである。桶を解いてみても、黒砂糖は湿気を含んで一体化しているので、米や豆のように流れ落ちることは無く、桶一体分がぬっとたっているのである。
   ◆須弥山のやうに出しとく黒砂糖
 
これは砂糖屋の店頭風景である。桶から出された黒砂糖が固まったまま立てている様子で、これを仏教の世界観にある。世界の中心にそびえる空想上の須弥山に例えている。庶民たちは、寺の曼荼羅図や掛け軸の絵などで須弥山を見知っているのである。
  薩摩が主産地であることについては、写本の『肝付兼武談話』(幕末)に、
 薩摩は満天下に行渡るほど夥しき砂糖を出して、右の払高にて、江戸在勤一箇年の 費用をつぐな由。御家中へは、君候より年中入用の砂糖を給る。然れども必ず黒砂 糖なり。
とある。
   ◆黒砂糖道々なめて高がらせ
 
黒砂糖を少し買って、嘗めながら道を歩き、その様子がいかにも高慢らしく見えるという情景である。


3、白砂糖の製造は寛政期(1700年代)から
 
白砂糖の製造は、宝暦(1751)・天明(1781)・寛政(1789)期の頃から始まったとされる。文献によって時代に差があるので、一概に治定できない。8代将軍吉宗が
甘しょを浜御殿に植えさせ、砂糖の製法の研究をさせたという記事が『譚海』(安永〜寛政ー1700年代後半)にあり、「宝暦中、終に白砂糖に製し得る法を考え出し」たとある。また、『塵塚談』(文化11−1814)には、
 寛政元年の頃、川崎駅、葛西さかさ井辺にて造りしが、夏に至れば水飴の如し。ただおもちゃにするのみ。商物にはならざりし。然るに、近頃は紀伊国四国辺にて作り出し、氷砂糖まで製造す。別して讃岐国の産、雪白の如く、舶来にいささかおとらず。文化元年の頃よりして、菓子の類に商人ども専ら用ゆ。同八九年よりは、薬種屋は舶来に交て商ふ事になれり。
とあって、1800年代初頭から流通し始めたことが窺える。『梅翁随筆』(寛政年間ー1700年代末期)では、寛政9,10年以後に、世間に行行き渡ったと述べ、『宝暦現来集』(天保2序ー1831)では、「文化の初めより」見え、『守貞漫稿』(嘉永6−1853)はで、「其創製は天明・寛政のころなるべし」とある。
   ◆雪白の和製唐でも恐れてる
 
近松門左衛門の浄瑠璃『国性爺合戦』(正徳5初演ー1715)の主人公、和籐内に掛けて、この句の作られた天保6年(1835)頃には、すでに我が国で白砂糖が普及していることを示唆した句である。
   ◆去った晩餅や砂糖で夜を明かし
 
赤子を残して女房に去られた深刻な場面である。赤ん坊がひもじさに夜泣きをするので、残された亭主が餅や砂糖を食べさせ、一晩中、まんじりともせずに過ごした様子である。この句に詠まれているのは黒砂糖である。
   

4、砂糖入りの商品は冷水売りから
 
日本で白砂糖が作られても、舶来物に比べて甘さが劣っていたようである。『宝暦現来集』(天保2序ー1831)に、
 近頃の至り、和製の砂とう、九州筋にて専ら出来しける。身分は唐物・紅毛よりも宣しけれど、甘さ薄きなり。何れ、暖気の地ならでは出来ず。く薬店、砂糖屋にこれある細長き綺麗なる桶は和砂とうの入りし桶なり。渡り物は桶むさくるしく見えける。
 と記載されている。庶民たちは、砂糖の甘味を知ってからは、以前の干し柿やかぼちゃの甘味を駆使して、熱狂的に受け入れられた。そして、商人は砂糖入りの品物を販売し始めた。特に、夏の夜に露天で売る冷水売りは、砂糖を使ってることを強調して、振り売りの宣伝をしている。その売り言葉は『両国栞』(めいわ8−1771)に、
    ひゃっこい、汲みたて、どうみょうじ、さとう水
とあり、同様に『叶福助略縁起』(文化2−1805)には,
    くみたて、ひゃっこい、道明寺、砂糖水。
などと記載されている。「道明寺」は、道明寺粉(もち米粉)で作った白玉(小さく丸めてゆでた団子)のことである。ここで売る冷水は、近くの井戸から汲んだ冷水に白玉を浮かした砂糖水である。女や子供たちに好まれた飲物であった。
   ◆水売りの砂糖何だか知れぬなり
 
明和期の句であるが、この頃はまだ白砂糖は一般化していないので、「砂糖入り」と言っても、あまり甘味が少なかったのであろう。
   ◆白玉にかける砂糖も露と消え
 
「伊勢物語」を引用した謡曲『雲林院』に、「白玉か何ぞと人に問ひし時露と答へてけなましものを」という和歌があるが、これを援用し、白玉餅に甘味を添えるために掛ける砂糖も、ほんの少しばかりで露のように消え去ってしまう現状を言う。
   ◆仕舞迄きれいに呑むは砂糖水
 
子供などは、砂糖水を一滴も残さぬように全て飲み干すのである。


5、砂糖入りの菓子が出回る
 
 『やくたい草』(明治6序ー1873)に、
 寛政より文化の初めまでは、商店に砂糖入り饅頭といふ看板をかけたる所、まれまれにありて、饅頭に砂糖は入れざるもののよしなり。
とあるが、饅頭に砂糖は入れないはずのものであるのに、砂糖添加とは奇異であると述べている。しかし、実にこの頃から菓子類に砂糖を入れることが始まったという証になる記録なのである。
   ◆草餅へふれば砂糖も別れ霜 
   ◆霞ほど砂糖最中の月へ掛け
 庶民たちの砂糖に対する執着が、よく現れている。草餅や最中にまで砂糖を掛けて、その甘い旨みを感得しているのである。江戸末期の小説家、滝沢馬琴(1767〜1848)の『馬琴日記』をパラパラと捲ると、随所に砂糖が出て来る。
   文政10年(1872)10月2日、小松屋にて黒砂糖求之。
   同廿七日、昼後、画工英泉来ル。氷砂糖壱曲、被恵之。
   同十二月廿日、夕七時過、英泉来ル。為手土産、白砂糖一袋、かも折詰、持参
などとあり、砂糖が庶民の生活にいかに浸透していたかがわかる。手土産を初めとして、中元、歳暮、寺子屋のつけとどけには、決まって白砂糖が用いられた。平成の現代でも、贈答品に白砂糖が使われることが多いのは、この江戸時代の習慣の名残りである。砂糖の天保期(1830年代)の価格について、同じく馬琴の『異聞雑稿』によれば、次のように記されている。
 砂糖は去年まで、和白上光印一斤百八十文、黒砂糖一斤百十六文なりしに、癸巳(天保4−1833)の春より俄かに登りて、和白上光印一斤三百五十文、黒砂糖一斤に二百八十文になりたり。然るに、田舎行きの砂糖、絶へて売れざる故、冬十月頃より並和白二百文、百八十文。黒砂糖百二十二文に下落したり。三光印一斤二百四十五文、三盆雪白は三百文ばかりなるべし。糯米、砂糖とも高値なる故、餅菓子、乾菓子共に其形半分になりて、甘味薄かりしに、砂糖の値、元の如くになりしより、聊か甘味ありという。
 この記述によっても[三盆雪白」とあり、これが砂糖の高級品であることがわかる。 

北風の酢

1、酢は昔から調味料
 
酢は、昔から調味料として使われている。種類も多い。『中陵漫録』(文政9序ー1826)には次のようにある。
 酢の類、種々あれども、薬に用ゆるは米酢といふ酢を用ゆ。(略)梅子の酢、食用の第一とすべし。その外、橙子もまた宜し。西洋にて用ゆる事あり。また、柚子も魚肉に洗ぐべし。また備前に木酢あり。食用によし。八丈島に柚子に類して、その実を酢として用ゆるものあり。これ即ち肥前の木酢なるべし。奥州にしどめと言ふ、小樹の実より酢を取りて用ゆる処あり。
 この記述によれば、米・梅・橙・柚子・柑橘・木酢などの種類があることがわかる。また、『譚海』巻13(安永〜寛政ー1780年代)に、
 ぼけ、一名しどみといへり。田舎にては実を醸して、酢にかへつかふといへり。甚だ酢気つよくして、用ひがたき物と言へり。
 とあって、『中陵漫録』で述べている。江戸中期の百科事典『和漢三才圓會』(正徳3−1713)には、「米酢、梅酢、万年酢」の三つを挙げ、産地として、
    泉州及び摂州兵庫、良トナス」。相州、駿州マタ名酢ヲ出ス。
と記している。酢の一般的な使用は、トコロテンである。長方体のトコロテンを突き出し器で、丼や小皿に紐状に突き出してから、急須のような木製の注ぎ器で酢を掛ける。好みによっては醤油も掛ける。
    ◆杉の葉の中から酢が出醤油が出
 
注ぎ器の細口には、杉の葉が差し込んであるが、これは液体が四囲にほとばしらないためと、水切りがよいためである。この杉葉を差し込むという方法は、現代ではほとんど見られないが、当時は当たり前の装置であった。

2、酢は低廉、一合三文
 
酢は、低廉であった。茶碗一杯が三文ぐらいである。一合が三文というところか。「酢を買って来い」と言いつかると、茶碗を持って酒屋に行くのが普通で、なみなみと茶碗へ入れた酢を、雫さぬように水平に携え、静かに歩き帰って来る。
   ◆いそがずばゆれまし物を茶碗の酢
 
急がなければ揺れ雫すことはないのに、何でそんなに雫すのか、というニュアンスであるが、この句は、太田道灌の歌といわれる[急がずば濡れざらましを旅人のあとより晴るる野路の村雨]の文句を援用した趣向である。
   ◆三文が酢を買って来る能かがり
 
三文で購入した酢を茶碗に入れて、能の歩く動作のようにしずしずと体の上下運動をせずに、歩んで来る状況を言う。


3、産婦には酢の気を嗅がせる
 
酢は食用以外にも、外傷の消毒用にも使われるが、庶民たちに知悉(ちしつ)されているのは、産婦の気付用である。『和漢三才圓會』に、
   産婦ノ房中、常ニ火炭ヲモッテ酢ノ気ヲタダヨハセテ佳トス。酢ハ血ヲ増セバナリ
とあり、胞衣(えな)が下がらない時には、用いて神効があると説いている。
   ◆酢の訳を聞いて酒屋の内儀起き
   ◆酢だそうなしんぜ申せと内儀起き
   ◆更けて妻戸の訪れは酢をくんな
 
急に産婦が産気付いて、失神寸前になったので、慌てて夜中に酒屋へ酢を買いに走る。バタバタと戸を叩いて[酢をくんな。産気付いて大事なんだ]と叫ぶ。同想の句があるということは、現実にこんな状態が多くあったことの証である。
 産婦の気を保たせるために、酢を蒸発させてその空気を吸わせるのであるが、実際の方法としては石を焼いて熱くし、それに酢を注いだものらしい。
   ◆焼石に酢とはめでたき騒ぎよふ
 
病気とは違って「焼き石を用意しろ」「酢はあるか]などと騒ぎ立てるのは、人間誕生のめでたいドラマなのである。
   ◆石と酢は罷り引っ込む軽ひ産
 
お産が軽く済むのは、産婦にとっても周囲の人々にとっても慶賀なことで、特に焼石や酢を必要としなかった分娩は、これはこれでめでたい限りなのである。焼石や酢など準備万端整っていたが、それらは使うことなく、お産が軽く済んだのである。当時の出産には、焼石や酢が不可欠であった。


4、上等の酢の別称は「北風」
 
ところで、上等の酢は[北風]と称される『摂陽落穂集』巻4(文化5−1808)に、
 同郡、兵庫の津、北風六右衛門方に作れる千とせ酢といへるは、日本第一の佳味にして、関東に献じ奉る。この酢の事は諸人よく知る所なり。
とあり、ここで作られた酢は「北風」と別称されている。『絵本女雑書』(享和元ー1801)の絵に酢屋が描かれ、看板に「北風酢颪」と見える。これは必ずしも北風六右衛門方の千歳酢を売っているのではなく、上等の酢という意味のようである。

5、三聖の酢の味わい
 
酢に関しては「三教の味」という面白い話がある。孔子、老子、釈迦の三聖人が酢を嘗めたところ、孔子は「酸っぱい」、老子は「甘い」、釈迦は「苦い」という味覚の感想を洩らしたという。
   ◆三教の味わいを持つ酢の一字
   ◆品の字を寄せて三聖酢を喫し
という解説をしている。「品の字」とは、三人が口を寄せて酢を味わったので、口を三つ集めて「品」という洒落である。  

参考文献 著者渡辺信一郎 「江戸の庶民が拓いた食文化」

 

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