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マグロの町静岡 清水港ナグロまつり 07/10/05
マグロと寿司の市民フオーラム
トークセッション「寿司のまち清水が世界を結ぶ」
会場:清水テレサ 8階
■1回目発言(1,2分)
「歴史と伝統の郷土寿司」のお題目を頂いておりますので
まずはすしの変遷について少しふれてみます。
古代のすしの面影を残していると思われる近江のフナずし、岐阜のアユずしは、重石によって熟成され、
京都のサバずしは竹の皮とスダレで締め、大阪の箱すしも木箱で押すことによって熟成されて、
すし(鮓)になっております。
握りすしは握るという押しによって馴じませるすし(鮨)なのです。
江戸前すし(鮨)とはどのようなすしなのか簡単にお話してみます。
「江戸前鮨」とは「江戸湾で獲れた材料で漬けるすし」というより、
「江戸生まれ握りずし」という意味の用語として定着しておりますので、
握りずしの代名詞として見ておいても差し支えないだろうと思いますが、
すしには伝統文化と正統技術があります。
技術面から江戸前鮨を規定するならば
魚介類を下処理する。例えば振り塩で汚れた水分を体内から出すことを
”アク“抜きをすると言います。そしてコハダを酢で締める。ひらめを昆布〆にする。
アナゴを煮る時、例えば美味しい脂肪分をたんぱく質で包み込んで煮る。
ハマグリを煮漬ける、白身入り玉子を焼く等手間隙かけて味を付ける調理が絶対不可欠なのです。
従って全てのタネには違った味があり、更に召し上がる際は、煮キリ、煮ツメ、甘酢ツケ、
2杯酢にくぐらせる、オボロをかませる等
施して召し上がって頂いております。
ご存知の通りすしは日本食料理です。一人前のすしの盛り込みには和食の基本である
刺身、煮物、焼き物、酢の物等が凝縮されているのです。
すしはタネとシャリが馴じみ、調和して旨みが作られるので、
本来つけ醤油は必要なくそのまま食べて味、色彩、季節等を楽しめるのです。
更に魚の旨さとシャリの美味しさを別々な味覚で同時に味わえるように、
シャリを口に入れると「パラッ」とほぐれる様にシャリの握りの中を空洞にして握る
「技」がすし職人には求められるのです。
これを漬けてこそ江戸前鮨 正統技術継承と称しており、
静岡県鮨商組合の加盟店はこのようなすしを伝承しております。
生趣向が強い今日、残念ながらタネに味付けをせず刺身をシャリの上に
のせるだけの「すし」が多いのが気になります。
■
2回目発言(10分以内)
前段で少しお話しましたがすしの種類には
馴れずし
姿ずし・棒ずし・箱ずし・混ぜずし・握りずし等あります。
@ 馴れずしは(ナマナレ)
1200年前の奈良時代には近江のフナずしが日本最古の鮓といわれております。
魚・穀類(あわ、ひえ)塩で重石をかけ発酵させて、1年後に魚だけを食べる。
A
姿ずしとは
800年前の鎌倉時代には長良川のアユずしなど腹にすし飯を詰め、
重石をして漬けられていました。
この頃には節米意識から米も食べるようになった。
600年前の室町時代になると南蛮貿易が開幕し、生活様式が変化し食事も
2食から3食になり、粕酢も出来たのもこの時期でした。
400年前の安土・桃山時代でもアユずしを豊臣秀吉は朝鮮征伐時に
糀の作用で発酵を促進させ製造から10日後の丁度食べ頃に届けさせたとも記されています。
B箱ずし
箱ずしは「切り身漬けのすし」で、押し抜きすしである。
箱から抜き出して切り分ける手法で大阪では「こけらずし」と称しており、
2日間という短時間で食べられる押し寿司です。
170年前の江戸時代後期には「いなりすし」、「巻すし」も同時期に発案された。
C混ぜずし
箱から抜き出さず、さじですくい取るから「起こしすし」とも呼ばれいます。
押しを強くかけないすしの誕生に至り、これはすしの歴史の中では画期的なできごとだと言えます。
170年前(1837年)頃この時代をもって関西のすしは完成を見て、今日に至ったのです。
関西では一般にバラちらし、関東では五目ちらしとか五目すしと称しております。
D握りずし
押しずしは少し時間がたった方が、具とすし飯が調和して旨い。
しかし気の短い江戸っ子には、悠長な食べ物は気に入らなかったとみえ、
190年前の江戸時代の後期文化、文政の頃(1804〜1830)
に握り鮨用の専用の酢、赤酢も開発され、目の前で握って即座に食べられる
握りずしがあらわれると、たちまち爆発的な人気となり、江戸の町はグルメ時代が
到来したのであります。
何故、全国に江戸前すし店がこんなにあるのでしょうそれは、
戦後の食糧難により、飲食業の営業を事実上禁止されたのですが、
一合の米と引き替えに握りずしを10個渡すという行為を、
「委託加工業」として当局に認めさせた結果、職人が仕事を求めて全国展開することになり、
今日に至ったのです。
すしの歴史的背景は以上ですが
握り鮨用の酢がまだ出来ていない250年前宝暦時代(1751年)に郷土のすしがあったのです。
◆ 蜀山人大田南畝)には、小吉田の立場に至れば酒屋あり。
小サキ桶に鮓を入れてひさぐ。長門鮓と言う。味よろし」と記載されている。
ロシア使節応接掛江戸凱旋には(1854年、嘉永七年)国境協議
◆「安倍川の越し、大井川より小なり。上がれば、名物餅美味なり。
府中に入る。宜しき城下なり。横田、狐カ崎数村を経て、小吉田に小休し、
長門鮓を食ふ。小桶に入りて売る。鯛の切り身より 種種 品有りて美味なり。
興津に入り午餐。鯛の名所なり・・・・・」と記載有る。
小吉田の的場茶屋とは現在の
小サキ桶に鮓を入れたすしとはチラシの押し鮓です。
小サキ桶は木製で、直径10cm、深さ7cmほどの竹のタガをはめた蓋付小桶
(タバコの長径位)で現存しております。
長州藩長門の殿様 参勤交代の度に賞味され、東海道筋では最も美味だと賞され
「長門鮓」と名付けられた。
尾州藩を始め各大名も「あやかりと旅の話題」にと必ず立ち寄る立場地茶屋であった。
明治天皇も明治2年(1869年)、立場本陣に寄られている。
値段は、土地の者へは24文(480円)、旅の者には32文(640円)で売った。
一方十返舎一九の「東海道中 膝栗毛」では、「小吉田」のすしは弥次喜多の
懐中では無理だと考え、匂いだけにして近くの蒲原宿の
◆すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし
大衆的すしで我慢したと記述されている
立場茶屋の稲葉屋とは
・初代稲葉源右衛門は1町歩の敷地で、造り酒屋の蔵元をして、立場茶屋を営んでいたのです。
現在は16代目にあたる稲葉広様です。当時の長門鮓の看板もあり、各藩の看板も現存されている。
その後、稲葉屋小三郎が立場茶屋を営業
・
長門鮓の昼食と土産、地酒飲食、山葵漬、新茶等旅人の楽しみを提供。
・
この山葵漬は造り酒屋であった稲葉源右衛門の酒粕を
山葵漬元祖田尻屋和助に提供し山葵漬が考案された。
・ 発見当時、田尻屋山葵漬店では駿府の需要は僅かであったので、
江戸浅草で試食させながら売り広めた。
これが評判になり諸国の大名が参勤交代の帰りに「国の土産に」と江戸で大量に買っていくようになった。
・
その後、稲葉屋小三郎の立場茶屋でも山葵漬の販売を委託され、長門鮓と二枚看板商品となった。
・
大きな酒樽、徳利等が普通の江戸時代。小さい容器の発想が当事にしてみれば画期であり珍しかった。
・その後国鉄東海道線が出来て旧東海道は旅人の往来も無くなり立場茶屋も衰退の憂き目になり、
創業明治8年・1875年の田丸屋が明治時代、稲葉屋の長門鮓の桶にヒントを得て山葵漬の容器を作り、
それを開通した東海道線
これで山葵漬は全国に知られる静岡の名物になったのです。
・
山葵漬の容器は長門鮓の桶だったのです。
・
長門鮓とはどんなすしだったのだろうか?
長州の岩国鮓は大掛かりな箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指。
一部の武家階層でしか食べられず、「殿様すし」の異名もあったという毛利藩主の好物。
五目鮓に上置きの魚は甘鯛の酢締。
清水の興津鯛製造業者は
・桶鮓別名長門鮓
・種類は五目すし(チラシ)の押し鮓である。
・
興津鯛(白甘鯛の天日干し(一夜干し)を、五目の具と混ぜ合わせて、蓋で押す。
・
多種な魚貝類が漬けられていた。
・ シャリの合わせ酢は冷めても美味しさを保つ為に砂糖を大量に使い
酢は米酢叉、塩梅のバランスを維持する為にも昆布汁を混ぜた。 〆魚は白梅酢を使用か
以上のことを踏まえ復活再現
その他にも私の生まれ育った
持舟城を簡単お話します。
当時は持つ舟と書きました。今川義元の出城で水軍を配し海からの侵略を
伊勢の国豪商向井水軍(三重県)が清水江尻の湊を基地として防衛する任務しておりました。
今川氏の人質として駿府にいた竹千代は、元康と改め、16歳で持舟城の姫瀬名姫と最初の結婚をした。
瀬名姫(築山殿)は持舟城の城主の娘で、母は今川義元の妹である。
長男信康が誕生後に織田信長の長女徳島姫と結婚
人質時代竹千代は三河へ父の墓参りをしたいと今川の役人に見付からないよう、
「つづら」に竹千代を隠して、地元の百姓に背負わせ、用宗の海岸から船で岡崎まで行き
無事に墓参りを済ませ戻ってきたのである。
持舟城は今川義元から武田勝頼へそして徳川家康領地になり、425年前天正10年(1582)落城。
本能寺の変の3ヶ月前だった。
没後の今川氏の家臣は旧長田村に身を伏せ、漁民、農民となり村に土着したのである。
又、今川義元と武田信玄に仕えた清水湊を基地としていた向井水軍一族は駿河湾海戦に
おいて東日本で最強の北条水軍を破った向井水軍(伊勢の豪商)に徳川の家臣本多作左衛門
「鬼の作左」が「徳川水軍の主軸になって浜松に来い」と家臣団に加えた。
徳川家康は本能寺の変では命からがら難を逃れ三河への最短距離である伊賀越えに尽力した
佃村の庄屋と漁民には東京佃島での漁業権、(佃煮ができる)、
伊賀の忍者服部半蔵には半蔵門警護、堺の貿易商茶屋四郎次郎には材木権利、
伊勢の向井水軍一族の向井正綱は軍艦奉行を、そして旧長田村(用宗、石部、小坂等)
の住民にも田畑を与え旧恩に報いた。
古城持舟城で年1回の6月(本能寺の変と同月)に供養と祇園祭が各村で今でも繰り広げられ
徳川家康と向井水軍が伝えたとされている漁業技術、鰹節製造、現在の用宗は
「いわし」漁で佃煮の田作り、茹でしらす等で生活の糧になっております。
この日別名持舟城祭すしが各家庭で漬けられておりますのが五目ちらしなのです
私の店では開店以来商品名「穴子ちらし」でご賞味いただいております
昨年暮れの全国すし連静岡大会、某テレビ局の取材等で当時の長門鮓の復元をいたしました。
私はこの頃から「買う寿司」から「作る寿司」にならないか、
今、家庭で昔みたいに寿司を作ることは少なくなり
各家庭ごとに素朴な味を、家庭で味わい、
楽しむことを忘れちゃったのではないか。
金を出せばいつでもどこでも寿司を買えるが
家で作った素朴な寿司を味わい家族みんなで触れ合ってほしいとわたしはこう願っております。
静岡県すし組合は静岡県委託事業の地産地消で「家庭のコミュニケーション構築」を提案。
家族が一緒になってつくれる五目ちらし商品名「しぞ〜かちらし」を
商品化いたしましたので県下の20数店舗のお店で召し上がれるようになっております。
市民がもてなしの心で何処の家庭でも五目ちらしを漬けられる
「すし文化発進の街清水」になることを期待しております。
静岡県鮨商生活衛生同業組合 竹内勝利
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日本平 |
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50年来の友人です。
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第1章 考える犬とスタンプラリー JR草薙駅前のロータリーの一角に「考える犬」の石像が立っている。草薙商店街を抜けて坂をどんどん上がっていくと静岡県立大学の赤レンガの建物が見えてくる。さらにそれを通り過ぎるとロダンの「考える人」が展示されている静岡県立美術館にたどり着く。この考える人と渋谷の「ハチ公」をドッキングさせて作ったのが「考える犬」石像である。 この考える犬石像が、後々おこなわれるウォークラリーの始点となる。 6月中旬子供たちから会って一緒に考える犬の探検をしたいというリクエストが切った。あいにく、その頃、ずっと体調が思わしくなかったので、7月に入ってから、草薙ネットの学生スタッフ3名に、2年生クラスと一緒に探検してもらうことにした。子供たちは、犬の印籠すしを共同開発した魚竹寿し店に新しい考える犬のミニチアを一緒に届に行き、そこで竹内店長さんから考える犬とまちおこしについていろいろ説明してもらった。また、帰り道に植野精肉店の夫婦ミニチア犬や清水新聞店の考える犬の描かれている壁画も見れ、学生たちとも仲良しになり、その日は大満足したようだった。
子供たちは、「う〜ん」と頭を悩ませて考えたり、「そうだ!」と自信をもって書いたりと、それぞれで、子供たちなりに感じるところがあったようだとメールに書かれていた。 翌月、有度第2小学校で地域公開の日に、総合学習でおこなってきた自分達の活動について発表するということで、私も呼ばれ学生とともに見に行った。会場でははY君をふくめ10人の男子6年生が、ビデオを使いながら自分達の活動についてプレゼンテーションをしていた。次は、東海道400年祭考える犬スタンプラリーで活動及び最後の部分である。 著者 小島 茂 芹沢幹雄 |
ワンワン太巻きすし(非売品) |
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