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 ■ すしのQ&A
 


   静岡県すし組合加入メリット                                                      

静岡県すし組合では、組織の団結の力でお店の繁栄と従業員の明るい将来を築くために活発な活動を展開しております。

静岡県鮨商生活衛生同業組合に加入すれば次のような数々のメリットがあります。

l         すし券の販売
静岡県すし組合よりすし券を購入し、お客様の冠婚葬祭、お中元、お歳暮各種イベント等に贈答品として積極的に販売して頂きます。
又、すし券は全国各組合で発行しており、他県発行の券も来ますが、この換金は静岡県すし組合、各支部事務所、指定銀行で換金できます。又、指定商社で仕入れ代金としても現金と同様に使用できます。

l         全国統一すしの日事業
お客様への感謝と、新規事業の開拓のため111日全国すしの日事業に静岡県すし組合も参加します。
静岡県すし組合はポスターを作製し組合員に協賛金として14,000円を頂き3,000円お買い上げのお客様に「すし券」(500円券)1枚を進呈します。

l         IT事業
ホームページをリニューアルし、組合事業活動の報告、各組合員の広告宣伝(すし券取り扱い、クーポン券取り扱い)をも行っております。
個店のホームページ「評判店ご案内」「こだわりのお店紹介」等も有料掲載しております。

l         団体扱い保険制度
賠償保険(食中毒)、休業補償、あんしん財団、全国火災共助会の保険等各種取り揃えております。

l         各種イベント事業の展開
1、節分の日恵方巻き丸かぶり販売の推進
  中巻き芯材料、包装用品、販売用品、ポスター、ちらし等斡旋しております。
2、静岡県鮨新聞発行
  事業活動、支部便り等情報満載し各組合員様個々にお届けしております。
3、無料講習会の開催
  技術講習会、衛生講習会、情報対策講習会(パソコン、IT)等計画しております。

l         融資制度の特典
 国民生活金融公庫より、当組合員であれば生活衛生改善資金(設備のみ)が金利も安く融資が受けられます。
 
あなたのお店がまだ未加入でしたら、これを機会に是非ご加入くださいますようお願いします。

お申し込みを静岡県鮨商生活衛生同業組合にどうぞ、お待ちしております

 


 昔のすし価格について                           

 昭和35年ごろの相場 

にぎりすし 1人前 

100円より

ちらしすし

100円より

鉄火丼

150円より

のり巻

60円より

いなりすし  10ケ

100円より


東京のある寿司屋の立ち食い価格
昭和34年ごろ

こはだ、ハマグリ、げそ、平貝、青やぎ、とり貝、さば

20円

しゃこ、ひらめ、紋甲いか、かんぱち、赤身マグロ

30円

たい、赤貝

40円

 


   大阪の郷土料理の一つに「蒸し寿司」というのがあるのを知りました。
調べてみたのですが、”ちらし寿司”を蒸したものと同じなのでしょうか。何か、特徴的な点というのはあるのでしょうか。                                                                           

蒸しずし(京都府・大阪府)
特徴
混ぜずしを蒸したもの。「蒸しずし」の幟旗を上げた店先で、蒸籠から勢いよく湯気があがるのは、京都・大阪に冬の風物詩である。「ぬくずし」とも言う。もとは重箱ごと蒸し籠に入れ、そこからすくい出したらしいが、今では茶碗などの銘々器に詰めて蒸している。出前しやすいように改善したのだという。
すしは大半が冷たい食べ物であるが、享和2年(1802)の「名飯部類」に「あたためずし」というのが出ている。ただしこれは、熱いすし飯に具を混ぜ、保温しておいて暖かいうちに食べるというもので、「暖める」わけではない。積極的に加熱するのは明治初めに大阪で考案されたというが、俳人の内藤鳴雪が慶応年間(1865〜68)」に京都新京極でこのすしを食べたという記録がある。(大正11年<1922>「鳴雪自叙伝」)。期限はもう少し古いようだ。

混ぜ寿司の具は、昔はシイタケ・すだれ麩・焼きアナゴ・クリ・キクラゲ・おぼろなどであった。彩のためキヌサヤや錦糸卵は、蒸しあがってから上に乗せると色が劣化しない。また、同じ錦糸卵でも大阪ではすり身を入れて焼くが、京都で入れずに焼くという違いがあった。

大正のころは、底に穴が空いたものがあった。冬場の芝居見物の昼食は蒸しずしというのが普通で、時分になると客がどっと押し寄せた。多数をさば切るために、効率よく熱が回る「穴あき茶碗」が考え出されたという。あわて者が、食べた後の茶碗に茶を注いで失態を演じたという笑い話がある。

 参考文献   著者 日比野光敏 「すしの事典」

 


 押し寿司用の板昆布の仕込み方を教えてください           

基本的には江戸前すし店なので、詳しくはありません。
バッテラ用昆布が、市販されております。(薄く、箱の大きさに切ってあります。)
水を沸騰させ、酢,味醂,砂糖、塩入れ,冷ましてから使用します。(当店では)

 


鮨・鮓・寿司の文字の違いは何ですか             

「すし」には「鮨」「鮓」「寿司」の3つの表記があります。
「寿司」は当て字ですが、「鮨」「鮓」漢字は中国から渡ってきたもので、本来、それぞれ違った意味を持っています。

  1. 魚の塩辛を表す「鮨」
     まず「鮨」ですが、中国において「鮨」の文字が最初に現れるのは、紀元前5〜3世紀頃の 成立とされる「爾雅(じが)」という字典。そのいみは「魚のシオカラ」で、魚類の塩蔵発酵食品を意味しています。

  2. 魚の漬物を表す「鮓」
     「鮓」は、1〜2世紀頃の「説文解字(せつもんかいじ)」なる字典で「鮨」とは違う食べ物である事が記されており、字義としては、3世紀頃の字典「釈名(しやくみょう)」で始めて明かとなりました。こちらは「塩と米と馴らした、魚の漬物」という意味です。滋賀県のフナずしのような、発酵によって酸味を得るすしは「鮓」という文字が当てられます。

  3. 日本の「鮨」「鮓」「寿司」
     このように最も古い「すし」は漢字は「鮨」で、すしのルーツと深い関わりを持っていることがわかります。しかし「3世紀に出た「廣雅(こうが)」という字典で「鮨は鮓なり」とかかれて以後、明確な区別なく日本にもたせれことになりました。 
                        考文献 ミツカン寿司読本

 

「げんなりずし」とはどんなすしですか               

  1. 名前の由来
    静岡県東伊豆町稲取地方に伝わるもので、形態的には押しぬきずしに属する。名前の由来は、あまりの分量の多さに、食べ手が「げんなりする」ところから、という説と、祝い事だけに「ゲン〔縁起〕がよくなるように」と願って、という説がある。

  2. 用いる道具
    一合桝ほどの大きさの容器にすし飯を詰めて固める。用いる道具には底板が無く、外枠と上から押さえつける落とし蓋で構成される。よって、道具は、「すし箱」というより「すし枠」「押し抜き型」と呼ぶのが妥当かもしれない。

  3. 作り方
    一合桝ほどの大きさの容器にすし飯を詰めて固め(中には甘煮のニンジンなどを仕込む)上に具を貼ったものである。
    具は、マグロ刺身・そぼろ・卵焼き・甘煮のシイタケで、そぼろは白いままのものと赤く色つけしたものの2種類を準備して、合計5種類の具とする。
    すしは、この5種類の具をそれぞれ別々に貼りつける。したがって、具の異なるすしが5点できるわけで、これで1セットとなる。
    マグロ刺身も卵焼きもシイタケもすしの上面を覆うような大きさに切ってあり、これを小切りにしておくことはない。魚屋でマグロを買う場合、「げんなりずしにする」と言えば、ちゃんとすし枠の大きさに合わせて切ってくれる。

  4. 用途
    主に、結婚式や上棟式などの祝事に作られ、先の5つのすしがまとめて皿盛りにされる。折り詰めとなって引き出物に用いられることもある。

 

注文するすしダネの順序                            

「ギョク(玉子焼き)に始まり・・・」とする人は多い。これは、玉子焼きがその職人の腕前を計るに最もよい指標とされたためである。もっとも、できあいの玉子焼きを買っている店では意味がない。このため、塩締めや酢締めの加減で職人の腕を見ようと、ぎョクではなく「光り物から」とする人もいる。ただ、いずれにせよ、職人の腕がわかりきってる場合には不要のことである。
 握りずしの発生期を省みれば、屋台食いか持ち帰りであった。屋台のすしは、気取らない食べ物である上に、二つ三つつまむ軽食であるから、食べる順序など気にされるはずもない。後に出てきた高級料理やなみのすし屋では、職人が別室ですしを作り、それを座敷に運ばせるのだから、職人と客とのやり取りはほとんどないし、客も人目を気にして食べる必要がない。つまり、順序をあれこれ言うようになるのは屋台方式の商売を内店に取り入れた(これがカウンター形式の店になる)大正期以降のことだと推察される。この時点ですしは当初とは違う供され方をしていたのであるから、どの食べ方が本筋であるかは論ずるだけ無駄である。
自分の好きなおすしから召し上がって、気楽に食事してください。
栄養のバランスを考えた場合には参考にしてください。

 


握りずしとわさびの出会いはいつごろですか。
                

1820年つまり文政3年ごろ江戸に華屋与兵衛という人が、コハダや海老などをにぎり、そこにわさびをちょっと入れてみたところ評判になったというのです。それが握りずしとわさびの出会いとすれば、その歴史は184年しか経っていないのです。
それも20年ほど後の天保年間(1830〜1844)の改革時期に姿を消しました。
徳川幕府の財政改革などで評判の高かった華屋与兵衛のわさび入り寿司は贅沢品として取締りの対象になり、華屋与兵衛は軟禁の刑に処されました。そしてわさび入りの寿司は明治維新後に復活して全国的に広がったのです。

 


具を「ネタ」と言いますが、「タネ」でも間違いはないのでしょうか。
                        

食べ物扱ってる者として、「ネタ」=下ネタを連想してしまいます。すしの文献でも某老舗のご主人は「ネタ」とか「ゲソ」=下足は禁句にしているようです。
 グルメで外食が流行した江戸時代後期に、江戸町民の間ではネーミング作りが流行したようです。また和食の職人の独特の隠語ありまして、その中から不正確な単語として出回ったとも考えられます。

 

立ち喰でのすしの注文の仕方                 

1、旬の魚を存じ上げて、ご注文されているお客様がどのくらいおられるか?
  当店では、すしは「お好みずし」(お客様が好きなすしを自分で注文する事)で召し上が   る方が、最近少なくなりました。(旬の魚ではないすしを注文されるお客様が多い。)
2、反面、「おまかせずし」でご注文されるお客様が多くなって来ました。板前におま
かせいただければ、旬のすし「四季の握り」をお客様の予算に応じて、または、価格表示のなかから「すし漬け」をしております。

 

 田楽と塩梅よしのおでん                                                                       

1、田楽の串は京阪は二股、江戸は一本
 
豆腐を短冊型の長方体に切って竹串を刺し、味付け味噌を塗って焼いたものが田楽である。田楽舞のさぎ足に形が似ているところからの命名であると言う。
   ◆田楽はむかしは目で見今は喰ひ
 
農耕民が祝う田植えの際の舞踊が「田楽」であり、江戸時代にはほとんど廃れ、食物の名称となったことを言う。
 また、現代では蒟蒻田楽が一般的であるが、これが普及し始めたのは、明和期(1765頃)からであり、それ以前は田楽と言えば豆腐である。これ以後も、豆腐と蒟蒻の田楽が両用されている。『守貞漫稿』(嘉永6−1853)に、
  京阪の田楽串は股あるを2本用ふ。江戸は股無しを一本貫く也。京阪は白味噌を  用ひ、江戸は赤味噌を用ふ。各々砂糖を加え摺る也。京阪にては山椒の若芽をみ  そに摺り入れる。江戸は摺り入れずに上に置く也。各々木の芽田楽と言ふ。江戸、  夏以後はからし粉を練って上に置く。
とあり、京阪と江戸との差異を述べている。串の形状の違い、味噌の違い、木の芽田楽と言う呼び名は同じでも、その調理の違いなどが歴然としている

 

 

  「てんぷらり」と「てんぷら」
                                   

天麩羅であるが「てんぷら」は「調理」という意味のポルトガル語である。江戸の初期に「てんぷらり」という料理がすでにあったことが当時の料理書に載っている。徳川家康が「鯛」の「てんぷら」を食べて腹痛を起こし、死亡したという俗説が知られているが、もしほんとうに食べたとしたら、江戸中期以降に庶民たちに好まれた天麩羅ではなく、ポルトガル料理「てんぷらり」えあったと推測される。
 また、「天麩羅」という名前を考案したのが戯作者で著名な山東京伝であるという説がある。これは京伝の弟京山が記した『蜘蛛の糸巻』(弘化3序ー1846)にあるが、要約すると、天明初年(1781頃)に大阪の商人が江戸へ来て、魚の胡麻揚げに新しい名を乞うたところ、京伝は天竺浪人の「天」、ふらりと江戸に来たので「ふら」、これを組み合わせて「天ぷら」と命名したと言う。「てんは天竺のてん、即ち揚ぐるなり。ぷらに麩羅の二字を用いたるは、小麦の粉のうす物をかくるといふ義なり」と、京山は解説している。この大阪の商人は利介という名であるが、この後、その商売で成功したかどうか定かではない。 
 喜多村均庭の記録によると、寛政末(1800ころ)に日本橋の屋台店の吉兵衛が庶民向けの天麩羅を考案し、成功を収めたという。川柳にも、
   ◆吉兵衛は天麩羅で名を挙げた店
と詠まれて、この句が発刊された天保4年(1833)頃に、吉兵衛という天麩羅屋があったと推測される。
 野菜を薄く削いで、衣を薄く付けた揚げ物は、一串が二文という安さであることが分かる。

 

 

  江戸時代の天麩羅                                   

先ず」「揚物屋」があった
江戸の庶民たちが食べた天麩羅については、『守貞漫稿』(嘉永6〜1853)に詳しい。
  京阪の天ぷらは前に言える如く、半平の油揚げを言ふ。江戸の天麩羅は、 アナ  ゴ、芝エビ、コハダ、貝の柱、スルメ、右の類すべて魚類に温飩粉をゆるくときて、  ころ もとなし、しかるのち油揚にしたるを言ふ。菜蔬の油揚は江戸にても、てんぷ  らとは言はず、あげものと言ふ也。
これは、江戸末期天保頃(1830頃)の天麩羅の様相を言っている。
ここで言う「揚げ物」であるが、これも盛り場などの屋台店で商っていて、庶民の家庭料理ではなかった。これを食べた男たちが、これは旨くて重宝とばかりに自宅の土産として購入し、飯の菜へと発展して行ったものであろう。天麩羅もこれと全く同じようにして普及したものと思われる。
   ◆轡虫四季に鳴かせる揚物屋   
 菜蔬類を油で揚げる音を、轡虫の鳴き声に擬している。轡虫は夏の虫であるが、この鳴き声と同じようなガチャガチャという音をたてて揚物屋は、季節に関係なく商いをしているということである。
   ◆揚物屋是は何だに聞き飽きる
 ころもを付けて揚げているので、中身がわからない。買い手は「これは何の揚げ物だい?」と必ず尋ねる。
       ◆衣や薄き片そぎの二文揚げ
 野菜を薄く削いで、衣を薄く付けた揚げ物は、一串が二文という安さであることが分かる。

 

  稲荷鮓は油揚げにおからを詰めたもの                                    

江戸の末期から庶民に馴染みの深い稲荷鮓は、現在のとは違い、油揚げに豆腐のおからを詰めた安値で滋養に富む食べ物であった。天保7年の大飢餓の頃、その安直さと低廉さで流行したとされる売価は一個四文。「さへづり草」(天保〜文久3-1833頃〜1863)には、「去年(弘化2−1845)より江戸のちまたを、夜となく昼となく歩行くいやしき食類に、稲荷鮓といへるものあり。(略)稲荷鮓はいかなる物と聞きけるに、豆腐の油揚に雪花菜(きらず)を包めるものの由、かくしてこれを稲荷鮓と命ぜしぞ」とある。
「藤岡屋日記」にも、弘化2年10月頃から流行とあり、天保期に引き続いて第2の流行期を迎えた。日本橋の十軒店辺には、「次郎公」と愛称された名物の売り手もいて、多くの稲荷鮓の行商者がいずれも元祖と名乗っていたという。

 

  竹串に刺した簡易で低廉な天麩羅                                    

先ず」「揚物屋」があった
江戸の庶民たちが食べた天麩羅については、『守貞漫稿』(嘉永6〜1853)に詳しい。
  京阪の天ぷらは前に言える如く、半平の油揚げを言ふ。江戸の天麩羅は、 アナ ゴ、芝エビ、コハダ、貝の柱、スルメ、右の類すべて魚類に温飩粉をゆるくときて、ころ もとなし、しかるのち油揚にしたるを言ふ。菜蔬の油揚は江戸にても、てんぷらとは言はず、あげものと言ふ也。
これは、江戸末期天保頃(1830頃)の天麩羅の様相を言っている。
ここで言う「揚げ物」であるが、これも盛り場などの屋台店で商っていて、庶民の家庭料理ではなかった。これを食べた男たちが、これは旨くて重宝とばかりに自宅の土産として購入し、飯の菜へと発展して行ったものであろう。天麩羅もこれと全く同じようにして普及したものと思われる。

 

 トリ貝はオハグロとよぶ                                          

 トリ貝のむき方は大変むずかしく、表面の黒い色をとばさないように、ガラスの上か、まな板にラップ類を敷いた上で丁寧に扱うのが技術と言われている。
 一般には、ウニやシャコなどと同様に、すでに仕込んで箱に詰めた形で仕入れるのが普通である。
 仕入れたトリ貝は、うすい塩水の中で、裏側のワタを一つずつ掃除する。(また、うすい甘酢でさっと洗って用いてもよい)
 トリ貝は、オハグロと呼んでいる、表面の黒いものをとばさないように、丁寧に扱うこと、あまりさわらないこと。

 

 酒樽はなぜ杉の木か                                         

 酒造りの桶は、すべて杉の木を用いる。『譚海』巻八(安永頃ー1775頃)に、酒を造る桶は皆杉なり、古木を用いるなど、酒よく出来るなり。名酒を造る桶は、五六百年に及ぶ板にて造りたる桶なる由。とある。
『瓦礫雑考』巻下(文化十四刊ー1817)には、
 酒屋の軒に、杉の葉束ねたるをつることは、杉の葉を酒にひたす事あり。又、木香といひて、よき杉の木の根を削りたるを、酒の中に入るることあり。又、酒に用いる器物、みな杉にて造るものなれば、これらによりて、かくするかとおもへど、猶よくおもふに、杉の葉を酒にひたすことは、味変わりたるをなほさむとて、すること也。
と述べられ、木香を付けることによって、味をよくすることともに、味の変わった酒を直すために、杉木が用いられるようである。
 酒樽の四斗入りのものは、菰をかぶせて包んだ。これを「菰被り」と言う。
   ◆片口へ小便たれる菰かぶり
   ◆菰っかぶりの小便が上戸すき
  酒樽の菰被りは、酒屋の棚に置いておき、木製の注ぎ口を底の方に差し込んで、木栓を抜くと、酒が自然の重量で注ぎ出る。これを小便になぞらえている。また「菰被り」は、着物が無く菰を身に纏っているところから、乞食の異称でもある。従って、この画句も乞食の様子をも、下敷きにしている。
   ◆菊水は菰被りには過ぎた奴
 「菊水」は、池田の銘酒。この句は、菊水の紋のある菰を纏っている乞食のことである。乞食には菊水の紋のある菰」は、分不相応であることを言う。
 現代では、あまりお目にかからないが、昭和中期頃まで、酒屋には樽酒が置かれていた。客が「おい、一合、くれ」と言うと、樽酒の注ぎ口の木栓を抜いて、一合枡へトクトクと酒を注いで、キュと音をたてて栓を締めるのは、なかなかの風情があった。木栓が適度に酒に湿っているので、木栓を抜いたり、差し込み締めたりすると、独特の音を発するのである

 

石川県のお寿司で笹寿司というのがあり、その材料の中で紺のりというものがあるという事ですが、写真で見たかぎりでは綺麗に思えます。購入したいと思いますがどこに売っているのでしょうか?教えて頂けないでしょうか?                               吉田清香  

石川県の笹ずしについて

各県(新潟県・長野県でも地方によっては現在も作られているようです。)のすし組合または県庁観光課に問い合わせてみてください。

但し、石川県輪マスの切り身を乗せる。新潟県・長野県は魚は使わないと文献には載っていますが?

 

  ▼石川県の笹ずし写真添付
  ▼石川県すし組合

     http://www.isikawasusi.com/
  ▼新潟県すし組合

 

笹ずし(石川県)
特徴
石川県加賀地方、とりわけ金沢市近郊の郷土料理。
祭礼など客寄せの時よく作られる。
華屋与兵衛が嫌ったすし
江戸の末期、江戸の華屋与兵衛は「握って魚身を貼ったすし飯を笹の葉で仕切りをして,
箱に詰めて押さえつけたすし」を嫌って、手で握るすしを考案したとの伝説があるが,
この笹ずしは,まさに華屋与兵衛が嫌ったというすし、すなわち古風な握りずしの特徴
をもっている。
作り方
すし飯を手のひらサイズに握り,やや平たくして酢締めのマスの切り身を乗せる。
笹の葉は2枚を一組として十文字に重ね,その中央に先のすしを乗せ、四方から包み込む。
これを押し箱の中に並べて,落とし蓋をして重石を置き,半日から一日,味をなじませる。

笹ずし(長野県・新潟県)
長野県北部から新潟県中南部の山あいに伝わる。製法的には江戸末期の握りずしの原型
の様相を呈するが、材料には生魚は使わず、質素の感がある。
 笹の葉を皿に見立て、すし飯を握り、上に具を置いて笹に乗せる。
ご飯は、餅米を少量混ぜておくと握りやすい。具は、ゼンマイ・シイタケ・オニグルミ・
ダイコンの味噌漬けなどを細かく刻んで、一緒に炒りつけた後、煮詰めたものである。
彩りに錦糸卵や紅生姜を添える人もある。サケのそぼろを乗せる家もあるが、概して
昔は素朴な具しか乗せられず、魚を使うのは相当に裕福な家であった。
すしの乗った笹を押し箱の中に丁寧に並べ、何段も重ねてから蓋をして、軽く重石を乗せて
味をなじませる。
こうした製法のほかに、一般的な箱ずしのように、箱にすし飯を詰め、具を貼り、
葉で仕切り・・・、という作り方もあるようだが、今日、この地方の笹ずしといえば、
ひとつひとつを笹に盛るものが良く知られている。最近、長野県飯山市富倉地区では、
全国発送の販売法も確立した。
 越後ではこれを「わらじずし」とも呼ぶ。細長く扁平に固めたご飯を、わらじに見立て
たのであろう。また、信濃側では「謙信ずし」とも言うのは、一説に、このあたりを治めた
越後の戦国大名上杉謙信が兵糧としてこのすしを用いたとも、村人たちが出陣する上杉勢に献上した(よって、このすしは越後の春日山城と信濃の川中島を結ぶ道筋に残っている)
とも伝えられるからであるが、戦国時代には酢を使うすしの存在はかなり微妙であるし、
あったとしても、それは生魚の発酵食品から派生したものであるため、精進物ばかりの
すしではなかったはずである。

 

   日本酒の謎                                     

1、清酒は偶然にできた、それは元禄の少し前
   ◆神代にもだます工面は酒がいり
   ◆神代にもだます酒と女なり
 
神代の頃から、相手を騙すためには、酒と女にたよるのが、一番の便法であるということである。
 江戸の初期には、清酒つまり山吹色に澄んだ酒はなかった。酒と言えば濁酒しかなかった。
 『北窓瑣談』(文政12−1829)巻一にも、
 酒の今の如く清酒になりしは、わずかに百四十五年、此のかた事とぞ。今にても、西口の偏地は、皆濁り酒なり。唐土などにても、濁り酒多しと聞ゆ。
とある。これらの書物を書かれた年代から、百四十五年遡及させると、延宝年間の頃(1680年代)となる。元禄期のほんの少し前である。従って、映画やテレビの時代劇で、江戸初期に清酒を飲んでいる場面があるとすれば、それは真っ赤な虚偽なのである。清酒が出来たのは、工夫を凝らしてそうなったのではなく、偶然出来たのである。
ここでは『摂陽落穂集』(文化5序ー1808)巻3を、引用する。
 往昔は今のごとく、清くすみたる酒にてあらず。皆、にごり酒にして、今のどぶ六と唱へる事なり。ある時、鴻池、山中に召還ひの下男、根性あしきものにて、主と何か口論せし事有りて、もはやこの家に奉公せじとおもひ、何がな腹いせして返らんと、当りを見廻せし程に、裏口に灰桶の有しを見付け、家内の見ざるやうに土蔵へ持行き、かの桶なる灰を酒桶に投げ込み、心よげに独り笑ひして、そしらぬ顔に立かへりける。さて、主人はじめ家内の者、かかる事とは露しらざりしが、右の酒桶の酒を汲み出さんと、ひしゃくにて汲みあげ見るに、こはいかに、きのふ迄のにごり酒、忽ち清くすみ渡りたるは不思議なりと、一口呑んで見るに、香味もまたいたって宜しくなりたるは、いかなる事やらんと、よくよく見るに、桶の底に何やらん溜りたるものありて、やがて酒を汲み出し考ふるに、これはいの桶の入りたるより、にごり酒の清くすみて、自然と香味も宜しく成りたると心得たり。この奥義をば、人に沙汰ばし致すなと、家内のものをかたく制し、それよりにごり酒に、すまし灰を入れて清くすみ渡りたる上酒とし、売り始めたりし かば、諸人不思議のおもひをなし、次第に商売繁盛し、後世富貴の第一となりたるも、いはれはかくと知られけり。
 池田地方は、昔から酒造業が盛んであったが、ここの鴻池氏が、偶然の機会から清酒を作ったという記述である。

 

  庶民相手の「刺身屋」繁盛                                                     

江戸末期から、魚の刺し身が安価で滋養に富んでいることが知れ渡ると、それを専門に扱う商売屋も出来てくる。『守貞漫稿』(嘉永6ー1853)4編に、
 刺身屋。鰹及びマグロの刺身をもっぱらとしこの一種を生業とする者、諸所に多し。銭五十文、百文ばかりを得る。粗製なれども、料理屋より下直なる故に行はる。
とあり、安価な店として庶民たちに歓迎された。また、同書二十八編にも、江戸には刺身一種を生業とする小店あり。小店にて魚多き日は、四十八文、弐百文ばかりよりこれを売る。
とあって、刺身だけを売る店が所々にあったことがわかる。

  ◆かつほより秋はさしみの一きわだ
 秋冷の季節が来ると、初夏の鰹の刺し身よりも鮪(きはだ)の方が時節に適っていると言うことと思われる。
   ◆香の物程にさしみを女房切り
 
女房が刺し身を作ると、大きい切り身にはしないで、漬物の大きさに小さく切るという。家庭に刺し身が普及しつつある様子がうかがえる。

 

  タコは塩もみをする                                                   

タコを塩もみするとヌメリがとれるのはなぜか。

  1. たんぱく質は塩分によってかたまる性質を持っている。

  2. タコの表面は、たんぱく質の一種である粘質物、いわゆるヌメリでおおわれている。

  3. これを塩もみしてかため、水洗いしてとりさるのである。

  4. うすい塩では逆にヌルヌルした状態になるので,たっぷり塩を用いてヌメリをかためる。

 

 江戸時代の刺身の盛り付けについて                                                                                    

斬目正しく紅白に盛る

  1. 刺身について詳述しているのは、『守貞漫稿』(嘉永6ー1853)28編である。様態を知る上の資料なので、引用する。
     これによれば、京阪では鮪の刺身は「初の身」と称したこと、江戸では祝賀の時に鯛の刺身、普段は鮪や鰹の刺身を食べていたこと、冬にはヒラメの刺身を専らとし、ヒラメや鯛の白身の刺身と、鮪の赤身の刺身を皿に盛り並べ、「作り合わせ」と称して、その色合いも楽しんだこと、江戸では魚肉を乱切りにせず斬り、正列に並べること、鯛やヒラメには辛子味噌や山葵醤油を付けて食べ、鮪や鰹は大根おろし醤油を付けて食べること、魚肉の皿にまみれぬように刺身皿にはよしずなどを敷いたこと、添え物は、糸切大根、糸切うど、生紫海苔、生防風、姫たで、黄菊、おご、大根おろし等であること、夏にはスズキや鯉の刺身を冷水で冷し、正列に切り身を並べずに、乱切りのまま食べたこと、などが明らかにされている。

  2. これは、江戸末期の嘉永年間(1850年代)の様子であるが、刺身の「ツマ」なども記され、現代とほぼ同じであることがわかる。
       ◆刺身の手際紅白の山を見せ
     
    皿に盛られた、白身と赤身の刺身を並べた「作り合わせ」の色合いを、リアルに述べている。当時の庶民たちの目には、魚の生肉の切り身が綺麗に並んでいる様相が、目新しいものだったのである。

 

 ふぐの刺身は何時頃から美味として食べられたんですか                       

 庶民の味覚、夏は初鰹、冬は鰒(フグ)

武士も食べ始めた江戸中期、毒に当たればお家断絶
 江戸庶民にこのように持てはやされた鰒も、江戸の中期頃までは武家は決して食べなかった。
『塵塚談』(文化11〜1814)に、次のようにきされている
   河豚・コノシロ、我等若年の頃武家は決して食せざりしもなり。(略)
 当時の様子がよく分かる。江戸中期から鰒をよく食べたのは「卑賎」と言われた庶民たちであり、その美味を体験していた。武士たちは頑健にも伝統的な食生活を墨守していたのである。その頃は、鰒が一匹12文程度であり、安蕎麦一杯が16文であるのと比較すれば、いかに安価であるかが分かる。また、面白いのは、干し鰒は無毒であるので貴賎を問わずに食べたことである。
 鰒の旨さが庶民たちの口から喧伝され、仲間や奴などの下級武士たちも口にするようになり、次第に上流階級にまで至ったのは宝暦期(1751頃)である。
 『根無志具佐』(宝暦13ー1763)に、
   惣じてむかしは、人間も素朴にありし故、毒といふものは喰ぬと心得、河豚を恐る  る事、蛇蠍の如くなりしが、次第に人の心放蕩になりゆき、毒と知て是を食す。河  豚を喰ふて死たる者、其家断絶と律をたてて、上仁を好ども、下義を好まず、ふぐ  やふぐやと大道を売りありく。
と、この頃の世相と嗜好の移り変わりが描かれている。そして、安価であった鰒の売価が、一匹200文から300文へと跳ね上がったのである。
 武士たちも争うように食べるようになると、鰒の毒に当たって死ぬ者も出て来る。その場合は、身命を軽く扱ったとして、「お家断絶」という法律を出して厳罰に処したが、それでも鰒の美味は人々を魅了し、法律の効果は無いに等しかったという。

 

 刺身と何故云うのですか?       

 「切る」の忌み言葉から「指身」

  1. 『俚言集覧』(明治32増訂)で「さしみ」の項を見ると、
      魚軒。鯛指身。
    とあり、現代のような刺身のような漢字になっていない。

  2. 『江戸語の辞典』(昭和54刊)によれば、
      生鮮魚の肉を薄く切って、醤油などにつけて食うもの。江戸は刺身と作り身を区別 せず、また魚肉ならざるものにもいう。
    とあって、魚肉に限らず薄く切った肉片のことのようである。

  3. 一説に「切る」を忌み詞としたため、「指身」「差身」という名称になったという。 『和漢三才図絵』「正徳3−1713」では、「魚肉薄ク切ルヲツクルトイフ」とも述べる。現代でも京阪地方では「刺身」と言わず、「お作り」と称している。

  4.  現代人は新鮮な魚を、ほとんど刺身にして食べるが、江戸中期頃は刺身は一般的に普及していなかった。しかも上流階級のひとびとは刺身は食べず、庶民たちが食べたのは、鰹・平目・フグに限定されていた。

  5. 特に、初夏の到来とともに江戸っ子は初鰹の刺身を好んで食べたが、現代とは違って「辛子味噌」をつけるのが常であった。

 

 松が鮓」、「與兵衛」、「毛抜き鮓」は現在存在するのでしょうか?                          

  1. ●「松が鮓」は、「與兵衛」、「毛抜き鮓」と並んで江戸の三大すし屋と評判をとり、「松が鮓」、「毛抜き鮓」は明治の末まで続き、「與兵衛ずし」は、昭和の初期まで同じ場所で営業していた名店であったが現在は存在しません。

  2. ●握りずしの誕生
    江戸の食べ物の代表のようにいわれている握りずしであるが,いったい,この握りずしの起源はいつごろなのであろうか。きわめて庶民的な食べ物に,確たる記録があろうはずがないから,やむをえない。そのいくつかを紹介してみよう。

  3. 第一の説
     延宝年間(1672〜1681)に会津天満宮の神官であった者が、江戸に出て松本善甫と名を変えて医者になった。この医者が,どういうわけか,すしを考案した。当時のすしは、昔風の熟れずしであったからその熟成(でき上がり)に日時を要したため、松本善甫が改良考案した。このすしは、待つ間もなく買うことができるものであったから,世間はこのすしを「待ちゃれず」また「早ずし」とも呼んで、有名になった。
    これが江戸握りずしの始まりであるという説である。善甫が医者だけに、食酢をうまく使ってすしの熟成期間を早めたのではあるまいかとも考えられるが、いずれにしても資料が消滅したことは、なんとしても残念である。

  4. 第二の説
    「文化のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすし出来て、世上すしの風一変し・・・・」とあることによって、「松がすし」が握りずしを創案したので世間のすしの有様が一変した、とする説である。
    この店の店主は堺屋松五郎と言ってることからすると、松五郎は上方人で泉州堺の出身者ではないかと考える。彼は当時の関西風箱鮓を基本として鮓を引っ下げて江戸へ出店したのではなかろうか。「江戸安宅の松が鮓の精製(中略)・・・・・この家の海苔ずしは、飯と魚と海苔と、渦巻に作る也。
    外のは、海苔を衣に巻くのみ也。この松五郎は、鮓を売り出しし始、所々の控所に行き、わが手製の鮓也とて遣わし、(中略)・・・・心つけ給えといいしとぞ。鮓の中に壱朱銀などを入れおきしなり。・・・・」とある。すし飯の中に壱朱銀を入れる話には驚かせる。松五郎の商策は大当たりで、店はますます繁盛の一途をたどり、そのすしもしだいに高級化し、値段も天井知らずの思い切った高さだったという。
    というわけで、松五郎の優れた商才はよくわかるし、その超繁盛ぶりがすし業界に与えた大きな影響も想像がつくのだが、かんじんの握りずしの創案者かどうかは、明らかでない。

  5. 第三の説
    「初代花屋與兵衛」が握りずしの創案者であるという説である。
    この與兵衛(1799〜1858)は、福井藩出入りの八百屋のせがれで、九歳の時に、江戸・蔵前の札差板倉屋清兵衛方に下男奉公に入り、十数年間を勤め上げる。父は泉籐兵衛、という。福井藩の下級武士ではなかったかと考えられる。
    彼は二十数歳で板倉屋を退いた。がんらい器用な性質だったらしく、握りずしを創案したと伝えられる。文政(1818〜1830)本所横綱(現在の東京都江東区)の長屋に住んでいた。
     毎夜、我が家に近い岡場所(私娼窟)を夜明け頃まですしを売り歩いて小金を貯め、尾上町(両国回向院前)に小さな店を持って,『與兵衛ずし』の看板を上げた。この店が当たりに当たって江戸中の評判となり『松がずし』と同じく武家屋敷からの注文も多く、こみあいて、待ちくたびれる與兵衛鮓 客もろ手を握りたれけり という狂歌があるくらいで、與兵衛の努力は報われたのである。文化(1804〜18)の終わりに近い頃であった。

  6. ●花屋與兵衛とは
    1.『與兵衛ずし』店は、昭和の初期まで同じ場所で営業していた。この店がまさにすし業界における文字通り老舗であったことは間違いないのである。
    ただし、初代與兵衛をもって江戸握りずしの創案者とすることはいかがであろうか。創案者でなく、大成者とするほうが当たっているのではないかと思う。
    2.與兵衛に関する記録類が残っていそうなものであるが、日本米食史などに引用されている『またぬ青葉』(與兵衛の親戚筋に当たる浅草の浅倉屋書店主人が明治初期の写本)も、同じ主人著の『鮨考』も残念ながら関東大震災で焼けてしまった。従って與兵衛に関する記録類はないとのことである。

 

 アワビの長持ちさせる方法                  

アワビのイキ穴をとめて冷蔵庫で保存すると長持ちするなぜか?

  1. 貝からはずしてもアワビは生きている。生きているかぎり、代謝があるし、生きていくためのエネルギーも必要である。

  2. ところが、すでにアワビはエサもエネルギーも補給できない状態になっているのだから、生きるためには体の成分を使って、それをエネルギーに変えるほかない。

  3. だからといって、代謝をどんどん行ったら、身がやせていくだけである。とくに、体の中に含まれているグリコーゲンといったような非常のおいしい甘味のある動物糖分から最初に消耗していくから味もどんどんおちる。

  4. その上、消耗し尽くしたら死ぬだけである。それだから、できるかぎり、呼吸量を減らして消耗を押さえることが、長持ちのコツなのである。

  5. イキ穴をとめれば、それだけ呼吸量は減ると考えられるし、しかも、死なない程度の低温に保てば細胞内の酸素の働きが押さえられるので、消耗は当然、少なくなると考えられる。

  6. 最近、りんごの貯蔵をするのに低温で、炭酸ガスを多くして、リンゴの代謝を押さえて、何時までも新鮮に保つという方法が行われている。CA貯蔵という方法であるが、ちょうど、この考え方と同じような考えだといえよう。

 

 貝類のの保存方法                       

魚は低温でもよいが貝類は低温だとだめと聞きましたがどうしてですか。

  1. すしダネにする魚はできるだけ低温で保存するのに、貝類だけは、あまり低温すぎてはいけないのはなぜだろうか。

  2. これは、魚の場合はすでに死んでいるので、細胞内の酸素を働かさないようにして、自己消化のすすむのを防ぐのである。それには、ぐんと低温の方がよい。

  3. ところが貝の場合は、冷血動物ではあるが、貝そのものが生きているから、体が冷えきってしまうと、酸素の反応が起らなくなる。酸素の反応がとまるということは、即、呼吸停止と同じ意味をもつ。つまり、生命そのものがとまってしまうのである。

  4. しかし、かといって温度が高ければ、逆に呼吸作用がさかんになって、エネルギーの消費が高まる。エサの補給がないわけだからエネルギーの消費が高まると、貝は自分の体内に蓄えられたものを消費して行くことになり、早く身がやせてしまう。また、日持ちも悪くなる。」

  5. それだから、呼吸をあまりしないですむ程度。しかも、死なない程度の低温に保つということが大切なのである。

 

 ハマグリの漬け込み                       

千葉県木更津のすし店で食べたハマグリの美味しさは抜群でした。魚竹寿しさんでも食べられますか?

  1. 旬(12月〜3月ごろまで)の時期には召し上がれます。

  2. ハマグリの下ごしらえには手間隙がかかり、丁寧な仕事が要求されます。

  3. 例えば、竹箸などに、ハマグリのむき身をいくつもさして、水の中で2〜3回クルクルまわして洗う。こうするとハッマグリの身についている砂が落ちる。箸は黒っぽくなっているくちばしのところへさす。

  4. ザルにいれて洗うと磯の香りがとんでしまうので、このように丁寧に洗う。

  5. 漬け込みにも細心の注意が必要。漬け込むハマグリとツユとの間に温度のバランスがとれていないと(ハマグリもツユも冷ましてから漬け込む)、中の水分が吸いだされ、身がかたくなったり、また、味がでてしまったりして、漬け込んだものの味がまずくなってしまいます。

 

 ヒラメのエンガワ                         

すし通はエンガワを注文すると聞きましたが「エンガワ」てなんですか?

  1. カレイやヒラメのヒレのつけ根のところにあたる身をさす言葉です。

  2. ヒレが大きくてよく動かし魚ほどそのつけ根の筋肉が発達している。

  3. カレイやヒラメのエンガワやマナガツオのヒレのつけ根の部分が特によく発達していて食べられる。

  4. 1枚のヒラメからわずか4本のエンガワしかとれないそれだけに珍味として珍重されている。

  5. 高価なすしダネとして店では大切に沽用しております。

 

 落としブタの働き                          

料理屋さんでは魚を煮るときに落とし蓋を何故するのですか?

  1. 魚などを煮る場合は、少量の煮汁で煮たほうが、魚の中の旨みが逃げ出さずによい味に煮あがるが、また煮汁が少ないと煮詰まったり、魚の上側に味が回らないということもある。

  2. ところが、落しブタをすると沸騰してフタにあった煮汁が魚の上におちて、全体に同じ味がつく上、水分の蒸発が少ないので、煮汁が少なくてすむのである。

  3. また、魚の身は、煮汁の中でおどったりすると、身くずれの原因にもなるので、
    その意味でも落としブタの効果は大きい。

  4. ただし、落しブタは、鍋の内側にぴったりのものより、やや、すき間のできる程度の大きさがよい。

  5. 周囲にすき間がないと生臭みが水蒸気と共にぬけていかず、煮あがったものの味が悪くなるからである。

 

 

 現在と江戸時代の相違点   

江戸時代、高級とはいえないのが握りずし屋台であったが、何故、現在高級な食べ物になったのですか?

  1. ▲すしダネの下処理
    現今は、いわゆる刺身をそのまますし飯に乗せることがごく普通になっているが、これはり氷冷蔵庫以後に起こり、電気冷蔵庫の普及とともに定着した風であって、保存技術の乏しかった時代にあっては、あり得ないことだった。生魚を準備して客を待つ商売では、当然、魚が損傷しないような処理を施すことになる。たとえば、塩で締める、酢で締める、ゆでる、焼く、ヅケ(醤油漬け)にする。などである。したがって、すしダネにはすべて調味が施してあるわけで、つけ醤油は不要であった。

  2. ▲握りの大きさ
    明治初年の与兵衛ずしの握りずしで、それは現在の握りよりも2〜3倍の大きさであった。あまりに大きすぎるので、後でこれを2つに切って供するようになった。これが「2カンづけ」の起源となった。

  3. ▲お好み注文すし屋のカウンターで職人と向かい合い、好みのすしダネを注文する方法も、当初はなかった。屋台では、あらかじめすしが握ってあり、客はそこから好みのものをつまみあげる。だからこそ、客は座るまでもなく、立ち食いで十分だった。ただ、この方法だと、売れ残りが出る可能性がある。そこで、客の注文を受けてから握るようになった。

  4. ▲文化的な意味
    今日では、握りずしといえば高級料理というイメージがある。が、当初はとんでもない話で、屋台で気軽に食べるものであった。客は、小腹を満たすためにフラリと立ち寄り、たったままで3つ4つをつまんで帰る。

  5. ▲酒を供するは当然
    今は「すしの味がわからなくなる」とて、酒を出したがらないすし屋も多い。けれども昔はそういう繊細なことは言わなかった。発酵ずしの時代からすしは酒の肴であって、酒を供するのは当然のことだった。けれども、屋台の商売ではそこまでの手がかけられないし、来る客はすでに呑んでいる場合が多い。よって酒を出ない店も多かったのである。

  6. ▲低廉な屋台店
    どちらかと言えば、高級とはいえないのが握りずし屋台であった。出入りするは圧倒的に男性が多く、女子供は持ち帰りか出前で食べた。むろん、店舗を構える者もあったが、与兵衛ずしでさえ、最初は路地奥の2間しかない店であった(天保7年<1836>『江戸名物詩』)。その一方で、高級感を売り物にする
    すし屋もあった。

  7. ▲すしが高級料理に
    文化年間に大阪から進出して深川で開業した「いさごずし」は、付近の名勝「安宅の松」にちなんで通称「松がずし」「松ずし」などと呼ばれた。この店の商売は派手で、しかも価格は常識を外れるものだった。当初は魚の姿ずしなどを売っていたようだが、握りずしができてからはこれも商うようになり、「卵は金、魚は水晶のごとく」というその高級感が世にもてはやされた。これに同調するすし屋も後を絶たず、これにより、すし屋は、屋台などの低廉なものと高級路線の乗ったものとの2系統に分かれた。高級な店は、天保の改革時に質素倹約令に触れて処罰されたが、以後また復活し、現在に至る。握りずしが高級料理になったのは、彼らの仕業である。

  8. ▲屋台店への規制
    一方の屋台店は、衛生と交通安全の理由から、昭和初年までにその多くが規制された。結果、握りずしは高級料理としてしか存在しえなかったのである。

  9. ▲回転ずしが屋台店商法と共通
    昭和40年代から、持ち帰りずしや回転ずしが流行し、いまや気軽な価格で食べられるようにもなっている。とりわけ回転ずしの人気は高い。「すし通」連中からはいろいろと揶揄(やゆ=からかわれる)されるが、よけいな作法をうるさく言わない、あらかじめ握ってある中から好きなものを選び取る、などの商法は、まさに江戸前握りずしが登場したころの屋台店商法と共通している。

 

 アジの酢漬けの方法           

旬のアジの酢の物を作りたいのですが教えてください。

  1. 塩の時間は大きさにもよるが、大体コハダの半分ぐらいを見当にして、約30分位。

  2. 塩と酢の時間は昔より短くなっている。生に近いものに変わってきている傾向。

  3. 昔は仕事のていねいな職人や店では下酢洗いに使う二番酢でも必ず布巾でこして
    魚の脂アク、ヨゴレを除いて使ったということである。

  4. 下酢洗いは皮目を中に二つ折りし、下酢につけたら、ボールをゆすって洗う。

  5. 手のひらにアジをはさんで軽く酢を切りしてから、清酢につける。

  6. 酢につけておく時間は、塩の時間でかわる。

  7. 酢の量はアジが全部かくれる程度。

  8. 酢の時間
     塩が30分だと酢は3分〜10分

 

 タイの味がおちないのは ?           

比較的長い時間、タイの味がおちないのはなぜか?

  1. 魚、は一般的に、死んでまもなく死後硬直という状態をおこす。

  2. 筋肉のなかで変化が起こり、糖分が乳酸になり、その乳酸がたんぱく質とついて、
    乳酸たんぱく質になり、これが堅くてコリコリしているため、ピンと張った状態になる
    と考えられている。

  3. このピンと張った状態のときが魚の味は一番よいとされている。

  4. タイやヒラメのような泳ぎ方もゆったりした運動の少ない魚は、硬直状態がゆっくり
    始まり、そして長くつづく。

  5. その上、これらの魚は消化酸素の力が弱い。当然、自己消化の速度もゆっくりしていて、身がくずれるのがおそい。

  6. そのため、サバやカツオなどにくらべると、長く味が変わらず、もちもよいのである。

 

 コノシロの呼び名の由来               

呼び名の由来

  1. 「子の代」(子の身代わり)
    戦国時代、三角関係を清算すべく、娘は死んだと偽って葬式をした。棺に入れた
    のがコノシロであった。つまり、子供の身代わりだからコノシロという訳。

  2. 「この城」
    語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は
    縁起が悪く、「腹切り魚」といって切腹のときに供える魚。

  3. 江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言の小肌にした。

 

 カツオに生姜                    

カツオに、ワサビでなく生姜を用いるのはなぜか

  1. クセが強く、生臭みやにおいの強いすしダネだけに、生姜を用いている。
    カツオやアジがそうである。

  2. ワサビは、そのピリッとした辛味の強い刺激で、瞬間的に味覚と嗅覚をマヒさせ
    それによって生臭みを感じさせないという働きをしている。生臭みそのものを消
    しているのではない。

  3. それだから、ワサビはピリッと辛く効いてないと、生臭みを感じさせてしまう。
    それに対して、生姜の方は、生臭みそのものを消す作用がある。

  4. だから、カツオやアジ(生)のように、ワサビで刺激した程度では味覚や嗅覚を
    ごまかせないほど、クセや生臭みの強いものには生姜を用いる。

 

カツオの焼霜                     

カツオをおいしく食べるにはどうしたらいいでしょうか

カツオを焼霜にするのはなぜか

  1. カツオやタイは皮そのものも大変味がよいので、皮も食べられるように焼霜に
    する。

  2. 生でそのまま食べるのとはまた、違った風味が加わり、よりうまくなる。

  3. カツオはとくにクセの強い、生臭みのある魚なので、皮を焼くことで生じる香ば
    しい香りをつけ、生臭みを消すのである。

 

 魚介類のゆで方                       

海老を上手にゆでるにはどうしたらいいですか

ゆでるとき、湯をたっぷり使うのはなぜか。

  1. ゆでる場合、加熱時間が長いほど、食品中の成分が不利に変化することが多い
    ので、できるだけ、短時間で処理することが望ましい。

  2. 湯の量が多いと、ゆでる材料をいれても温度がさがりにくく短時間で材料の処理
    ができるからである。

  3. 沸騰した湯へ材料をいれるのも同じ理由からである。

ゆでるとき、フタをしないのはなぜか。

  1. フタをとっておくと魚介類の場合、生臭いにおいが水蒸気とともに逃げてくれる。

  2. ところがフタをしておくと、生臭みが身の中に残ってしまう。

魚介類をゆでるとき、加える塩の働きはなにか。

  1. 塩分があると、タンパク質は低温でもかたまる。そのため、塩があると、湯に入

  2. れてすぐ、材料の表面がかたまり、中からうま味の成分が逃げ出すことをふさ
    げる。また、身くずれもしない。

  3. ゲソやタコは、塩をいれない湯でゆでる。しかし、これは、湯を入れる前に塩でも
    んであるので、塩を入れると同じ効果があるからである。

  4. とくに、イカやタコは表皮が強いので、短い時間では中で旨みが逃げ出すことは
    ない。

 

 バとジンマシン                     

サバを食べるとジンマシンが出るのは何故ですか?

 1、サバには独特の旨味がある。これはアミノ酸の一種である"ビスチジン"という成分が
       多く含まれている。
 2、ビスチジンは酵素によってビスタジンという成分変わる。
 3、死後、時間がたつとビスタミンがたくさんできる。
 4、ビスタミンの敏感な人になるとジンマシン、腹痛、吐き気、熱が出たりする。
 5、しかし、敏感な人はあたる。、鈍感な人はあたらない。
 6、海辺でピンピンしているサバを食べている人は敏感に反応する人が多い。

 

タイの湯霜する効果                        

タイは焼霜でなくて、湯霜にするのは何故ですか?

湯霜
 ①湯霜にすると皮も食べられる。
 ②皮が非常に美味しい部分。
 ③2〜3Kg位の嘔気さ大きさのものなら湯霜して皮を用いたい。
 ④3Kg以上の大きいものは皮がかたいので皮をひいて用いたほうが良い。
湯霜にする場合の塩の効用は
 ①塩をして湯霜するのと、しないで湯霜にするのとの差は霜降りしたあとの身の固さ
  である。
 ②塩があると、たんぱく質の擬古温度が低くなるので瞬間的に表面が固まって白くなる。
 ③そして中は生のまま軟らかく残る。
 ④これは味の好みの問題なので、塩をするかしないかはどちらでもさしつかえない。
タイは焼霜でなくて、湯霜にするのは何故か。
 ①タイは淡白で癖のない白身の魚なのでその風味はできる限りそこわないようにする事
  が必要。
 ②焼霜にすると香ばしい香り成分が出来てタイの淡白な風味がころされてしまう。
 ③湯霜の大切な働きは”さらっとした口当たり”になる事である。

 

江戸時代のマグロは下魚(げうお)

                 

マグロは昔は食べなかったと聞きましたが本当ですか?

  1. マグロが江戸前ずしに登場したのは170年前の天保年間とされている。

  2. マグロがとれすぎて江戸市中にだぶつき、ひじょうな安値になった年に、日本橋
    馬喰町の「恵比寿ずし」という屋台店が試しにマグロを握ってみたのが始まりに
    なっている。これが意外にもうまくて江戸っ子の人気をさらい、扱いとしては下魚
    であっても、明治のころはもう、「マグロがなくては商売ができない」とまでいわれ
    るほど、重要なすしダネになっていた。

  3. ただし、当初から明治半ばに至るまでの調理法は、しょうゆに漬ける「ヅケ」
    調理法であり、それには脂肪の少ない赤身の部分がもっぱらといってよいほど
    使われた。トロはもっとも価値のない部分だったわけで、高級店は背の身のほう
    から選び、安いトロは、屋台店など、下のランクの店でしか使われなかった。

  4. また、マグロの種類も、明治・大正のころまでは出前が主であるため、時間が
    たっても色のかわらぬカジキやキハダの方が珍重されがちであった。

  5. 現在のように、脂肪の部分が好まれ、クロマグロが高級品に変わったのは、
    関東大震災以後であり、トロに人気が出てきたのは、安い屋台店の客の間から
    といわれている。屋台が盛んになった昭和五〜六年ころから、トロが好まれだし
    たようである

 

アワビと塩の役割                          

アワビの調理法を教えてください。

  1. 身の硬いほうが美味である。オガイの方が珍重される。

  2. 口を切らずに塩をするとあわびが口を閉じてしまいので表面の身だけが
    しまり、全体に塩がまわらなくなってしまう。

  3. 従って、呼吸したり餌を食べたりしている口を切って傷つけ、そこから塩を
    まわしているのである。この方が完全に全体に塩をまわすことになる。

 

塩と酢のはたらき                          

酢物の魚の塩と酢について教えてください。 
塩と酢のはたらき

  1. 酢〆する時は必ず塩をふってから酢につける。

  2. 直接酢にはつけない。

  3. 塩をふることによって、表面の塩分濃度が体内より濃くなり体内の水分が細胞膜
    を通して外へ吸い出される。

  4. 従って、塩をすることによって魚の生臭みがぬけ、酢がよくしみ込んで味がよくなる。
    (しおをしないでは酢は全然吸収されない)

  5. 水分がそとへ吸い出されると魚は脱水状態になる為酢につけると逆に酢がよくし
    みこみ味がよくなる。

  6. ”塩梅”の作用でまるみのある味になる。

 

飯切りとウチワ                          

おすし屋さんでご飯を冷ますのにウチワであおぐと聞きましたがどうしてですか?教えて下さい。
ウチワであおぐのは、ご飯をさますためではない。ご飯の表面がベタベタしないように、余分の水分を早くとばすためである。また、ツヤもでる。
それと、昔、米酢や粕酢を中心に使ってた時代に、コウジ特有の匂いをあおいでとばしていた名残でもある。酢のツンとしたきつい匂いをとばし、すし飯特有のよい香りをだすのである。その意味で、扇風機を一定の位置に固定させて、強風を送ったりするのはあまりよい方法とはいえない。

 

江戸前ずしと回転寿司の差別化  

回転寿司のタコは硬くて歯切れが悪かったです。うちのおじちゃんは何時もたこは食べないのですが”魚竹さんの「たこ」は軟らかいから食べてごらん”といって食べさせました。こんな軟らかい「たこ」は初めて食べたと喜んでくれました。
現在のすしは選択肢が多岐にわたり、お客様にとっては楽しみの食べ物となっております。昔の江戸前ずしの材料に使われた魚は新鮮なものであって、その材料を下処理をし更に味付けし、飯(シャリ)と魚を馴じませてこそ『鮓(鮨)』であると今日まで伝えられてきました。ところが今日の形態のの違うすし店(一部の既存のすし店も含まれる)は、刺身(生魚)を主体としてシャリの上にのせるだけの「すし」が多いのが気になります。バブル崩壊後、特に消費者の生趣向化が更に強く鮮明になってきました。しかし、一方では江戸前ずしの煮物、漬け、昆布〆、酢〆、焼き物等が再評価されております。
 ご存知の通り鮨は日本食料理です。一人前の鮨には和食の基本である刺身、煮物、焼き物、酢の物等が料理(盛り込み)されているのです。全ての鮨には違った味があり、[江戸前ずし]とは味、色彩、季節等を楽しめるのです。
 今日、おろしたての刺身を乗せる、にぎりすし屋が多い中で、もともと、すしの旨さとは、その熟れた味にある。すしの基本的味が熟成にあることは明らかである。
あえて、無駄だといわれても手間ひまを惜しまないすしをつけること。それがこれから既存の江戸前すし店の生き残れる一つの道かと思う。すなわち「こだわりのすし」で差別化が可能です。回転寿司さんのタコのようにゆでるではなく江戸時代から「桜煮」といって、たこは軟らかく煮る作り方が伝授されているのです。当店は昔ながらのつけかたをしているのです。解かりましたか。

 

すしの基本的調理法         

大坂の箱ずしと握りずしは作り方は違うのですか?
ある意味では押す(重石)という調理方法は、すしなる食べものの基本的調理法だともいえる。

押すことなくして日本のすしの存在はない。
すしの基本的味が熟成にあることは明らかである。古代のすしの面影を残していると思われる近江のフナずし、岐阜のアユずしは、重石によって熟成され、京都のサバずしは竹の皮とスダレで締めることにより、大阪ずしは木箱でおすことによって熟成される。江戸前ずしは掌(てのひら)から伝わる温度と、握るという押しによって,江戸前の握りずしは熟成されるのではないだろうか。
 

 

お茶の湯のみが大きいのは何故か 

すし屋さんだけがお茶を出してもらう時湯のみが大きくて、重いのは理由があるのですか?季節によって湯のみが変わるのも楽しみです。
1、江戸時代末期から昭和の初めの位まで屋台ずしで客はもちろん立ったままですしを食べた  が、握り手のすし屋のほうは、面白いことに座ってすしを握っていた。
2、屋台店の握り手は、5人も客が並べば満席であるが、繁盛店ならずとも混み合う時間帯に  は後ろに立って席の空くのを待つ客が出るし次々に注文のすしをにぎらなければならない  し、お茶も出す、勘定をして支払いを受ける、という仕事もある。それを一人でこなすのだか  ら、忙しさは想像がつく。,
3、お茶の湯のみが大きいのは、何度も入れ換えなくてすむようにという理由からであった。
  いわばサービスの手抜きの方便であるが、これは現代のすし店にも引き継がれている。
4、お茶を注ぐ手間さえ省かなければならなかったのだから、まして酒など供している暇はな  かった。

 

すし用語で1貫とは                

前から疑問に思っていたのですが、すしの1貫とは、すし1個のことをいうのですか?2個のことですか?
1、にぎりずしを、1カン、2カンと数える。カンを貫と書くようだが、正式に決まっているわけで  はない。そのいわれも諸説あって、正確にはわからないのです。握り1ケを1貫と呼ぶ。
2、私の説であるが、にぎりずしの形が小判に似ている。江戸時代貨幣の単位で貫があった
  のだろうか?すしの価値感(美味しさ、目新しさ等)が江戸の庶民に受け入れられ、歌舞  伎や芝居小屋での風刺劇にも取り入れられ、大人気となった。すしと江戸小判をダブられ  たのではないか。江戸の町民文化はこのような、ネーミングを付けるのが流行のようだっ  た。
3、ついでにお話しておきたいのは当時の1人前盛りのすしの数のことである。
 イ、当時の1人前は、握り5個、海苔巻2切れで、これを5カン(貫の字を当てるべきであろう   か)のチャンチキ(祭りばやしの音にかけて太古の撥(ばち)が2本だから、そのバチの意   であろう)
 ロ、今日のすし屋でもこの5カンのチャンチキはよく使われている言葉である。
 ハ、このようにすしの用語は江戸文化の遺産である。

 

お茶の効用              

静岡のお茶は本当に美味しく、すしとのコンビネーションには感激しました。
お茶はどのような効き目があるのですか?
、,お茶はすしを食べたときに口の中に残る魚の味をお茶で洗う。
2、次にすしをまた,あらたに味わせるという目的をもっている。
3、すしを美味しく食べさせようと思ったら
 イ、煎茶の良い物や玉露になると甘味が味覚をマヒさせ、すしの味をまずく感じさせる。
 ロ、美味しく食べさせようと思ったら「ほうじ茶」や「番茶」の良いものの方が合うということも   言える。
4、そこですしに添えられるお茶は
 イ、すしを食べている間は旨味の少ない「ほうじ茶」が合う。
 ロ、食後として出すお茶は、旨味のあるお茶であっても良い。

 

すしの誕生と時代背景            

魚竹寿しさんが発行している情報誌を何時も楽しみに読ませて頂いております。そのの中に「馴れずし」について書いてありましたが小学校の子供にわかり易くすしの出来た時代のことを話したいと思いますので、お忙しいところ申し訳ありませんがメールで送信してください。よろしくお願いいたします。

関西のすし
1,奈良時代約1000年前、(学問の神様の菅原道真の頃)「馴れずし」ができた。
 米やあわ、ひえ等のデンプン質の中に魚や貝を漬け込んで、腐敗防止して、米やあわ等は 捨てて魚や貝を食べたのが最初です。 
2,室町時代約650年前(足利義政8代、北山、東山文化の頃)
 庭園、芸能、絵画の隆盛時代、この頃酢,味噌,醤油が出来た。
3,豊臣秀吉の時代
 「箱ずし」(はこつけずし)、今のバッテラの原型ができた。
 箱の中にすし飯を入れ魚の身を薄く切り、その上にのせ押すすしが誕生。身が赤くて食べる
 ことが重要視され、武士に献上するのに10日間見込んで御用達すし屋がつくり(つける)届 けた。
4,徳川家康時代約400年前
 食通であった徳川家康。大坂、京都でつけられていた「箱ずし」に代表される関西ずしが幕  藩体制と参勤交代で江戸に普及した。しかし、上流階級しか食べられなかった。
5,徳川吉宗(8代)285年前
 新興都市商人の町人文化となり、日本の衣食住の慣習や年中行事が成立した。
 朝夕2回の食事も3回となった。この時代に初めて「箱ずし」に包丁が入った。
江戸前のすし
1江戸時代末期約170年前、
 当時の身分の高い武士階級や裕福な商家の人たちは、決して外食をしなかった。
 江戸の町に屋台が出始めたのは江戸の末期である。そんな頃14歳で修行の道に入った
 華屋與兵衛(両国)が19歳の時ニュールック、インスタントすしの「のれん」をあげた。
 同時期のれんあげた3大すし店は深川の松ずし、日本橋の毛抜きずし、両国の與兵衛ずし
 があげられる。 

 

すしを食べる時醤油はどちらにつけるの

軍艦巻きに醤油をつけるときはシャリにつけるのですか?それともネタにつけるのですか?

1,江戸前すしのすしダネは下処理をして、味付けをほどこすのがあたりまえです。従って、
 全てのすしに醤油をつけたら、違った味を楽しむことが出来ませんので、醤油はできるだけ
 少なくして、召し上がってください。
2、当店はカウンターでは煮キリをつけて召し上がって頂いています。座敷では天然醸造醤油
 を用意してあります。
 本来はすしダネにはそれぞれ違った味付けがしてありますのでそのまま召し上がれるように なっています。醤油をお付けになられるならば、補う程度にシャリの方につけて召し上がって ください。
3、醤油のつけ方についての質問ですが、難しく考えないで下さい。軍艦巻握りの場合は、
 「ガリ」に醤油をつけて、それを軍艦巻きのうえにつけて召し上がる方法もあります。

 

教えてください稲荷ずしについて        

稲荷ずしのすし飯は静岡は何故五目ずしが入っていないのですか?
私の出身地の広島県では白米ではなく必ず具が入っています。
また、形も違って静岡は四角、広島県は三角です。

1、稲荷ずしの形は東西では非常に違う。東では油揚げを中央線で半分に
   切り、枕型に飯を詰めるが、西では対角線に沿って三角形に切り
   富士山型に詰める。
2、すし飯も東の方では白い飯が普通で、せいぜい麻の実か胡麻の実を
   入れる程度です。西の地方だと五目ずじか、人参の千切りに牛蒡の
   ささがきぐらいは混ぜてある。

 

昔の皿ですしが食べられるの?           

先日お店におじゃましたとき青磁皿(昔の皿)でおすしが盛られて出てきました、いつ行っても昔の皿で食べられますか?美味しく食べられました。
又、お店に「吊るし雛」がありましたが、売ってもらえるのですか?

1,ありがとうございました。昔の皿で盛り付けているのは毎週(木)(金)です。
2,吊るし雛は商品ではありません。魚竹寿し収集品の展示です。静岡市用宗で懐古展を申し込みあればお見せできます。

 参考文献  著者 吉野曻雄「鮓・鮨・すし すしの事典」

       監修 全国すし商環境衛生同業組合連合会 監修 「 すし技術教科書」

 

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