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120「江戸を食す」魚食文化の歴史

飛鳥時代に「肉食禁止令」がだされ、淡水魚のあゆ、ふなが尊ばれる。 

奈良時代も水産物の中心は淡水魚であった。海水魚のたい、あわびは重宝された。 

平安時代から魚はサカナと訓(訓読み)まれ始めた。

サカは杯(さかずき)のさかと同じく酒を意味する。

ナは魚(な)と菜()の両方の意味から、酒を飲む時の魚や菜の“つまみ”を呼ぶようになった。

最も需要が強かったのは塩さけやさけの卵(イクラ)・氷頭(さけの鼻先の軟骨)で役人の給料として

与えられていた。

鎌倉時代でも平安時代と魚食には大きな変化はなかった。

かつをが武士にとっては「勝つ」という語から戦場の門出の魚として縁起が良いとされた。 

室町時代になると米を常食とする食生活の基本が形成された時代。

この時代でも「魚は一番で鳥獣は後。魚の中では鯉が第一。次はすずき」と記されている。 

江戸時代初期にはまぐろは下魚(げうお)とされていた。

慶長年間(15961614)のことを記した『慶長見聞録』に。

「シビ(まぐろ)は味わいよからずとて、地下(じげ)の者もくらわず、侍衆は目にも見給わず、

そのうえしびとよぶ声のひびき、死日と聞こえて不吉なりとて祝儀などには沙汰せず」

と書かれている。

江戸時代中期にはくじらが本格的に漁獲され

庶民の魚としてはかつお・いわし・にしんが食されていた

江戸時代後期になると海水魚の沿岸漁業が主軸となり、すしダネのひらめ・あなご、小だい・さば・

しらを・こはだ・車えび・あかがい等江戸前鮨には欠かせないすしダネとして漁獲されるようになっ

た。

 

                     参考文献「現代すし学」 大川智彦著 

 

 

 

119「江戸を食す」立場茶屋と長門鮓

                           魚竹寿し店主
     季刊清水 44号 2011掲載              竹内 勝利
 

 蜀山人大田南畝の『改元紀行』(文化1年・1804)に、彼が公用で長崎へ下ったおり(享和1年・1801)の話として「十七夜山禅寺も左の方に見ゆ土橋を渡りて立場あり。左に草薙神社の道あり、村の名も草薙ち呼ぶ。小吉田の立場に至れば酒屋あり。小サキ桶に鮎を入れてひさぐ。 長門鮓 ( ながとずし ) と言う。味よろし」と記されている。(筑波大学付属図書館所蔵)

 今からさかのぼること230年ほどの前の江戸時代(将軍が11代家斉だった1780年頃)、東海道小吉田(現在の静岡市駿河区国吉田)にあった立場茶屋(府中と江尻宿の間に設けられた休憩所)の稲葉屋では、東海道を行く旅人に特産のお茶や山葵漬を旅の土産に販売する傍ら、甘く煮付けたニンジン、シイタケ、タケノコ、コンニヤクに蝦(甘く煮た桜エビ)を上置きした五目ずし(季節によりアユ、アマダイ、タイ、ヒラメの酢〆)を、竹のタガをはめた蓋付の小桶(直径10センチ深さ7センチ)に入れ、小腹を満たす程度のお土産として販売していた。

 

  <復元長門鮓>

画像の長門鮓は興津鯛(アマダイ)が上置き魚である。中でも桜えびの

桶鮓が長門鮓が美味だった。旬の魚をのせた高級の長門鮓であったが、

安い桶鮓もあり、サバやアジも使った。旅人のお土産や小腹に

入れるにしても抗菌力のある紅生姜(赤梅酢漬け)は必須だった。

 

明治32年の稲葉屋>

前が東海道、「御門」がはっきり見える。当時の絵図面にも「御門」があり、

ここから身分の高い人は入り、床の間と庭が見える部屋で休憩された。

 

  これを参勤交代の途中に食した長州藩長門の殿様がたいそう美味しいと気に入り、以来「長門鮓」の長門鮓で店の名物として親しまれるようになった。 殿様のお国自慢である岩国ずしは別称「殿様ずし」と言われる箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指だが、そんな岩国すし以上に美味しいと絶賛され「長門鮓」と命名されたのは、駿河の国しか獲れない桜えびの珍しさと美味しさによるのではないだろうか。

 駿国雑誌(1817年)に「長門鮓 は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓 (ごもくすし)也」とある。また、俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり、伊予松山へ帰郷の(安政4年1857)「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった」と追懐している。

明治天皇に関しても(明治2年・1869)「京都より東京へ御再幸の ( みぎり ) 、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」との記録と看板が残されている。

一方、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、小吉田のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのか、近くの蒲原宿のすしにしようと声だけ聞かせている。
 
「すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし」

このように立場茶屋は普通茶屋とは異なり、どちらかといえば身分の高い旅人が利用した場所だった。

 

<歌川広重「東海道53次」19>

江尻立場茶屋 稲葉屋が描かれており、「小吉田橋」と「名物すしや」がわかる

小吉田は宿場ではないので江尻宿にしたのか?

16代当主稲葉弘さんは

「当時、3000坪の敷地があり、造り酒屋もしておった。  
しかし、大名が立ち寄る度に茶店を改装したので、借金を相当した。下級武士やお供の方々はおむすび一人あたり3個あて調達し、休憩場所は近所の民家を利用した と話してくれた。 長門鮓にまつわる歴史には最後にささやかな逸話が付け加えられている。

東海道線が開通してからの稲葉屋は次第に衰退して明治中頃には廃業され、長門鮓も幻の鮓となったが、静岡特産のワサビを使用したわさび漬けの老舗田丸屋(創業明治8年・1875)が、東海道線が開通した際わさび漬けを駅売りすることになり、長門鮓の蓋付の小桶をもとに容器を開発し、それが全国的に有名になった。長門鮓は鮓自体が消えた後も、わさび漬け容器としてなじみの深い丸桶に姿を変え、今日まで引き継がれ人々に愛され続けている。

 

 

118「江戸を食す」和食とすし

 今や日本人は世界中の国々の料理を食べることができる。現在でも和食が最も人気があり、店も多い。日本に来る外国人の多くは日本食=和食のイメージとして、スキヤキ、テンプラ、すしを挙げる。しかし、スキヤキは明治の文明開化の産物であり、テンプラは室町末期から江戸初期の南蛮由来の料理である。すしは奈良時代から魚の保存食から始まり、江戸中期には上方では箱寿司、江戸後期には江戸で握りずしとして、日本の独自の食べ物として生まれている。外国人のイメージとしてこのなかで和食は、と質問すれば何よりすしを挙げるだろう。

一方、米食を主とする日本の食文化から考えてみると、これは歴史的な味覚として塩・味噌・醤油・酢といった調味料が加わり、米の飯に味噌汁と漬物があれば、おかずは何であれ和食となる。いずれにしても和食を「日本で発達した伝統的な、季節感のある料理」と定義するならば、すしはまさにその代表である。

 

   参考文献「現代すし学」 大川智彦著

 

 

 

 

117「江戸を食す」川柳と安価なこはだの鮨 

蜀山人の歌文化14年(1817)に
   ◆和唐紙にもの書くことは御免酒や
       こはだの酢に豆腐つみ入れ
というのがある。和紙の唐紙に字を書くことなんか真っ平だ。
あれは江戸城のご門の外で供待ちしている人足向きの金魚酒やコハダのすしや豆腐のつみ入れ汁みたいなものだから全部代用品だといった意味である。

井原西鶴の「一代男」(天和2年1682)
   ◆
坊主だまして還俗させて
       こはだの鮓でも売らせたい


滋賀県大津の柴屋町の遊郭を述べて
    ◆立よる者は馬かた、丸太舟の水主共、浦辺の猟師、相撲取、鮨屋の息
       子、 小間屋の若者、恋も遠慮もむしゃうやみ・・・・・

と、すし屋をあまり尊敬していない。
古い時代には漁夫同様の殺生商売だか都会人に嫌われたのだろう。


江戸の随筆「わすれのこり」(天保13年1758)は、

早春のころは、一夜明ければ小はたの鮨うり、
玉子うり引きも切らず売り来りしが

と、このころをなつかしんでいる。コハダのすし鯛のすしと売り歩いていたが、
いずれも数日漬け込んだのばかりだ。

越智為久は60余歳になって安永、天明の交を追憶し、当時の流行物の歌を紹介している。
    ◆三寸紋五寸模様に日傘
       こはだの鮓に花が三文
衣服の紋や模様が大きくなったり、だれもかれもが日傘をさすと共に、
コハダのすしも流行したことに注目
 

洒落本『青桜松之裡』(享和2−1802)には、
   ◆鯵のすふこはだのすふと賑やかさ
   ◆けちな鮨コハダの皮に飯を張り
   ◆口を酸くして呼ぶ、鮨売りの声は、
おしつよき客のこごとかと疑うとあり、夕闇がしだいに迫って来る頃、吉原遊郭内の道々を鮨売りは、「ぞめき客」(登楼する当てはないが、何となく廊内をそぞろ歩きしている男たち)の間を縫うようにして売り歩く。
 

当時その日その日を暮らしている、長屋住いの庶民は安価なコハダの鮨を求めていた。そんな鮨や生活必需品の需要に応じたのが「ボテ振り」と称されていた行商人である。町々や遊廓にも天秤棒で売り歩いていた。

 

 

 

116「江戸を食す」江戸前の鮨と徳川将軍御殿医

江戸前の握り鮨は誰が考案したのは約200年前の文化・文政年間に開業した「與兵衛ずし」の主人華屋与兵衛と堺屋松五郎の「松がの鮓」採り入れ広めたという説があります。

又、延宝年間(1673〜1695)に町医者の松本善甫(まつもとよしいち) (生年未詳〜1695)考案したと言う説。

松本善甫(まつもとよしいち) が考案の早鮓は箱や重石に詰めて押すといった従来の方式を改め、手で握る「握り早漬け」の方法ですぐ作れたので「待ちゃれず」と言われた。今日の江戸前の鮨「待ちゃれず」が嚆矢(物事の始まり)ともされ、松本善甫が御殿医になる十数年前のことである。

松本善甫、本人は御典医であり、しかも今日の順天堂病院の先祖にあたるが、代々れっきとした医者であったのではない。元来が会津天満宮の神官で、争いで人を切り、名を変えてを逃れて江戸へ出た。

松本善甫なる者器用な男で、身すぎ世すぎに医書を何冊かかじっただけで開業したところ、運良く当たって大評判になり、繁盛する、ついに元禄5年(1692)幕府に召し出され、常憲院殿(第5代将軍綱吉1680〜1709)に下級武士として仕えへ、禄高二百俵十人扶持(現在の年収に換算すると650万円で男女10人が生活する)を支給され、翌年の元禄6年(1693)には、ついに幕府の御殿医に召し出された。

 

 松本善甫の会津藩(福島県)藩主は保科 正之。

2代将軍徳川秀忠(1605〜1623)が慶長15年(1610年)駿府へ赴いている間、下級女中のお静は(お静は天正12年(1584)生まれ、25才の春将軍秀忠の大うばさま付の給仕役として大奥に入る)将軍・秀忠の寵愛を受け慶長16年(1611年)四男幸松として生まれる。第3代将軍家光(1623〜1651)とは異母兄弟。

話を聞き、弟の存在を知らされた家光は驚きますが、それでも正之をすぐ側に近づけることをしません。保科家の当主として江戸城に登城する姿を、陰からじっと観察します。将軍の弟に相応しい器の男かどうか見極めるためです。
その後、対面しよほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせました。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だった。

正之は家光から第4代将軍家綱(1651〜1680)の行く末を頼まれ補佐し、 その後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。

保科正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。

保科氏は3代目保科正容のとき松平に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった

秀忠の四男保科 正之は1657年焼け落ちた江戸城再建について遠くを見るだけのものであり4代将軍家綱に断念させた。

会津藩の保科氏の後押しもあり会津藩の松本善甫の子孫は

五代松本興世(1762〜1792)天明6年(1786)改易になるまで奥医師(歯科)

として仕えた。

現:徳川宗家第18代当主徳川德川 恒孝 ( つねなり ) 様も会津藩の出であります。

1回世界すし博覧会in静岡の時、徳川恒考18代当主が講演された。その中で、歴代将軍の食膳には
タブーとして供されない食物が色々あった。もちろん「すし」は食べたという記録は見当たらなかった
と話されておりました。

このように江戸前の鮨と徳川将軍との関わりがあったことは、鮨に携わっている者として江戸の文化の
伝承は必要不可欠なこととして認識している次第です。

 

 

 

115「江戸を食す」與兵衛鮨と原寸絵のレシピ

開祖 與兵衛鮨

文政年間(18181830)に両国回向院前にあった「與兵衛ずし」の主人花屋(華屋=小泉)與兵衛が始めたという説。
延宝年間(
16731681)松本善甫という医者が考案したという説
文化年間(
18041818)に深川の「松のすし」が売り出したという説
品格的採用が與兵衛鮨

與兵衛鮨の店

最初は文化7年(1810)に江戸本所横綱で鮨屋を開業した。当時は歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋が立ち並ぶ江戸有数の繁華街である両国、
しかも勧進相撲興行の会場でもある回向院の前に新しい店を出したそうと考えた。

にぎりずしをメジャーにした

そこで数多くの客に対応するために、時間のかかる箱ずしではなく短時間で作れる握り鮨を採用した。・・・・というのが本当のところではないか。
つまり握り鮨の考案者は他にいたけれど、それを繁盛店で本格的に採用して、メジャーにしたのが花屋與兵衛(小泉與兵衛)であった。

実際の鮨の絵

古い與兵衛鮨の仕事を知るための資料として、與兵衛鮨4代目主人の弟でもある小泉清三郎「俳人小泉迂外(こいずみうがい)が明治43年に記した「家庭の 鮓のつけ方」という本があります。
この本の口絵の部分には、明治
10年頃、実際に「與兵衛鮨」で握られていた鮨を日本画家の川端玉章が写生した15種類の絵が描かれている。イカの印籠詰め・太巻き(のの字巻)きす、こはだ等のサイズは現在の2倍〜3倍の大きさである。

き寿司(人形町)

馬喰町にあった與兵衛ずしの支店「すし忠」で修行した初代の油井き太郎は9歳から奉公にあがった。
イカの印籠詰め・太巻き(のの字巻)等與兵衛鮨所縁の鮨を貴重な仕事をしっかりと受け継いでいます。

シャリの特徴

現在の握り鮨に比べて二倍以上であること。屋台では3倍くらいであった。
天保時代(
1830)「守貞満稿」(著者は喜田川守貞)に「京阪の鮨、酸味あじ強くすを良しとす、近年江戸の製酢味はなはだ淡し、鮨の本意失す。」と書いてある。
與兵衛すしのシャリは甘かった。
大正の末から昭和の始め頃、東京に大阪ずしが現れ始めた。この時のすしは酢の加減が甘く、東京のすし飯は酢が強かったというわけである。
酢と塩がきついこと。舎利に刻み海苔を混ぜること。

與兵衛の原寸絵

この絵は明治43年(1910)発行小泉清三郎著「鮓のつけ方」の口絵(ひと口半・原寸)として掲載
 
明治10年(1877)この絵は額面には二十数種の鮨の中から、15種をピックアップして、写した。

その他にはサヨリ・キス・シマアジ・ヒラメ・トリカイ・タイラガイ・アワビ等も握った。

與兵衛の原寸絵からすしダネとレシピを探る

かすご(春子・小鯛・カスッコ)

おぼろをかませて握ります。
あじ・さよりの〆に順ずる

白魚

 

 

ツユの作り方は酒と白砂糖と塩で味付けて煮る 
白煮の方法は平らな鍋に先のツユを煮たてそこに塩で洗った白魚を一本づつ、ならべて蒸しぶたをして弱火でさっと火を通す。

握るときは5〜6本ずつ頭をそろえて、葉蘭の上に白魚を乗せて握る
これを煮たかんぴょうを細く細かく切ったもので1本ずつ結んだ

鮎姿ずし

 

 

12,3センチの鮎の骨を抜いてエラをとって、塩にして酢にして、腹の中にご飯を入れると、アユが泳いでいる形を作る。
他の光ものと同じ仕事をする。酢にして、大きなボールに頭を下にして入れると、頭に酢が下がり、軟骨が全部柔らかくなって頭から食べられる。

みる貝(ミルクイ)

富津・横須賀産は味が良い。熱湯に通し冷水にとる
アワビの旬(夏場)が終わる頃から味が良くなる貝。
一年中出回るが、旬は2月から6月。

ます

薄し切り身にして塩きり、水洗い。
酢味を抑えた桜鱒通常10分〜15分あてるが表面が白くなる。

こはだ

ザルに塩をふり、コハダをザルにならべ、また、塩をふる。
塩の時間は夏より冬の方が長時間。
水洗い、酢洗い、清酢に漬ける。

穴子

調味料は醤油、みりん、酒等
すしに主に使われるマアナゴで羽田、横須賀。富津産がある。

あじの丸づけ

アジの皮はむかなかったので、ゼンゴとりで赤い血合肉が現れないよう包丁使いをする。
ワサビは入れないでオボロをはさむのが本筋

ザルに塩。アジにふり塩する。

水洗い、水切りする。酢洗い。清酢に漬ける。酢切りする。小骨抜き、昆布でしめる。

さばの棒ずし

ザルに塩。サバにふり塩する。
水洗い、水切り、清酢に漬け、酢切りする。小骨抜き、昆布で〆。
背身と腹身の間を開く 皮を下にし、開いたサバですし飯を包む。

巻きスで押さえて、形をととのえる。

赤貝

2杯酢で洗う。ワサビで握る。
この時代
(明治から昭和の初期)江戸湾(羽田・千葉県検見川(けみがわ)神奈川県子安が良質。

クルマ海老

茹でて塩を振り、甘酢で〆る。シャリに海苔をまぶす。尾を取り化粧してある。

いか印籠詰め

スルメイカである。しいたけ・かんぴょう・のりをまぶせてある。地方によってはごま入りだけのものある。

干瓢巻

最も口直し的なもので、「巻きおさめ」といって、最後に食べるのが、すし道のエチケツトだという通人がある。チャンチキ(1本を3ツ切り)

太巻き

しいたけ・かんぴょう・おぼろ・薄焼き玉子等

 

114「江戸を食す」すしの変遷と巻きずしの歴史・知識

すしの系譜(派生的=元になる形からの流れ)

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■馴れずし(ホンナレ)

日本最古の滋賀県(琵琶湖)のフナずし 奈良時代(715〜806 )1200年前

魚・飯・塩のみで熟成発酵させて酸味を得て、飯(粟・ひえ)は除いて、1年後に魚だけを食べるこれをホンナレという。

すし用フナは魚体が細い。ニゴロと言う。料理ブナは扁平。マブナ・ゲンゴロウと言う。しかし、このように正式の標準品種名とするのは無理。400年前の書籍にも源五郎フナとある。挿話があまりにも有名ゆえに。

 

挿話(エピソード)で有名になり名前の由来

錦織源五郎
 錦織源五郎というお侍が殿様に琵琶湖で取った大きなフナを献上しそれが美味しかったのでこの名が付いたと言います。
 源五郎というぐうたら亭主が女房に追い出されて転々としているうちに琵琶湖のフナになったという話があります。

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■生成

米の無駄はそれがなまなましいうちに食べることが始まった

和歌山県 熊野 ( いや ) 地方(せき止め湖・世界遺産の熊野古道)にサバの馴れずし、兵庫県のツナシずし(コノシロの一年子)、アユずしは全国的に行われており、漸次早ずし化しつつある。

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■いずし

●キムチの日本型で、野菜より魚の方が主となったものと考えてよい。

野菜類を多分に混ぜ

元禄2年〈1689〉)など江戸初期の文献に明らかである。

石川県のカブラずし(カブとブリ)、秋田県のハタハタずし(唐辛子や人参)、近江のフナずし、は糀の作用で発酵は促進される。過去の遺物と化、幕末に至るまで、室町時代さながらの発酵ずしの製法を堅持した例もある。

●発酵ずしの衰退

将軍家・大名・公家などの階層でやりとりされた、贈答用のすしである。明治維新後、献上ずしの多くは、かっての名声とは裏腹に、この機をもって、ほぼ消滅した。

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姿ずし(ナマナレ)800年前の鎌倉時代には長良川のアユずしなど腹にすし飯を詰め、重石をして漬けられていまし創業1652年)

室町時代になると、まず、ナマナレの発生を挙げなければならない。
ナマナレはホンナレに対する語である。ホンナレがしっかり熟成発酵させて飯をこそげ落として食べるのに対して、ナマナレは発酵の早い段階で止め、飯も一緒に食べる。
すしが「ご飯料理」になるのはこの時代からである。これは、すしの歴史の中で画期的なできごとである。

この頃には節米意識から米も食べるようになった。

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600年前の室町時代になると南蛮貿易が開幕し、生活様式が変化し食事も2食から3食になり、酢が庶民に普及したのもこの時期でした。
京都・伏見の米酢は、清酒が原料の、「白酢」(しろず) 素材の味と色をなにより大事にする京料理のために、まろやかでやわらかな酢の味わいになりました。
対して江戸では「赤酢」(あかず)酒粕が原料なので、色は赤みを帯び酸味のキツさが特徴。コッテリした味付けの江戸料理が求めた味です。

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●400年前の安土・桃山時代でもアユずしを豊臣秀吉は朝鮮征伐時に糀の作用で発酵を促進させ製造から10日後の丁度食べ頃に届けさせたとも記されています。

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■棒ずし(ナマナレ)

姿ずしから棒ずしへの移行

もとが姿ずしである。尾頭つきの魚をすしにした場合、頭や尾、背骨などは固くて食べづらい。姿ずしから棒ずしへの移行

そこで、頭も尾も背骨もとって、いわゆる3枚おろしにしてそのおろし身で飯を抱き込ませるという発想が生じる。

これが棒ずしと称されるもので、さらに飯の部分が量的に勝ってくると、棒状の飯の上に魚身を貼り付けた松前ずしやアナゴずしのような形状になってくる。京都のサバずしは焼津のサバを使用している。昆布で巻いて、上を竹の皮で包み、ふきんで巻き締める。

 

 卯の花ずし

島根県の卯の花ずしおまんずし
オカラを使ったサバ姿ずしで、
風変わりな名前の由来
 江戸の「おまんずし」は、宝暦の初めごろ(1750年代)、上槇町(日本橋南通)で長兵衛なる男が始めたすし屋である。後に紀伊国屋と称したが、店主の妻の名前が「おまん」で、時の人気役者で女形の(菊の丞)に似た美人として誉れ高かったため、「おまんずし」の名前は知られていた。

おそらく江戸の「おまんずし」が起源ではないかと思われる。

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■飯ずし
すし飯を主体に、上に魚肉をはったもの

箱ずしへの移行
切り身漬けの発酵ずしは、酢が使われるようになり、今日的な箱ずしへと発展していく押し抜きすしである1800年代までは米酢が一般てきであった。

 

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●大阪の箱ずしは「こけらずし」

「こけら」とは、ひとつには木クズの意味がある。薄切りした魚の身を木クズに見立てたのであろう。典型的な「切り身漬けのすし」であり。もうひとつ、「具材は、瓦代わりの薄い板を並べるように、少しずつ隣に重ねながら置いてゆく」瓦代わりの薄い板を指す意味がある。

箱から抜き出して切り分ける手法で大阪ではこけらずしと称しており2日間という短時間で食べられる押し寿司です。

富山県のマスずし・静岡県の田子すしなどは300年前から有った。

 

型入り五目ずし

長崎県大村ずし、山口県岩国ずし
長州藩長門の殿様うならせた長門鮓(静岡市)は桜海老が入っていて珍しさと美味しさで。
わが国の箱ずしの中で最も豪華なすしのひとつに挙げられる

長崎県大村ずしは」
容器は「もろふた」底板がはずれるすし箱はキッチリと押し付けるので、できあがったすしは投げてもくずれないことから、「投げずし」とも呼ばれる。

 

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■混ぜずし(ちらしずし・五目ずし)

起こしずし
一方、箱から抜き出して小さく切り分ける工程を省略するために、箱から抜き出さず、さじですくい取る方法も現れた。さじで起こすから「起こしずし」「すくいずし」と呼ばれた

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●混ぜずし(ちらしずし・五目ずし)

ついには最初から押しをかけないすしの誕生に至る。これが、混ぜずし(ちらしずし・五目ずし)である。ここに、押しをまったくかけない、前代未聞のすしが誕生した。発酵ずしのホンナレ、生成、いずし。そして、早ずしの姿ずし、棒ずし、箱ずしもまた。必ず押しの工程があるゆえに、これはすしの歴史の中では画期的なできごとだと言える。

静岡市の長門鮓(静岡ちらしの原型)

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■印籠ずし
イカの印籠漬け、竹の子印籠ずし、白ウリ印籠ずしで空洞の中に詰める
●稲荷ずし

棒ずしの変形
嘉永2年(1849)の随筆『守貞漫稿』によれば天保年間末期(1840年ころ)に、 油揚げの小袋に五目ずしを詰め、「稲荷ずし」「篠田ずし」と称して売る者があっ たという価格は「最も 賤価 ( せんか ) 」(いやしい)だった。

巻きずし同様、「見立て」

「天言筆記」弘化2年(1845年165年前)に稲荷ずし流行と有り、最初はシャリの上に油揚げをのせたもので、あった・・・・」と記載されており、後に袋詰めになったとある。

稲荷ずしもまた、巻きずし同様、「見立て」(=あるものをそれと別なものを表す)に端を発した 当時の発明品で、油揚げは、魚の外皮の代用と見られた。

●稲荷ずしを切り売り
飯やオカラなどを詰めたもの細長い稲荷すしを包丁で8ツ切り、ワサビ醤油で食べるという行為は、魚の姿ずしや棒ずしに通じるところがある。

油揚げの切り方は、東の四角形と西の三角形と、ほぼ日本を二分するかたちで分布を分けている。たとえば四角形の栃木県では「稲荷とは稲の荷物、すなわち米俵の形に仕上げるもの」だという。カンピョウの産地(昔は大阪難波の木津地方)であることが影響してか、いなりずしをひとつひとつカンピョウで縛った「俵ずし」である。

一方、三角形では、三重県で「お稲荷さまの使いはキツネ。
だからいなりずしは「キツネの耳を形取って三角形につくる」という。

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■巻きずし

●棒ずしの派生形が巻きずし
ずしと違うのは魚とご飯の位置関係で、棒ずしでは魚身の内側に飯があるのに対して、巻きずしは魚身をご飯で包む。この逆転現象を、当時の人の遊びの心の表れ

( ) の子の上に飯を広げ、魚身を乗せて巻きつけるという今日的な巻ずしは、安永5年(1776)の『新撰献立部類集』が初見えである。棒状になったものを小口から切って食するとあるから、まさに現代と同じである。ただし、「飯めしを広げる前に、 ( ) の子の上に海苔または和紙またはフグの皮を敷き、和紙の場合は、これをはがして食べる」との旨が記してある。

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●『名飯部類』(享和2年<1802>)にはワカメで巻いた「メ巻き」が紹介されているし、幕末には、卵焼きで巻いたものも登場する。さらに、芯となる具材も、当初は魚身であったのが、いわゆる精進物にも目を向けられ、嘉永2年(1849)の随筆『守貞漫稿』では、「海苔巻ずしの中身はカンピョウのみ」と解説する。こうして、巻きずしのバリエーションは増えていった。

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●薄焼き玉子で四角に包む茶巾ずし、厚焼き玉子で巻けば伊達巻、油揚げで包んだ稲荷ずし、紀州熊野の漬菜の葉で包んだめばりずし(タカナずしともいう)なども広義の巻ずしに入る。

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上方と江戸との違い

上方(関西)は「巻きずし」という。江戸(東京)は「海苔巻き」=(浅草海苔)という。

江戸で細巻きが考案されてから太い海苔巻きを「おお巻き」と呼んだ

上方の海苔は焼かない。江戸は焼いた海苔。

江戸の海苔はツヤがあり、パリッとした歯ざわりがある。巻く時はすばやく「巻簀(すのこ&簾=すだれ)」で巻く。

上方の海苔は生(焼かない)だから破れる心配はないのでぬれ布巾に包んで巻く。

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江戸風の大巻き

江戸風の大巻きは飾り巻きずし(からくりずし)に見られるように派手に巻く。これらの海苔巻きは明治初期に考案された。

即興的で実用的な細工巻でなければならない実用性は昔も今も変わらない。
見て楽しむ嗜好の変化、他業態との差別化等商品性を高める一つの方法と言える。

大阪の 乗水 ( じょうみず ) 主悦門下で京都の荒木信次(重兵衛)が一流で、今のすしはあくまでも口に入れるものを忘れず、要点をつかんだアッサリした作品を発表(旭出版))

海苔巻きの芯に工夫をして切った面にいろいろな模様をうきださせる「切出し」がある。四海巻、梅鉢巻、文銭巻などがそうである。

見て楽しむ嗜好の変化、他業態との差別化等商品性を高める一つの方法。

 

当時、江戸料理は見た目の楽しさを追求するあまり、食べてみての旨さを忘れかけて命取りになったともいわれている。

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細巻きすし

御婦人が最近は長いまま細巻きすしを切らずに1本のまま食べる人が多くなっているが、あまりチャーミングとは言えない。
しかし食べるには理屈は抜きにして要は旨ければ良いのであるが、

昔から細巻きすしの包丁の約束になっている事は承知しておくことも必要である。

細巻き(かんぴょう巻)は戦前までは三つ切りが普通であった。これを江戸ッ子は遊び言葉でチャンチキ(馬鹿囃しの太鼓の ( ばち ) になぞられて)と呼んだ。

戦後になって一切れ余分になるので四つ切りにするのが常識となった。

何故か判らないがすし屋の先駆者達はオボロ巻は四つ切りの方が旨いと言う

但し、鉄火巻、玉子巻、穴子巻は六つ切りである。

カッパ巻、お新香巻、奈良漬巻は合間に食べるお茶うけ代わり(お菓子がお茶を引き立てるとう意味に転じ、「お茶請け」という語が使われるようになった・・・)といことで巻きずしは1本を八つに切る(八つにおろす)と約束事になっていた。そして、切り口を天地にして出すのが定法である。かんぴょう巻きは切り口を横にして客の前にそろえて出すのがすし屋の定法である。

巻き収めと言って巻きずしを食べてから握りを注文する客がいるがこれは食べ方の邪道である。せっかくの味覚を損じてしまう

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チャンチキの語源

江戸では和歌囃子を馬鹿囃子と言う

拍子の撥の打つ数が、和歌の文字数の五七五七七と同じであったことから和歌囃子と呼ばれた。その後、洒落好きの江戸人が、和歌と馬鹿の語呂が似ていることから、馬鹿囃子というようになった。

馬鹿囃子の由来は300年前の元禄時代の江戸は、100万の人口を持つ大都市であったが、妻子を国元へ残した参勤交代の武士や、出稼ぎ小商人や若い職人が多く、男性が女性の倍も住む都市であった。自然、公認の遊廓や遊里そして半ば公認の岡場所や飯盛旅籠が増えた。花街が栄えると、農家の若者などにも遊ぶ者が増え、度が過ぎて身を滅ぼす者も出て、社会問題になってきた。
 関東の役人は、趣味を持たせることが対策になると考え、京都 囃子 ( はやし ) と同じような江戸独特の囃子をつくることにし
、大太鼓、2個の締太鼓、笛そして ( かね ) (かね)の5人で演奏する関東独特の明るい歯切れの良い調子でチャンチキ、チャンチキと屋台で奏でた。

京都祇園祭りの祇園囃子は「コンチキチン」

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海苔

●海苔の養殖
江戸中〜後期230年前にかけて、江戸の隅田川よりで浅草海苔生まれた。

それ以降の生産地は品川そして品川がが衰退し大森に移る。浅草は「あさくさのり」の名前だけが残った。(ヒビに付いて9月末頃から成長していく)

江戸に季節的出稼ぎで海苔を地方に売りに出たのは長野県諏訪の人達であった。

淡水湖であつた静岡県浜名湖は500年前の明応6年(1498)の大震災以来海とつながり、その頃からすでに、「あさくさのり」が採取されていた。

遠江舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森の生のりと同じだったので文政2年(1819)192年前遠江舞阪に養殖をすすめた。

天保年間(1830〜1843)181年前には清水、江尻にも海苔養殖がひろまった。

今日のようなにぎりずしになってくる始まりは徳川氏が天下を取ってから、主として駿河(静岡県の遠江・府中地方)、三河(愛知県の岡崎地方)といった家康の権力範囲の東海地方からで、そのころは今日みるような「稲荷ずし」と「巻きずし」とほぼ同じ形のもので、旅行者の携帯用便利食として重宝されていたと伝えられています。

大森の海苔は荒川と多摩川と江戸川という3ツの川の真水が入って、淡水の影響は大きく、それと塩水との混じり具合がいい海苔が繁殖するのに丁度良い条件となっていた。

江戸前の魚貝も美味はこの流入のおかげである。

現在も“本場ブランド”を守り続けている産地は江戸湾千葉県富津岬の内房地区で、上総海苔として人気が高く、香りの点では全国一とも言われます。

現在は、佐賀県が生産量、消費量、品質全て日本一である。

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「ひやかし」の語源

浅草の地には紙すきの工場があって、紙をすいて仕上げるまでに、紙をしばらく水にひたして冷やしておく工程があり、これを「ひやかす」といった。

職人たちはその間暇なので、近くの吉原遊郭をのぞきに行ったという。   

それらを「ぞめき客」(登楼する当てはないが、何となく遊廓内をそぞろ歩きしている男達)買う気もないのにぶらついたり、値段だけ聞いて買わないような「ぞめき客」の行動から「ひやかし」というようになったのだ

すしの浅草海苔も浅草紙のすき方など製造方法を真似て作られましたのでサイズはほぼ同じです。

海苔のサイズ横19mm 縦21mm 

 

113「江戸を食す」穴子箱ずし 

東京風握りずし、京都風サバずし、大阪風箱ずしが本来の寿司として定着しているが、

各地にその土地伝来のすしがある。

昔から夏には大阪では穴子箱ずしがつき物で1尾 25匁(94g)が丁度良いとされている。

当店でも江戸前の鮨店にも関わらず「大阪風の穴子ずし」をつくる。

これもお客さんの要望が強いからである。

穴子の箱ずしには1尾100g以下江戸前のアナゴを使用している

椎茸もつき物で味付けした椎茸を細かく切ってシャリの間に挟みます。

この夏の時期は脂があるので、脂が出てこないよう包み込んで白煮にして煮て、

漬け込みしてありますので焼くときも皮目を下にして焼き、脂が出てこないように

強火で焦がさないように焼きます。

 

 

112「江戸を食す」江戸時代のすし屋も高級内店・普通内店と屋台店

 

江戸時代のすし屋も3の形態がありました
1つ目は内店で高級な店は出前・お土産と同時に料亭式に座敷でも食べさせました。
「松が鮓」、「與兵衛」、「毛抜き鮓」を江戸の三大すし屋。
「名ある鮓屋は江戸時代末期には屋台店を置かず・・・・」とあるように格式を重んじた。
2つ目は普通の内店は出前と土産用にすしを握った。
一軒の店をもつ以上、食べる時間、丁度其の時に旨くなければいけない。

即ち馴染ませる江戸前の鮨を伝承している店である
内店の中には夜になると付属屋台を本店とドッキングさせて店内に取り込んで営業した店もあった。

3つ目は握るそばから食べていくのが夜の屋台店のことです
一軒の店を持つことが出来ない資本力の少ないすし職人は日暮れを合図に、
屋台を引き出して営業したのです。

しかし、お金を蓄積して一軒の店を持つ心構えの乏しいその日暮らしの、向上心のない
職人の多かった事も事実であり、すし種も安価な物を使ったし、客の前で注文に応じて
素早く握る必要から、ぞんざいな(粗製乱造)仕事になってしまいがちであった。

大正12年の東京大震災以後、その屋台店が東京から無くなって、
中には何とか一軒の普通の内店を構えたのは良いが屋台店の粗製乱造の風まで店まで
持ち込んだ店も登場した。
そのような店の末路は残念ながら店じまいを余儀なくされた。

 

 

111「江戸を食す」海苔巻き 

上方と江戸との違い

上方(関西)は「巻きずし」という。江戸(東京)は「海苔巻き」という。

江戸で細巻きの考案されてから太い海苔巻きを「おお巻き」と呼んだ

上方の海苔は焼かない。江戸は焼いた海苔。

江戸の海苔はツヤがあり、パリッとした歯ざわりがある。巻く時はすばやく

「巻簀(すのこ&簾=すだれ)」で巻く。

上方の海苔は生(焼かない)だから破れる心配はないのでぬれ布巾に包んで巻く。

江戸風の大巻き

江戸風の大巻きは飾り巻きずしに見られるように派手に巻く。

これらの海苔巻きは明治初期に考案された。

当時、江戸料理は見た目の楽しさを追求するあまり、食べてみての旨さを忘れかけて

命取りになったともいわれている。

細巻きすし

昨今は細巻きすしを切らずに1本のまま食べる人が多くなっている。

食べるには理屈は抜きにして要は旨ければ良いのであるが、

昔から細巻きすしの包丁の約束になっている事は承知しておくことも必要である。

細巻き(かんぴょう巻)は戦前までは三つ切りが普通であった。

これを江戸ッ子は遊び言葉でチャンチキ(馬鹿囃しの太鼓の撥が2本だから)と呼んだ。

戦後になって一切れ余分になるので四つ切りにするのが常識となった。

何故か判らないがすし屋の先駆者達はオボロ巻は四つ切りの方が旨いと言う

但し、鉄火巻、玉子巻、穴子巻は六つ切りである。

カッパ巻、お新香巻、奈良漬巻は合間に食べるお茶うけ代わり

(お菓子がお茶を引き立てるとう意味に転じ、「お茶請け」という語が使われるようになった・・・)

といことで巻きずしは1本を八つに切る(八つにおろす)と約束事になっていた。

 

 

110「江戸を食す」和食回帰

農業や漁業の再興、再生、復興は食から始まる・・・・・とある雑誌に載っていた。

まさにその通りだと思う。

戦後10年経過した頃はまだ中学校に弁当を持参できない生徒が数名クラスの中にいて、

先生が分け与えていた。それだけ貧しい時代であった。

戦後15年経過した昭和35年頃には肉類が多くなり油で加工したおかず類が

食卓に並ぶようになった。

しかし、私の家庭では母親がそのような料理法は知らず、

日々、魚中心の煮る、焼くの和食であった。

高校生時代、友達の弁当に魚肉ソーセイジが入っており、初めて知った時の珍しさが

今でも鮮明に覚えている。

それから50年後の現在、それゆえに生活習慣病や癌がが激増した。

母は95歳元気である。私達は欧米の食生活習慣で参りましたので、

母の年齢まで生きられるか疑問であり、将来ある幼い子供たちへの影響を考えると

アメリカ式の浪費ともいうべき消費万歳の生活態度を改めなければ

手遅れになるのではと危惧しております。

魚、野菜、果物等「旬のもの」の素晴らしさを食生活の中に取り戻すべきではないだろうか。

真の豊かさは、別のところにあり、命を大切にし、心の温かさを保つためにも、

戦後の消費生活全体を見直すべき、「和食回帰」を唱えたい思いです。

そこで、すし屋の立場から言えることは、「旬のもの」は美味しくて、安価であり、

加工技術により更に旨みが加味され、安心・安全の日本料理の「江戸前の鮨」

にしておりますので、生活環境も考慮しつつ、お子様ともども御来店お待ちしております。

 

 

109「江戸を食す」穴子サキ包丁と煮方

仕込みの中でもアナゴは一番手間隙がかかります。

アナゴ捌くには専用の「穴子サキ包丁」が効率良く捌けます。

2代目は女性の鮨職人として魚の下処理を10数年手がけてきましたので、

アナゴの内臓を残さずいっきに捌くコツを取得しているようです。

その後の処理には手間が相当省けます。

包丁使い方如何で内臓が残ったままになりますので、その時は骨抜きで内臓を取り除きます。

大量のアナゴを裁くと握力と集中力が低下しますので、若い男性職人でさえも重労働です。

旬のこの時期はまだまだ仕込みは続きます。

当店は5kg4050匹入りのアナゴですので「漬け込み」という煮方です。

薄い醤油で、色をつけない白煮ですので骨まで柔かくなり、味も滲み込みます

江戸ではメソアナゴといって「まるづけ」できる一匹ごと握る

小さなアナゴを使う店が今でも有り、「爽煮」(さわに)という煮方です。

 

 

 

108「江戸を食す」どじょう鍋

野田新総理大臣のどじょうのような泥くさい・・・が話題に。

どじょう鍋は江戸下町で古くから好まれ外食料理として普及した。

そのどじょう鍋から新しい「柳川鍋」が天保年間(183043)の初期の頃

生み出された。

土鍋に笹がき牛蒡を敷き、骨抜きのどじょうを並べて、卵とじにしたもの。

1848年(嘉永元年)発行の江戸市中外食店案内にはすし屋97軒(関西の箱すし)、

どじょう屋12件、蒲焼屋90軒、そば屋120軒もあったと記されている。

江戸前にぎり鮨の出現の1870年よりも40年数年前には家庭料理は商品化

されていたのである。

 

 

107「江戸を食す」サバは酢締めにするのは何故か 

本日のサバは長崎県から西へ100km先の長崎五島列島から入荷のマサバです。

この季節のサバは棒寿司・押し寿司用として丁度良い脂ののり具合でです。

すしダネとしては11月から12月出回る秋サバは歯ごたえも味も良くなりますが脂っこさがあります。

すし屋ではサバは鮮度の落ちが早いので、生食用としてすしダネにすることはいたしません。

魚臭さや中毒原因ともなる物質含まれている可能性がありますので、食酢で締めた〆鯖にするのです。

塩であく抜きし、食酢で締めると脂っこい食感が無くなり、細菌の生育も抑制され、

鮮度の低下を遅れさせます。

魚臭さや中毒の原因物質が中和されるので、安心して召し上がれるのです。

そして、美味しくいただけます.

 

106「江戸を食す」江戸は欧州より100年早い料理店の出現 

江戸は世界的にみても最も早くから外食文化の発展した都市であった。

ヨーロッパにレストラン(料理店)が出現したのは、フランスでは1765年、

イギリスでは1827年。江戸の料理店の登場は1657年といわれ100年も早い。

この年大火に見舞われ市中の三分の二が焼失した。その大火復旧工事に、

各地から集まっ来た職人、土方などを相手にする煮売屋がたくさん現れた。

その中に奈良茶を食べさせる店が出てきたのが江戸の料理店のはじまりとされている。

田沼時代の最盛期は江戸の都市生活が最高潮を迎えつつあった1777年頃料理屋も

急速に増え31軒の名前があげあれている。

すし屋ではおまんずし、深川ずし、笹巻きずしの名がある

江戸前にぎり鮨は與兵鮨が1870年(文化7年)に江戸両国で鮨屋を開業した。

イギリスに出現した頃には江戸時代の1848年(嘉永元年)に発行の

土江戸市中飲食店案内には江戸にはすし屋97軒、どじょう屋12件、蒲焼屋90軒、

そば屋120軒もあった。

このように一定の店舗をかまえた料理屋は中流以上の市民達の世界であったとすれば、

江戸市民の大半を占めていた長屋住まいの人々の外食は屋台と振り売りであった。

参考文献:渡辺善次郎 著 巨大都市江戸が和食をつくった

 

 

105「江戸を食す」アナゴには2通りの煮方

江戸前の野島や観音崎に勝るアナゴは無いでしょう。

明石のアナゴも上物ですが、夏場にかけての江戸前のアナゴは弾力性と脂が有り、

煮上がった時の身のふっくらした柔らかさと厚み、

そして、甘みは40数年使っているがやはり江戸前に限ります

江戸前の穴子鮨には2通りの煮方があります。

とろけるくらい柔らかくなるまで煮てそのまま握る店。

もう一方は煮る時間を短く、少し硬めに煮上げておいて握る際、炙って供するタイプがあります。

当店はどちらかと言えば、前者の店と同様に舌の上でトロリととける柔らかさになるまで煮て、

握る際に後者の店のように頭の方は皮目にパリパリと炙ります。

尾の方は身の方を少し炙って香りを出します。

煮ツメを皮目に身の方はユズ塩で美味しさをかもし出しております。 

 

 

 

104「江戸を食す」すし飯と合わせ酢

すしタネは日々こだわって仕入れしている。一方すし飯のこだわりはタネほどではない。

すし職人の多くは産地、品種にこだわり、考え方を持ちあわせていると聞いている。

私などは長い付き合いの米店に任せて、意見はあまり言わない方である。

只、産地は富山県黒部、品種はコシヒカリで古米と新米をブレンドしたすし米だけを

お願いしてお任せしている。

新米だけよりも古米を混ぜたほうが握ったときは硬さが保たれ、粘りもあるので、

タネとしっかりと馴染みます。

又、口の中に入れるとパラパラとほぐれて、旨いすし飯ができる。

江戸前の酢合わせはもともと塩と食酢だけであったが

最近はほとんどのすし店は砂糖を使う。理由は「つや出し」と保存性を高めるためです。

砂糖は溶かしただけでは「つや」は出ませんので、

塩に食酢を混ぜたら塩が良く溶けるようにいたします。

そして上白糖を入れたら溶け易くするために加熱します。

勿論、沸騰させてはいけません。

 

 

103「江戸を食す」新子とコハダの語源

漬けかたは200年も変わらず

1、塩と酢で決まる

2、振り塩

3、水洗い(塩出し)

4、二番酢で酢洗い  

5、本漬けは一番酢で

 

学問上ではコノシロでコハダは江戸の方言 

出世魚

シンコ(新子)は4cm〜5cm位

コハダ(小鰭)は 7cm〜10cm 

ナカズミは12cm〜13cm位

コノシロは15cm以上

と言われている。


新子

握りは江戸時代には秋の味だった。最近では静岡県の浜名湖から夏には入荷が始まり、

東京湾ものが出始める初秋には初物食いでは無くなって来ている。

コハダ(小鰭)の言い伝え

魚体の表面が柔らかくて光沢があり美しい、子供の肌から子肌(コハダ)と呼ばれた。

又、小さな魚体の表面が江戸時代の江戸火消しや鳶などが浮世絵に描かれている刺青文化の

粋な肌に似ていることから小肌(コハダ)と呼んだ。

学問上の名称はコノシロ(この城)

語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は

縁起が悪く、「腹切り魚」といって切腹のときに供える魚。

江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言のコハダ(小肌・小鰭)にした。

 

 

 

102「江戸を食す」クロアワビの蒸しアワビ

生食用や蒸したりするにはクロアワビやエゾアワビですがすし屋では一般的にはアワビといえばクロアワ

ビを指します。

クロアワビで殻が青黒く身が硬い方をアオガイ、殻が赤っぽく身の軟らかい方をビワガイといいます。

すし屋では生食にはアオガイ、酒蒸しにはビワガイを使います。

江戸時代から房総の大原のビワガイは絶品で蒸しアワビには大原おこだわり続けているすし店があります。

すしダネとしては生より仕事をした蒸しアワビの方が好まれるのは昨今同じです。

高価なすしダネになっている現状ではいささか扱いが難しいくなっておりますのも現実です。

 

 

101「江戸を食す」川柳から江戸の鮨と吉原遊廓を伺う その1

江戸の中期は「古鮨」(なれ鮨)であった。

(寛保〜延享―1745年頃)頃の鮨は、

桶や筥(はこ)に飯を詰め、その上に鮒・鮎・鯖を開いてのせ、重しをかけて漬けて置き、日数を貯

 

えて、酸っぱくなし物を鮨として・・・・」とある。

 粋な扮装に頬被りの鮨売りの行商人が

「鯵のすふ、こはだのすふと賑やかさ」

と呼び声を上げながら吉原の遊廓内に出入りして、筥(はこ)を何枚も担いで巡り売り歩いている情景で

ある

「一筥12に切って4文で売る」

とあるので一個4文(低廉なそばが16文)

「口を酸くして呼ぶ、鮨売りの声は、おしつよき客の小言かと疑うばかり」

とあり、夕闇がしだいに迫ってくる頃、吉原の遊廓内の道々を鮨売りは、

「ぞめき客」(登楼する当てはないが、何となく遊廓内をそぞろ歩きしている男達)の間を縫う様にして

 

売り歩く。川柳から江戸の鮨と吉原遊廓を伺う

この頃のすしは握り鮨誕生より50年前のすしである。

                      「江戸庶民の拓いた食文化  渡邊信一郎著より 

「ひやかし」の語源

浅草の地には紙すきの工場があって、紙をすいて仕上げるまでに、紙をしばらく水にひたして冷やしてお

く工程があり、これを「ひやかす」といった。その間、職人たちは暇なので、近くの
吉原遊郭をのぞき

に行ったという。

すしの浅草海苔も浅草紙の漉き方など製造方法を真似て作られました。

海苔職人ものりを冷やしておく間で吉原遊郭をのぞきに行ったという。

そこで、買う気もないのにぶらついたり、値段だけ聞いて買わないような客のことを「ひやかし」という

ようになったのだ。

                      東海大学海洋学部 工藤教授談

 

 

100「江戸を食す」江戸時代のすし職人

 

 

ところで、江戸のすし職人は、なにしろカッコよかったといいます。

               

身ぎれいな服装で、手ぬぐいを吉原かぶりにした粋(いき)な姿は、いなせの代表。

 

数ある食べもの関係の職人のなかでも評判の美男子ぶりだったそうです。

 

江戸時代のすし屋は、ほとんどが屋台か、棒手振(担ぎ売り)。

 

すしの入った箱を肩にのせ、「すしやコハダのすーし」と呼んでまちで売り歩くと、

 

どこへ行ってももてたといいます。 

 

現在でも、カウンター越しにきびきびとすしを握る職人の姿は清潔感にあふれ、

鮮度の良さのイメージとかさなっていいものですが、当時も職人の姿は、 

すしの魅力のひとつだったかもしれません。度の良さのイメージとかさなっていいものですが、当時も職人の姿は、

 

 

99「江戸を食す」ほたて貝の仕込み

ホタテ貝を洗い水分をふき取ります。

ホタテ貝に直接振り塩して、アク抜きをします。

昆布に直接振り塩しても良しその後、昆布〆にします。

握る際は焼き目を入れますが、熱は伝わらないように、

氷の上に鉄製の網をのせてホタテ貝には片身に塩を少々振り、バーナーで焼き目を入れます。

レモン汁を絞って、握りますと、風味と美味しさが倍増いたします。

 

 

98「江戸を食す」桜煮=煮タコNO2 

本日の仕入れは北海道島牧郡からの水タコです。

北海しか生息していないミズダコです。

北海にはマダコの代わりにミズダコです。

マダコに比べて肉質は柔らかく、歯触りが良いです。

用途に応じてマダコ、水ダコを仕入れします。

水タコは大きいので握りに合うサイズのものを慎重に選びます。

 当店の桜煮の作り方は

 よく塩でもんでから塩出をする。

沸騰した湯に足をくぐらせて霜振りをする。

別の鍋に酒1800ccと水1350ccをいれ沸騰させる。

煮立ったら足から入れる。

ザラメ・醤油・小豆を入れる。

沸騰したら弱火にして、50分間じっくりと煮込みます。ゆでタコは魚河岸から買ってくるお店があると聞いております。っとひどいとなると業態の違うお店では凍戻しのゆでタコを切って握っているようです。

 

97「江戸を食す」シャリ(ごはん)とうちわ

江戸前の鮨を営むすし屋では昔ながらにごはんに強い味付けがしてあると、すしダネの味を引き出せないので、

酢と少量の塩だけで自然の甘さを生かすためにも、酢合わせ(酢の調理法)には砂糖を使用しない。

この酢合わせの調合は門外不出で昔から奉公明けに教えて頂く技術なのです。 

しかしながら関西のすしは冷めても美味しく召し上がれるように砂糖を入れる。

又、甘いがうまいという味覚になっていますので、現在江戸前の80%以上のすし店では砂糖を入れる酢

合わせになっていると思います。

ご飯は釜の中で炊き上がってから数十分以上蒸らされた状態の後、ご飯を切ります。これをシャリきりと

いいます。

シャリきりをしている時に扇風機やうちわで入れるのはごはんが冷たくなりほぐれにくくなりますのでこ

れはいけません。

シャリきりが終わった時点でうちわ風を入れて「てり」出す程度が良いでしょう。

開店以来、40数年この「うちわ」と「弁慶」(竹筒の穴を切り込んで有りこのなかにうちわやシャモジ

を収めておきます。昭和初期製)を当店は使っています。

 

 

96「江戸を食す」鮨屋の基本的姿勢

私は魚を使って鮨をおつくりしている一介の鮨職人であります。他人様に教えをいたすなど、考えのあるものではありません。

昨今のすしを見ますと、本来の鮨づくりから、かけ離れた、鮨が横行している現況を何とかしなければと全すし連合会のすし検定という認定制度も出来たこの時期に書き留めておきたいことがありまして、「江戸を食す」というタイトルで述べさせていただいております。

鮨屋という商売は「お客様の好みに合うか合わないか」で成り立っております。

それぞれのお客様によって味覚が違いますので全ての方にお客様になって頂けるなんて到底無理なことでございます。

歴史的背景のある江戸前鮨はこの道の先駆者の方々や、親方、先輩などが試行錯誤の結果出来上がった鮨であります。

勿論、自分自身はこの習い覚えた昔ながらの技術、知識が絶対とは申しませんが少なくと、ごひいきになさっていただいているお客様がおられる以上ひたすら教えられたことの繰り返しの仕事して、商いをさせていただいております。

そこの店の特徴と申しましょうか、「あの店でしか食べられない鮨」で商いをするという

基本姿勢でなければならないと思います。

私自身、新しい商品開発をするなどとは出来ないとことと承知しておりますので、昔ながらの教えだけでひたすら商いをさせて頂いているところです。

そんな中、私どもとまったく違う経営方針のすし屋では河岸で売っているタネを仕入れし、生産工場からの均一タネを調達するすし店があると聞き及んでおります。

「あの店でなければ食べられない」という鮨を放棄されておられると受け止めておりますが、そのことの良し悪しは述べることは出来ませんが、

江戸前鮨の基本的技術から比較してみますとがおろそかになりかけていることが寂しくもあります。

一方、承知うえで召し上がれているお客様もおられることも事実でございます。

最初に述べました通り、「お客様の好みに合うか合わないか」であります。

一人でも多くのお客様が「江戸前の鮨」は美味しいな」と言われることを喜びとして、いま暫く鮨に携わって参ります。

以上、この鮨道を極めた鮨職人で親方であります方の著書を読み、基本姿勢に感銘を覚えた事項を引用させていただきました。

最後に「鮨を握る技術を身につけた人間は鮨職人だが、それだけでは親方と呼べない。親方とは鮨が握れて、かつ一軒の店を経営できる人間のことを言う」

いかにして鮨の伝統技術・知識を教え、経営者としてのあり方を次世代につなげるかであります。

 

 

95「江戸を食す」アナゴを軟らかく煮る  

江戸前とは、千葉県富津と神奈川県観音崎を結ぶ内湾を言う。
7月から9月に羽田沖から観音崎沖で獲れるアナゴが一番ですのでこれを使っています。
アナゴを選ぶ場合、肉質が厚く、皮目が黄金のごとく脂がのり、小骨が気にならない
一尾300gから400gのサイズを魚市場から仕入れします。
さばくにはウナギの骨は平骨で、ウナギ専用の包丁を使いますが、アナゴの骨は三角ですので、
これを出刃包丁でさばくのですから素人包丁では無理です。
いっきに骨を切りにいくのですが、包丁の角度によっては骨を途中で切ってしましますとサァ大変です。
再度包丁を入れて切るのですが、この時、小骨が残り又、身をそいでしまうことがあります。
美しく、滑らかな姿に仕上げてこそ美味しく煮ることが出来るのですから上手にさばくには数をこなことです。
旬のアナゴや上物のアナゴであれば脂肪が多い。
それだけ、アナゴの肉質(たんぱく質)の繊維の間に脂肪が入り込んで収縮がゆるやかになり、柔らかく煮上がる。
しかし、旬以外や、産地によっては身が固くパサパサして脂が薄く柔らかく煮上げることが難しい時には、
酒を加えざるをえなくなってきているともに、前に煮たアナゴの出した脂の煮汁を注ぎたして煮ないと
しっとりした具合に煮あがらないのです。
アナゴの煮汁は濾して冷蔵庫に入れて保存しておきます。
次のアナゴを煮る時に継ぎ足し用に、又、煮ツメ(タレ)をつくるのに使います。
煮ツメは焦げ付かないようにじっくり弱火でコトコトと煮詰めるわけですから、その場を離れるわけには行きません。
このし仕事には人がかかりっきりとなるので暖簾を入れてからの仕事になります。
アナゴをさばいてから煮ツメをつくるまでの仕事はすしネタの中では一番手間隙のかかる仕事となります。

 

 

 

94「江戸を食す」江戸前の鮨とは加工技術

今日のお客様も「お寿司は生ですからこの暑い季節は大変ですね・・・」とおっしゃいました。
私が「江戸前の鮨ですから安心して召し上がれますよ」とお答えいたしますと
「生のにぎり寿司のことを江戸前寿司と言うのではないのですか?・・・」とこ

んな会話から始まりました。

江戸前の鮨と他業態のにぎりずしと違いを常々述べてまいりましたが、
自分自身が持ち合わせている知識で解釈を再度述べさせて頂きます。
すしダネの産地にかかわらず、「江戸前寿司」と呼ぶことに抵抗がなかったのは、すでに、「江戸湾産の材料のすし」という意味が薄れていたからで、握りずしの代名詞くらいに思っていても間違いはないでしょう。何をもって「正当な江戸前の鮨」とするかを規定することは難しいが、親方、先輩、同業者、文献等から得たものですが、

江戸時代は流通が確立しておりませんので、近場の江戸の海で漁獲されたお魚を美味しく食べられるように又、保存が出来るよう加工技術を施して、「江戸前の鮨」が江戸時代後期に出来上がりました。
加工技術とは生ではなく塩・酢・昆布で〆る。火で焼く・煮る・蒸すというような仕事をしてあることを指すと思うのです。
時代と共にお客様の嗜好の変化、加工技術の進歩があり今日のような「江戸前の鮨」は明治・大正時代を経て昭和初期に完成をみました。
お客様に美味しく喜んでもらえる鮨をつくる(漬ける)ための、この洗練された加工技術を「江戸前の鮨」といふうに理解して頂けたら良いのではと思います。
江戸時代から大正時代はは確かに鮮度保持が難しいという理由で発達した加工技術とはいえ、生では味わえない美味しさが今日いまだに数多く残っている加工技術があるわけです。
代表的なすしダネとしてはアワビの塩蒸しです。現在は新鮮な生で召し上がれるアワビが容易に入手できますが、当時は入手不可でした。そこで考えられた加工技術が塩蒸すアワビです。
生アワビは香りと歯応えが良く若いお客様は好んで召し上がりますが、硬くて不向きなお客様もあります。

既に平安時代の土佐日記(
936年)にはアワビのすしが文献に出ております。

柔らかさ、味わいとう点ですと塩蒸しアワビの方が美味しいでしょう。
このように「江戸前の鮨」の看板を掲げております当店は生のまま握るすしは無く、全てに加工技術で施した握り鮨であります。

 

 

93「江戸を食す」玉子(カステラ風)NO2

今の鶏卵はほとんどが養鶏です。

以前は放し飼いの鶏でしたので焼き上げた玉子焼は本当に美味しかった。

鮮度の良い鶏卵が不可欠で美味しさの価値を生み出します。

当店の玉子焼きは鶏卵12個・白身魚(ひらめ)・大和芋等を使い、だし汁は使用しません。

表面の部分は空気を抜きながらじっくりと50分の時間をかけて焼きます。

 

おまかせ握りで最後の仕上げとして、鞍かけ(合掌づくりの屋根の形をしたタマゴ)にして

タマゴ焼きの握りが供されます。

味の奥ゆきは深く、ひかえめな甘さが舌にひろがると「今夜はこれで終わり」と

告げられ最高なった気分で、立ち食いの醍醐味が楽しめます。

 

 

 

92「江戸を食す」アナゴの醍醐味

あなごは白焼き

アナゴの背開きは素人包丁では無理な

香ばしく焦げ目をつけて焼く

皮が薄く程よく脂がにじみ出てくる

京の夏がハモなら、江戸の夏はアナゴに限る

煮アナゴの握りは甘くせつなく、シャリがホロリと崩れるところがたまらない 

贅沢な江戸前アナゴを使って、贅沢な客に寿司を握るのは、寿司屋冥利につきます

アナゴの握りは舌にとろける

一口ほうばると四方に散ってシャリ一粒一粒にバラける

アナゴには成り金ダンナの道楽の味がする

 

 

91「江戸を食す」活鯛の発祥地は駿河国

 江戸城で祝賀行事があると活鯛の注文が大量にある。

江戸の活魚問屋は江戸日本橋の魚岸に漁場からどのようにして運んだのか。

鯛は深いところに生息しているので、これを釣り上げると腹が膨張して死んでしまう。

そこで、網から取り上げる際、針治術といって鯛の腹に「竹の針」刺して、水、空気を出してから、船の魚槽(かめ)

に収容する。そして伊豆国や駿河国の浦(比較的小さな湾)に18箇所の活鯛場があり、そこには生簀(いけす)が

張って有り、そこで鯛を飼育した。

幕府の慶事に際し主として駿河江之浦方面(沼津市江之浦)から納入したと記録がある。

大和屋助五郎という人物がこの活鯛技術と流通システムをつくりあげた。

時代は寛永年間(16241643)の400年前であった。

 

 

90「江戸を食す」江戸前漁業

 江戸時代から延々と続いていた埋め立ての結果、

「江戸前の魚」と誇りにしていた魚貝は、東京都の近代的都市化の為減少した。

神奈川県観音崎と千葉県富津岬と結ぶ線の内湾は

約五分の一が埋め立てられ、6.5キロメートル海が後退した。

しかし、東京湾には四大河川が流入しているので、淡水の影響は大きく、

江戸前の魚貝が美味はこの流入のおかげである。

当店の主要魚のアナゴはこの内湾羽田沖から観音崎沖海域のアナゴで、

安定的に供給されており、夏場に向けてアナゴ漁業の最盛期となります。

 

 

89「江戸を食す」蛤(はまぐり)と江戸の海

蛤は形の類似から浜の栗と言い、庶民の馴染みの深い食料でした。

7代将軍家継時代17131715年)泉州堺の浦(大阪府堺市)、参州(愛知県東部)、勢州桑名(三重県)

が産地として有名であった。

婚礼の蛤の吸い物は実を食べないと言い、婚礼の吸い物は必ず蛤を用いる。

この習慣は8代将軍吉宗(1716 1735年)が制定した。

「蛤貝は参千世界尋ねても、外蛤貝とは合わぬ者也とかや。他の蛤に合はざるは、外の夫に心かよはさぬ

貞女、両夫には見えざる戒。」とある

蛤の二枚の殻を外しても、他の殻とは絶対合わないから「貞女、両夫にまみえず」といういみになる

  当時から江戸の海は浅い為に、蛤、あさり、ばかがい等の二枚貝の潮干狩りの場であった。

浅い為に埋め立ての対象となり、嘉永6年(1853年)の黒船騒ぎの結果、台場工事、砲台設置工事に着手

し、浅い海域の漁業は影響を受け、海の公害第一号となった。

このように徳川入府以来、江戸の海は埋め立ての歴史であった。

昭和37年をもって東京都の蛤漁業はその幕を閉じた。

  昭和34年東京のすし屋のはまぐりの握り価格は1貫20円

現在、国産の50%を漁獲する鹿島産(茨城県)はまぐりの握りは1貫700円

 

 

88「江戸を食す」立ち食いの醍醐味

仕込みには一日かけ、食べるのは一口3秒とはなんとも
贅沢な食べ物だろう・・・。
すしは基本的には客の前で握るライブであり、リアルタイムで供する
からこそ、その一貫にかけるのである。
そのためには職人として気の遠くなる様な丁寧な仕事が
求められる。
お客様がのすしをほうばる顔の表情も味覚のライブです。
江戸前の鮨の一貫は料理であり、それぞれの握りに違った味がある。

 

 

87「江戸を食す」イカ印籠づけNO2

江戸時代の印籠づけは伝統江戸細工ずしの一つで、作り方は煮イカと同じように煮る。

煮立てた煮汁にスルメイカを入れ、箸でころがして味を整える。

イカの胴の中には酢飯、ガリ、カンピョウ、もみ海苔を詰めたのです。

現在は殆んどみられなくなった江戸前ずしの仕事です。

当店は赤イカに五目ずしをイカがパンパンに張り切れる位になるまできっちり詰め込むのです。

五目ずしの具(かやく)とは椎茸、人参、いなり、昆布、ゴマ、かんぴょうを刻んだものです。

切り分けは大きさにもよりますが三切れ、五切れ、七切れの縁起のよい七五三が基本です。

甘い煮ツメをぬって食べるとゴマの風味が鼻孔を抜け、タレの甘さとシャリの甘さが複雑な旨みを

醸し出します。

 

 

86「江戸を食す」10円寿司の思い出 

高校生の頃まで、すし屋の寿司を見たことも、食べたことは無かった。すしと言えば母が漬ける五目寿司で、上乗せのタネは父親の仕事柄でおすそ分けに授かったカジキまぐろと酢だこ、カマボコ、母親が焼いた玉子焼きぐらいであった。

忘れられない思い出の一つは東京へ出て初めてすし屋に入った。それは金を稼いでいた先輩にご馳走になった初めての立ち食いで1貫10円のにぎり寿司であった。回転すしなどは勿論無い時代であった。蕎麦が一杯30〜40円。コーヒーいっぱい50円の時代。一般的なすし店は1貫20円から50円で、銀座高級すしは1貫50円以上であったと後に専門誌で知った。

その時、すしダネの名前も注文の方法も判らない田舎者。ドキドキしながら先輩の注文する寿司を真似して「同じく穴子を下さい」と言って寿司を取る手が震え興奮した覚えがある。高度成長期の昭和40年頃であった。幼い頃腹いっぱい食べたかった寿司を職業にさせて頂いていることに感謝しております。

 

 

85「江戸を食す」どうせすし屋をやるなら江戸前の鮨に徹する

 全てのタネに手を加え、旨味を引き出す鮨を漬ける。

教えられた仕込みの手順を間違いなくこなしさえすれば美味しい鮨は漬けられるのである。

「自分独自の江戸前の鮨をお客様に食べていただきたい。」と40数年

煮ハマグリ、シャコ、アサリの漬け込み。

コハダ、酢アジのオボロかませ。酢で〆たキス、サヨリを昆布〆。イか印籠詰め、蒸しアワビ、煮ホタ

テ、煮イカは煮詰たタレで。クルマ海老、青柳小柱の甘酢漬け。柔らかな煮タコ(桜煮)。

アナゴは江戸前の観音崎沖で獲れたもしか使わない。煮アナゴはスダチと塩、煮ツメで握る。煮ツメした

アナゴのシャリがホロリと崩れるところにたまらない美味しさを感じられる。

「こんな鮨を握れるのは、寿司屋冥利につきます・・・」といったこの道の先輩を思い浮かべます。

そして

「鮨の魅力は一貫食べるたびに別の食欲が刺激されて、「次はなんだろう」と期待する。

江戸前の鮨には工夫がある。これほど底が深い食べ物は世界中さがしても他には見当たらない・・・」

某作家が語る。

 

 

84「江戸を食す」江戸時代の江戸(東京)と上方(大阪)の違い 

経済感覚
江戸の庶民は頻発する火事のおかげで、明日の仕事が保証され、日銭が入ってくるので、

銭をためる必要が無いから、「宵越の銭はもたない」といい、

「初かつお一本に二両もの金を払うごとく」と食いだおれの点では大阪をしのいでいた。

上方は江戸の人を「明日の活計を知らざるうつけもの」ときめつけた。

 

魚・貝類

江戸はあさり、はまぐり、ばか貝、さるぼう貝等の貝類は多い
上方は大阪湾、瀬戸内海をひかえており、沿岸漁業の発祥のであり、多彩な魚がとれ、

境、尼崎から市場に来る。漁法や魚の処理、加工技術等上方起源のものが多いので

魚に関しては大阪のほうが恵まれていた。貝類はとれないので少ない。

 

刺身

江戸は赤身のまぐろ、かつおを使った。

上方は白身の魚が使われ、たい、さわら等安く、味も良い

 

寿司

江戸はにぎりずし、巻きずし。

上方は押しずし、箱ずし、ちらしずしに類別される。

 

笹きり

江戸はすしには熊笹をはさむ

上方は葉蘭を用いる

 

シャリ
江戸は人肌ほど程度の時が食べ時。合わせ酢は塩と酢で砂糖は使わない。
上方は冷めても旨いように昆布、みりんを加えて炊き上げる

あわせ酢は酢には塩と砂糖を混ぜる。

 

あなご・うなぎ

江戸は背開き

上方は腹から開く

 

干物の魚の開き方

江戸のあじ、さば等は腹から開き、頭を割る。
上方は背開きで、頭は割らない。
 

たこ
江戸は茹でる
上方は煮る(桜煮)
 

すしの売り方

江戸ではぼて振りや重ね箱に入れて肩にかけて売り歩いた
上方は自店や屋台で売った。
 

 参考文献 長崎福三著 「江戸の味」

 

 

83「江戸を食す」ヒラメの昆布〆と酢〆   

寒中のヒラメは昔から美味です。逆に晩春から夏場にかけてのヒラメは旨味がいまいちです。

通常の仕入れよりロット数が多くて、使い切れない場合があります。

そんな時は昆布〆と酢〆の二通りの仕込みをします。

これは、古い昔ながらの仕事なのです。

当店では全ての魚介類を生のままで使用することはありません。 

ヒラメの仕込み

1.        コケラをひき、頭をおとし、臓物をとりだす

2.        節どりする。皮を引く(エンガワを切り取る)

昆布〆と酢〆の方法

1.         焼き塩で両面に均等に薄く振り塩します。
 1時間〜2時間大きさにより塩加減の時間を調整する

2.         その後、アク抜きにより、水分がにじみ出てきます。

3.         布巾で水分と塩をふき取るか又は水をかけて振り落とす。

4.         水分を布巾でとる。この塩梅が重要です。(塩気を完全に抜きき取らないこと)

5.         板昆布を敷きヒラメをのせその上にもう一枚の板昆布をのせます軽く押さえます。

6.         昆布〆を1時間程度いたします

7.         昆布を使うことは空気に触れないようにする為なのですが、

更にビニール袋に入れて保管することをお勧めします。

8.        当店では必要以外は真空パックにして保管します。

9.        用途、量的対応により、酢〆をしてもよい

10.   ヒラメを酢に20分位漬けます(大きさにより時間調整する)

後に 酢を軽く拭き取り、 真空パックして保存いたします。

握る際には

1.         握る際は高価ですが「ガゴメ昆布」の「とろろ昆布」を添えて握るのも一考です。

 

 

82「江戸を食す」江戸前鮨の発祥は駿河

すしの系譜と家康
今日のようなにぎりずしになってくる始まりは、徳川氏が天下を取ってから、主として駿河(静岡県の遠州、駿州、伊豆地方)、三河(愛知県の岡崎地方)といった家康の権力範囲の東海地方からで、そのころは今日みるような「稲荷ずし」と「巻きずし」とほぼ同じ形のもので、旅行者の携帯用便利食として重宝されていたと伝えられています。

すしの系譜をみると馴れずしが生成に、そして、姿ずしと「棒ずし」になり、派生的に「飯ずし」(コケラずし、箱ずし)「にぎりずし」 と「散らしずし」(五目ずし)に変わっていったのです。

その後、散らしずしが駿河、三河から伝えられた「巻きずし」「稲荷ずし」になった。

徳川家康の江戸入りが天正18年(1590)。江戸幕府を開くのが1603年。この2年前の 1601年に、家康は、天馬制度、いわゆる五街道に宿場を置く宿制を定めている。   江戸の文化を作り出すうえでいろいろな要因が考えられるが、この街道整備こそが、人とものと 文化の交雑を生み出し、江戸っ子の粋な心意気を作り出すことに大きな貢献をしている最大の要因ではないかと思っている。

これが宿場ごとに伝えられて、家康が居所を江戸に決めるとともに江戸に入ってきた。

のりの養殖
かって静岡県浜名湖は淡水湖であつた。 明応6年(1498)の大震災以来海とつながり、その頃からすでに、「あさくさのり」が採取されていた。

江戸中〜後期にかけて、江戸で浅草海苔生まれた。

それ以降の品川に生産地は移り、このころから「そだひび立て」網による養殖が始まり生産量が増大した。

江戸時代末期になると品川の養殖は衰退し中心は大森に移る。浅草は「あさくさのり」の名前だけを残して脱落する。

需要が庶民に浸透していく手助けは江戸市中を天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」であった。

厳しい冬を江戸に季節的出稼ぎで海苔を地方に売りに出る「旅師」は、長野県諏訪の人達であった。

のり養殖の技術を地方に持ち出したのも諏訪の人達であった。

遠江舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森の生のりと同じだったので地元に養殖をすすめた。

叉、同じ文政2年(1819)192年前に田中孫七は大森(東京都)の海苔養殖業者駿河江尻旅籠 (静岡県静岡市清水区)で三保海苔をたべたところ、大森の生のりと同じと判り同地では、文政9年(1826)「そだひび立て」による海苔の養殖に成功天保年間(1830〜1843)181年前には清水、江尻にも海苔養殖がひろまった。

散らしずしの派生形が巻きずしと稲荷ずし

駿河、三河から伝えられた散らしずしには、遠江の五目ずし、駿府の長門鮓(散らしの押しずし)、持舟の混ぜずし(すくいずし)、伊豆には切りだめずし(混ぜずし)、田子ずし(箱ずし)等各地にあった。

当時の散らしずしは箱に入れて押す際、底にササの葉、バラン、竹の皮を敷く。その代わりとして食用になる浅草のり、コンブ、玉子、湯葉を使えば、それも一緒に食べられる。

箱に入れた型入り散らしずし(五目ずし)は押して抜いて、上下をひっくり返して切り分ける、まさしくにぎりずしの原型になるのです

巻きずしの起源は江戸中期前かと思われる。

姿ずしと違うのは魚とご飯の位置関係で、姿ずしでは魚身の内側にシャリがあるのに対して、巻きずしは魚身をシャリで包む。

この逆転現象を、当時の人の遊び心の表れで、すの子(巻きす)の上にシャリを広げ、魚身を乗せて巻きつけるという今日的な巻ずしは、安永5年(1776)の『新撰献立部類集』が初見えである。棒状になったものを小口から切って食するとあるから、まさに現代と同じである。ずし」

薄焼き玉子で四角で包む茶巾ずし、油揚げで包んだ稲荷ずし等も抗議の巻きずしにはいる。

「天言筆記」弘化2年(1845年)に稲荷ずし流行と有り、最初はシャリの上に油揚げをのせたもので、あった・・・・」とあり、後に袋詰めになったとある

魚の姿ずしや棒ずしに通じるところがある。稲荷ずしもまた、巻きずし同様、「見立て」に端を発した 当時の発明品で、油揚げは、魚の外皮の代用と見られた。

文献的には天保前の1800年代前半には尾張の名古屋では従来からこのすしがあったことなどを記している

後、江戸市中の人口が急増するが、多くの人口を占めた庶民たちは今だ貧しく、手っ取り早く食事を するための屋台や棒手振による行商の物売りが数多く出回り、いわば外食ブームがおきる。のろはまだ江戸風のにぎりずしは

にぎりずし誕生

江戸ですし屋が出来たのは元禄直前の貞享年間(1684〜87)四谷舟町横町の「近江屋」、「駿河屋」と二軒のすし屋が箱に入れた型入り散らしずし(五目ずし)又は筥鮓を売っていた。いわゆる早ずしである。

後に、京都から来て将軍綱吉の御殿医をつとめた松本善甫が案出した松本鮓(待ちゃれずし)が早ずし=即座ずしを伝え、四谷に居住していたので関係は深いようである。庶民に普及しはじめのは元禄15年(1,703)とは年赤穂浪士が、吉良上野介を討つたころである。

参考文献 宮尾しげを著「すし物語」

     篠田統著「すしの本」

                                   魚竹寿し 竹内 勝利     2011/05/18   

 

 

81「江戸を食す」ショウガ NO2 

生姜を薄くおろして甘酢につけたもので、すし屋の符諜では「ガリ」という。 

お茶と同様に先に食べた肴の脂分をなくし、次の食べるすしの旨味を 

引き出す口直し用です。 

味覚と抗菌力がありワサビと共に必需品として無くてはならないのです。 

当店のガリは次の鮨を食べる食欲がおきる独自の味付けをしております。

 

80「江戸を食す」手間隙かけた江戸前のコハダ

1、コハダは塩と酢で決まる 

2、振り塩の時間は長年の勘で塩加減を決める

  大きめなザルに背の方を下にして荒塩で振り塩します。

  塩加減はコハダの条件に合わせてカンで決める

 (親方から教わった職人の門外不出の塩加減。シャリの調合の塩も同様) 

  振り塩でしめる仕方とたて塩(濃い塩水)でしめる方法があります 

3、水洗い(塩出し)したコハダ

  コハダの表面の水分とコハダから出た余分な脂肪分を洗って流します

  そうしますと酢がしみこみやすくなります 

4、「酢洗い」を二番酢で酢洗いをする

  注:二番酢とは前回本漬けで使用し残しておいた酢叉は、水と酢を同量で混ぜた酢

  コハダは青魚の生臭さがありますので本漬けの前に生臭さを取ために一枚一枚ゆすぎます

  ゆすいだコハダ5枚位重ねて手のひらで押して余分な酢をきり、30分位おきます 

  ポイント:酢洗いをきちんととすれば生臭はなくなり、美味しいはここで決まります。 

5、本漬けは一番酢で漬ける

  つけ具合は時間に頼らないで自分の目で見て決める(職人により時間に差異があります)

  余分な酢を切り馴染ませる為一晩以上立てかけて冷蔵庫に入れておきます

  2日目に召し上がるコハダが一番で、当日には握らない事です

 

 

79「江戸を食す」昭和初期の江戸前すし

 

最近のにぎりずしは大正〜昭和初期に盛り込み内容のすしダネとは違って、

生のまま使っているすしダネが多いです。

 

当店では本来の当時の江戸前のすしを盛り込みした「13貫チャンチキ」5,700円を


限定
10食で販売(ひさぐ)しております

 

季節により内容が違いがありますことご了承ください

 

盛り込み内容

酢アジ・赤貝(二杯酢)・コハダ(酢〆)・クルマ茹で海老(甘酢)・まぐろ(漬け醤油)・あおりいか(焼きイリ梅紫蘇)・中とろまぐろ・チャンチキ(海苔巻き)・煮穴子(抹茶塩)・蒸しあわび(煮ツメ)・はまぐり(煮ツメ)・いか印籠漬け(五目入り)・厚焼き玉子(白身魚入り・煮たこ(桜煮))全てに下処理して、火通し、漬け汁、酢〆,昆布〆等して供しております。

 

生食材の安心・安全が問われている昨今、江戸前のすしを再認識いただければ幸いです。

 

ご来店心よりお待ちしております、

 

 

 

78「江戸を食す」すし屋は漬けるといいます


食を扱うすし屋の当店としては、

 

食品取り扱いでの衛生管理は最重要事案です。

 

ワサビ、鮓、塩、ハラン、生姜、梅干し等抗菌作用を有効に使い

 

すしを漬けています。

 

すしダネ用魚を全て生で握る生嗜好が強い昨今ですが。

 

アジ、サヨリ等塩振りして酢〆したら、古くなったから酢〆しただろうと

 

思う客が結構いらっしゃいますがそうではありません。

 

江戸前すしの暖簾店は江戸時代から伝承されている、

 

衛生面、保存(抗菌作業)、旨味等からの仕事をしておりますので、

 

鮓〆、昆布〆、煮る、焼く、漬ける等が当たり前の普通の仕事と

 

なっております。

 

従って、すしダネにより酢にした方が美味しさが引き出されるのです。

 

当店では地魚(超近海物)であれば、もちろん生でも握ります

 

(但し、生でも必ず下処理を経た後の握りとなります)

 

お客様の要望が強い生嗜好より、自分のやっている仕事に

 

調子を合わせて頂く事にしておりますので、

 

「おまかせのすし」をお勧めいたします。

 

 

 

77「江戸を食す」200年前から上方では鳥貝は人気すし

鳥貝と東海道中膝栗毛上方で鳥貝のすしが喜ばれたことは、

「東海道中膝栗毛」京都の条(文化4年1807)に

 ◆中には上方に流行る鳥貝の鮨なり・・・・・

 ◆北八「何だ、コレヤばかの刺身を鮨に付けたのだな」

 ◆鮨屋「御評判の千倉鮨、鯖か鯖か鳥貝や鳥貝や」

 ◆北八「アレ弥次さん見なせへ、あの鮨は京で喰ったが とんだ好かった 一つ  やらかそふ」

と、江戸者の口にも合ったことがわかる。「摂陽奇観」(文政2年1819)に「万安売り御代賑いろは歌教訓鑑」というのを収録しているが、その中に

 ◆り(利)をすこしとりかい(鳥貝、取)のすし(鮓)さばのすし(鮓)

     あさくさのり(浅草海苔)もやすしまきずし(巻鮓)

とあり、海苔巻、サバずしと並んで鳥貝すしが大衆的だったことがわかる。

 

76「江戸を食す」酢鯵は皮付

鯵の皮下脂肪は非常に美味しいので皮をつけたまま握る。

小さな鯵を選び、背開きして、ゼイゴをとる。

ザルに塩。鯵にふり塩する。

塩の時間夏は2030 冬は35〜45分  

水洗い、水切りする。

鯵をジャブジャブと2番酢で洗い。

小さな鯵は背中合わせにして、本酢に漬ける。(10分)

酢切りする、小骨抜き、昆布でしめる。

握る時は生酢の中に再度数秒入れてからワサビで握る。

江戸前の鮨の基本は「タネの味付けとシャリで熟れさせる」事です。

皮付酢鯵は生鯵とは違った美味しさで召し上がれます。

生で握る鯵は地魚の鯵(由比沖)に限ります。生の場合は皮をはいで、

握ります。

握る時は生酢の中にやはり数秒入れてからアサツキとショウがで握る。

 

 

75鮨・鮓・寿司文字の意味


すしを「鮓」(さ)とも「鮨」(さ)とも書く

鮓とはタンパク質と塩と澱粉すなわち米。「なれずし」を意味している。一方鮨は魚と塩。タンパク質と塩だけ。本来「しおから」のことである。

昔は全てなれずしであったので鮓の字を当てていた。

現在のにぎりすしは鮓にも鮨にも当てはまらない別物であるので

江戸末期ころから「寿司」「寿し」の表現が最も親しまれ使われてきた。

上方(関西)のすし店はすしを「鮓」の文字をつかった。江戸では江戸前の魚は旨いを意識して、江戸っ子の対抗意識からかあえて「鮨」の文字をすしとして使った。

すしの文字の違いはあれども、すしの味というのはを熟れた味の旨さということ。即ち重石で押すことなのです。

上方は箱・布巾・巻す(スダレ)で押す、江戸前は手で押す。

 

 

74江戸前鮨の定義

一方では江戸前ずしが再評価されております。
江戸前の鮨は旬の材料を下処理し、『煎る』『焼く』『煮る』『酢〆』『漬ける』『昆布〆』等昔ながらの方法で、手間、暇をかけた仕事をして、シャリと馴じませてこそ『鮨』になります。
 ご存知の通り鮨は日本食料理です。一人前の寿司には和食の基本が盛り込みされています。全ての寿司には違った味があり、[江戸前鮨]とは味、色彩、季節等を楽しめるのです。一人前の
 すしの旨さとは、その熟れた味にある。すしの基本的味が熟成にあることは明らかである。
古代のすしの面影を残していると思われる近江のフナずし、岐阜のアユずしは、重石によっ
て熟成され、京都のサバずしは竹の皮とスダレで締めることにより、大阪ずしは木箱でおす
ことによって熟成される。江戸前ずしは掌(てのひら)から伝わる温度と、握るという押しによ
って,江戸前の握りずしは熟成されるのではないだろうか・・・・・・・・。
  

 

73「江戸を食す」ちらしずしの定義

「按ずるに鮨はもと一旦漬けておいて食うべきなるべし・・・・」とすしの本にはある。

「すしとはすべて馴れた味覚の育成を基本として、その製法がなされるべきであり、

単に鮨飯のうえに具(飯のうえに並べるタネを昔は「 ( うわ ) ぶき」といった)

をならべるだけの現在のようなちらしに対して、すしか否かの論がでてくるのは当然

ともいえる・・・・。」

「上方ではまぜずしを起こしずし・すくいずしと言い、江戸ではごもくずしと言う・・・・」

江戸では「ごもくずし」をまぜずし(混ぜずし・交鮓)とも呼んでいた。

現在は関西方面はちらしを「ばらずし」と呼んでいる。江戸のまぜずし対しての呼び名。

「ごもく」はその具に生臭を使用しない、すなわち精進ごもくのことであり、

生臭を使用してもよいのが「ちらし」だと、江戸老すし職人は解説している。

静岡ちらしの原点は江戸時代の長門鮓 にある。

長門鮓 は「ごもく」に漬けた魚類を「 ( うわ ) ぶき」したのであるから「まぜずし」即ち

「ごもくずし」が正しいのか?

静岡県すし組合の商標登録「静岡ちらし」はこの説から言うと「ばらずし」なのか?

方言的に関東が「五目すし」、関西が「ばらずし」といった方がいいかもしれない。

   

 

72「江戸を食す」赤貝の仕込み

  1. 殻からむきぼうでとりだす。

  2. 身・ヒモ・ワタにわける。

  3. フリザルに入れて、この中に塩を入れて、まな板を斜めにして、
    その上で赤貝独特の血とヌメリがあるので、これを取り除く為にフリザルを振ります。

  4. アクと血が全て流されるまで水をかけて洗わないこと。
    赤貝の色と香がなくなるからです。

  5. アクと血がなくなったところでサッと水をかけ手早くきれい

  6. ヒモはつけ根の半分のところに切れ目を入れる

  7. 身はふちに包丁で切れ目を入れる

  8. 包丁の刃もとで身に細かい切れ目を入れる

  9. まな板にたたきつけて身を締めた後に握る

10.  身とひもは二杯酢にくくらせる

  1. レモンを数滴かけて握ります

  2. 秋から春にかけてが食べ頃です。

  3. 中国産はいけません国産に限ります。

  4. 血のある貝は傷みやすいので鮮度が重要なポイントです

  5. フルザル入り赤貝(振り塩が多くて塩気が強く過ぎないように

 

71「江戸を食す」シャリ用酢

■魚竹寿しのシャリ用酢
酒粕酢(江戸前赤鮓 )と米鮓 のブレンドに
塩と砂糖を加えたのが合わせ酢です。
3年以上熟成させた吟醸酒粕を使用し、
伝統的な木桶作りのお酢をベースに
米酢をブレンドしたすし専用のシャリ酢です。
重厚でコクのあるシャリに仕上がります。
赤酢を使用しておりますので、
色がついたシャリとなります

 

 

70「江戸を食す」昔の仕事 白魚

ツユの作り方
イ、みりんをうすめて、そこに白砂糖を少し加えたうす味のツユを作る
ロ、それで煮る

白煮の方法
イ、平らな鍋に先のツユを煮たてそこに塩で洗った白魚を一本づつ
  ならべて蒸しぶたをして弱火でさっと火を通す。
ロ、このときならべた白魚の上に、アミなどをのせてまっすぐ煮あがる
  ようにする。
ハ、火が通ったら手ザルにあげてあおいで冷ます。
  一本ずつはなしておく。
ニ、生煮えはいたみやすいので注意。
ホ、握るときは5〜6本ずつ頭をそろえてよせ、すしに握る。
ヘ、これを煮たかんぴょうを細く細かく切ったもので1本ずつ結んだ
  ものである。

 

69「江戸を食す」白魚の握り


薄い鍋に落し蓋をして酒と白砂糖と塩で味付けて煮る
 

盆笊にあける 

わさびもつけない 

これを手のひらの上に乗せて握る 

白魚だけで握る腕さえあれば一人前・・・・と 浅草弁天山「美家古寿司」語録 

江戸時代は佃村の漁師が漁業権をもらって四手網で家康の江戸城に収めた 

その余りをすし屋が握った

 

 

68「江戸を食す」魚竹寿しのシャリ用酢 

酒粕酢(江戸前赤鮓 )と米鮓 のブレンドに塩と砂糖を加えたのが合わせ酢である。

 3年以上熟成させた吟醸酒粕を使用し、伝統的な木桶作りのお酢をベースに

米酢をブレンドしたすし専用のシャリ酢です。重厚でコクのあるシャリに仕上がります。

赤酢を使用しておりますので、色が付いたシャリとなります

 

 

67「江戸を食す」お盆の供え物 助六

飲食(おんじき)

毎日家族が食べるものと同じものを食前にお供えする

霊供膳(りょうぐぜん)

仏前と故人の命日や法事のときにお供えする

霊供膳は精進料理ですから、魚や肉などの生臭いものは避けます。

そこで当店の名物「助六寿司」をお勧めいたします。

助六は、いなりずしと巻きずしのセットのことです。

名前の由来

歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の主人公助六の名前に由来。

助六の恋人のおいらんの名前が「揚巻」(あげまき)なので、

「揚」が油揚げで「いなりずし」です。「巻」が巻きずし「のり巻き」

と言う事このセットを助六寿司と呼びます。

                      ブログより

 

66「江戸を食す」川越人足

慶長12年(1607))徳川家康が府中(静岡市)の市街地を分断して流れていた

安倍川をひとつにまとめて、町の西側に迂回させ現在の位置に安倍川を築いた。

安倍川は、川越人足に渡してもらわなくてはならない川で、水深1.5Mを超えると川留め

となった。

人足の中には悪人足と義人足がいたという。

静岡市駿河区南安倍町の曾祖父の父は評判の人物で、性格は謹厳実直、体も大きかった。

大政奉還後隠棲した15代将軍徳川慶喜を肩車に乗せて川を渡ったと祖母は自慢話を語ってく

れました。

その後、明治7年に個人が独力で架けた木橋の賃取橋「安水橋」が完成。

大正12年に県内の国道1号に架かる4大河川(安倍川・富士川・天竜川・大井川)

の永久橋のひとつとして最初に完成したのが延長490.80mの英国から輸入した鋼材を使用し

た安倍川橋である。

 

 

65「江戸を食す」湯ぶりと霜ふり 

摂氏60度から70度ぐらい熱いと感じる程度の湯をかけるのを「湯ぶり」という。 

湯ぶりは少し古い魚、例えばタイ、ヒラメ、スズキといったものでもこれをすると 

色艶も格段と良くなり身もしまって味も上がる。 

霜ふりは同じ方法だが、これは古くなった魚、マグロ、カツオ、サバといった 

類の香の臭いを抜く為に用いられる。

                             すしの雑誌より掲載

 

64「江戸を食す」ショウガ 

すし屋の符諜では「ガリ」という。

手酢・ワサビ・ハラン等と並んで抗菌力のあるすしには無くてはならない必需品で、

オオバ、ホジソ、キュリと共に妻ものと称しております。

これらの品を取り扱う専門の妻屋さんがありまして、こちらからショウガを持ってきて頂いております。

このショウガに味をつけるのは自分でするのが望ましい。

風味、歯ざわり、香り、全てにわたって国産で無いものとは違います。

ガリの製法

以前はショウガの外側の皮をむいて薄く下したものに、

摂氏60度から70度ぐらい熱いと感じる程度の湯をかけるのを「湯ぶり」という。

そしてすぐに冷水にくぐらせて、アクを抜く。

こうすると臭い色は消えて色を美しくして舌ざわりを和らげる特色がある。

湯ぶりすませてから、酢2、砂糖1 塩少々の甘酢に漬ける。

                        すしの雑誌より掲載

 

63「江戸を食す」茹で海老

 沸騰させた鍋に塩を入れてからクルマエビを入れます。

氷水に落とし、海老を開き、水洗いして、ザルに振り塩して、海老を並べます。

そして、海老に振り塩します。

5分〜10分そのままにしてから水洗いして、容器に並べて水切りします。

冷たい甘酢(水も入れる)にくぐらせてから、握ります。

塩と甘酢の梅塩で一段と旨みが加味されます。

 

62「江戸を食す」下町の屋台のすし屋

下町の屋台のすし屋は、同じ町内の住人が顧客で顔見知り。

屋台店での商売は小資本で始めることが可能だった。

若いすし調理師にとっては登竜門だった

 

61「江戸を食す」鮨を数える単位を「貫(カン)」と呼びますが、なぜこの字か

なぜこの字が当てられるのかについていくつかの説があって、そのひとつに「銭さし一貫」が語源であるというものがあります。江戸時代、穴あき銭96枚の穴にひもを通してまとめたものを「銭さし百文」と呼び、本来は96文なのに100文として通用したそうです。そしてこの「銭さし百文」を10個まとめて輪にしたもの、つまり960文が「銭さし一貫」(1000文)として通用していました。この「銭さし一貫」の重さは約3.6キロ「銭さし百文」の重さは360グラムほどあるのですが、この360グラムというのが当時の鮨ひとつの重量とほぼ同じくらいであったことから、小さいものを誇張する江戸っ子の洒落で「一貫鮨」と呼ばれ「貫」という単位の由来となったというのです。

 まあ、鮨一個が360グラムというのはどう考えても大きすぎるとは思いますが、いずれにしても江戸時代の鮨というのは想像以上に大きいものだったようです。
それが時を経て洗練されたとしても、明治の頃の握りはかなり大きかったと推察できます。

   参考文献 日本一江戸前鮨がわかる本  早川光著

 

 

60「江戸を食す」〆鯖マイルド 砂糖と塩の〆方       

〆サバの場合 マイルドな〆の方法

 ①手のひらに砂糖をのせ、サバに軽くまぶせる(塗るというイメージ)又はザルでふる。 

  ②冷蔵庫に40分置く。

  注):砂糖を流水で砂糖出ししない。 

 ③サバを布巾で水分をふき取る 

  ④今度はそのサバを砂糖と同量の塩をサバにまぶせる又はザルでふる。 

 ⑤冷蔵庫に60分置く 

 ⑥もちろん塩出しはしない。 

 ⑦サバを布巾で水分をふき取る(但し水で流し落と事でも可) 

  ⑧ 酢に20分漬ける。 

 ⑨酢を盆ざるに並べて、10分後に布巾で酢の水分をふき取る。

 ⑩昆布〆8時間

 〆の時間

魚の種類

砂糖(分)

塩(分)

酢(分)

昆布(時間)

サバ

40

60

20

8

アジ

15

25

10

4

コハダ

20

30

15

4

ヒラメ

20

30

 

24

カンパチ

30

45

 

24

 注):砂糖とトレハロースの混合でも可能

 

59「江戸を食す」サバの塩〆漬け方

旬は9月から10月にかけて、脂がたっぷりのり、身がひときわ太くなってくる。

今日のマサバは淡路島からの入荷である。身体には厚みがあり丸い体系で久しぶりに

大きいマサバである。

鮮度の落ちも早いので酢〆にすることがほとんどである

サバは身割れしやすいので気をつけて3枚おろしをする。腹骨のつけ根に包丁目を入

れると塩や酢がサバに回りやすい。

ザルにたっぷりと上下に塩を敷き詰め1時間〜1時間30分位どぶ漬けする。

その後、塩を洗い流し、水分サラシでふき取る。皮目を下にして漬けること15分

その後身を返して皮目を上に向けて15分漬ける。30分経ったら酢の回り具合を中骨の

有る部分で確認する。

ザルを斜めにして酢を切る。サラシ&保鮮ペーパーで酢をふき取る。骨抜きをする。

 

 

58「江戸を食す」ホッキ貝

産地

 主として東北・北海道。千葉より北の浅瀬に育つから北寄貝と書く。

 淡水の入り込まない内湾の砂地に育つ。

 夏が禁漁期になるほかは、一年中を通して入手出来る。

 特に冬から春にかけて味がよい。

湯霜

 ①生のままだと。先端が黒っぽい色をしているが、これを、ちょっと湯ぶりに

  すると、きれいな紅色がかった紫色にかわる。

 ②ひらいて、ワタをだしたホッキ貝を目ザルに入れて、沸騰している湯の中

  で、2〜3回ふる。

 ③色が少しうす紅色を帯びてきたところで湯から引き揚げ冷ます。

 ④しばらくすると、きれいな紅色がでてくる。

煮ホッキ貝の仕込み

 ①さっと煮て味付けをして使用。

 ②味付けははまぐりの味付けと同様。

 ③柱、ヒモも同様。

 

 

57「江戸を食す」お茶  

 寿司の材料にはのり、すし米、わさび、しょうが、お茶がある

すし屋のお茶汲みは三年修行しなくてはいけないと昔から言われてきている。

親方が「あがりだよ」と、云いつけるときは、お客さまの、すしたべるのが終わりだよ」
と云う合言葉である。「お客さま、お帰りだよ」「もう、たべるのは済んだ」になる。

お変わりの二杯目のお茶を持参いたせの意味にもなる。

知識

1、            すしの肴のあぶらというものは舌先に必ず残る。そこで次の味覚を得るのに、濃くて熱い茶をすこしづつ飲んで消そうというのである。
舌先にあぶら気が残る、それを消す茶も熱いのが必要のために湯のみ茶碗は大きくて厚く、熱いのが手に持っても外に伝わってこないので、二重の用を足している。

2、            お茶は熱くてなくてはいけない。店によって気取って薄手の茶碗を使って熱くて手がつけられない。これはすし屋としては失格である。

3、            鼻で香りをかいただけで静岡の茶所の老主人はこの茶の木のあった近くに梅の木がある、桜の木がある、と臭覚の発達ですぐ判ると云っている。茶は敏感に移り香を吸収するものだそうだ。

4、            むかし江戸城にお茶汲坊主という、大名などにお茶を接待する役の男は、みんな頭をそって坊主頭であった。茶男だけが坊主頭かと云うと、茶というものは脂気を嫌う。
茶汲男がまげ(びんづけ油)を結っているとちょいと、指が頭の毛にふれる、それを知らぬまま茶器をいじる、そうすると汲んだ茶に脂気がうつるということになる。
だからお茶汲男は坊主頭にしているのである。

5、            すし屋のお茶は、色と香と味の三つが揃わねばならない。お茶自身から出るなんとも云えぬ甘味が、すしの味をを傷をつけるものである。

6、            それほど茶というものは、味に関連が深い。そこですし屋ではクセのないものを使うのが一番安全いうことから静岡地方のお茶で、粉茶を多く使う。粉茶は葉茶より早く、茶自身の香と渋みを出すからである。

7、            すし屋のお茶汲みは三年修行しなくてはいけないと云うほどに、むずかしいもである。

                    参考文献「すし物語」宮尾しげお著

 

 

56「江戸を食す」蛤(ハマグリ)と価格

l                      昭和34年江戸(東京)の某すし店の価格

はまぐり・こはだ・げそ・青やぎ・平貝・鳥貝・さば  各20円

しゃこ・ひらめ・かんぱち・もんこういか・赤身まぐろ 各30円

たい・赤貝                     各40円

とろまぐろ・かっぱ巻・あわび            各50円

鉄火巻                       各60円

その他                       時価

ちなみに当時新卒者の月給は7,000円〜11,000円

l                      この頃より10円寿司が栄えてきた
高級店の最低価格は50円であった

l                      現在のはまぐり価格は30倍強の700円である

l                      江戸湾(東京湾)はご存知の通り四つの主要河川が流入しており淡水の影響は大きい
江戸前の魚貝が美味であるのはこのおかげである

l                      漁場は三つに分けられる
第一は潮干狩りで親しまれて千葉県富津から羽田・神奈川県沖
この漁場では、はまぐり・あさり・ばかがい(青やぎ)等の二枚貝
そしてアナゴ・すずき・このしろが大量に採れた。
しかしながら今ははまぐりの価格は消費者泣かせである

アナゴについてはウナギと違い全て天然で当店はこの漁場から安定価格で仕入れできております
 

 

 

55「江戸を食す」鳥貝

産地東北から東海、九州と南の方に多い。
本日の仕入れは、伊勢湾で水揚げされた活鳥貝です
むき身もこの時期多く入荷され、良く出回っております
選ぶときは、身の厚いもの
旬は4月〜6月頃(春と秋に産卵する)
扱い方トリ貝のむき方は大変難しい
表面の黒いものをとばさないように、丁寧に扱うこと
色が飛ばないように、網の杓子に鳥貝をのせ、
 熱湯に酢を入れさっとくぐらせる
タネには足の部分が使われる
甘みがあり、独特の歯ごたえが好まれています
昔は貝の先端を切って用いた
活鳥貝はどっしりと重みがあるものを選ぶこと

 

 

54 「江戸を食す」サヨリ

サヨリは春のタネとしてはカスゴと同様に代表的な光ものです。

3月頃が旬です。5月〜6月は産卵を迎えるので身しょうが柔らかになる。

今日の(4月初旬)サヨリはまだ肉質が締まっており、江戸湾内房産(千葉県)です。

職人は淡々と日々の仕込をしているので、サヨリも決められた手順で仕込みします

1、腹開き

2、腹の内膜が黒く匂いがあるのでこすり取り流水で洗う

3、背骨は他の魚と違い、三角形に角張っているので、

  この角度に沿って背側の身に包丁を入れる

  最初の頃は誰も苦戦する包丁使いである

4、均等に振り塩にする

5、流水で塩を洗う

6、良く水分をふき取って小骨を抜く

7、身と身を重ねないで皮目と皮目を折り込んで保管する

8、握るときは淡白なタネですのでオボロをかませます。
  
  又はショウガとアサツキを添えても違った風味で美味しいです

 

53「江戸を食す」ウナギとアナゴの違い

ウナギとアナゴ(マアナゴ)はどちらもウナギ目に属していますが、ウナギはウナギ科、アナゴはアナゴ科の魚です。

どちらも細長く円筒形で、体長は1m程度ですが、

アナゴには側線(体の両側に線状に並んでいる感覚器)の各孔に白色点があり、

背びれの下にも白色点が1列に並んでいるのが特徴です。
また、頭部にも白色点がみられます。
ウナギは淡水域に生息していますが、成熟した親は産卵のために海へくだります。
一方、アナゴは海に生息しており、海で一生を過ごします。
また、食品としてみた場合の違いは、アナゴの脂質含有量はウナギの半分程度であることです。

(参考資料:「原色魚類大図鑑」北隆館) より。

 

 

52「江戸を食す」天然真鯛

白身魚の代表格はマダイです。

最近は比較的手頃の養殖真鯛が出回っておりますが、天然は尾ヒレはピンととがっております。

天然真鯛と養殖真鯛の見分け方。

1、天然真鯛は目の上に(画像)アイシャドウをぬった鮮やかな青色がさしてあ  る。

  更に美しくなろうとするのか?

  体にも青色の斑点がある。

  昆布〆にすると3日目から美味しくなる。

2、養殖真鯛は比較的脂分が多く、肉質は柔らかめ、その日に使うなら違いは判り  にくい

  1日たつと身が熟成して更に柔らかなり、日持ちがしにくくなる

 

 

 

50「江戸を食す」江戸時代のマグロは下魚

天保の末(西暦1842年)にマグロの大漁があって、そのころまではマグロは魚の中では上等のものとして扱われていなかったので、そのマグロの処置に困って捨てようにも場所がなかった。  
そのとき日本橋馬喰町の恵比寿鮨が試みにマグロをタネに使ったところ、江戸ッ子の気風にあって流
した。  
馬喰町というところは、名のごとく馬喰が大勢いた土地であり、馬喰がいなくなってからは、地方人相手の宿屋が多かったので、諸物の安いものが歓迎され多く売れたため、安しいすしとして恵
比寿鮨の主人が売り出したものであろう。
この時代は冷蔵庫の設備がないので鮪の色が変わるので、切りつけしてから醤油の中につけて、亀甲
色にして用いたので、鮪のことをヅケ(漬けるの略)という名が出た。  
当時、上流家庭に納める鮨には鮪を用いない。御膳ずしと看板をだした店は鮪に代わってタイ、ヒラ
メの白身の魚を用いている。  注)馬喰とは牛を鑑定・見極めて市場へ売りに行く牛の鑑定人、仲買人のこと 
 
注)江戸の魚河岸は日本橋  元禄期(1688〜 )には日本橋魚市場(後に築地に開設)は活況呈していた。 
  昼の芝居小屋が集まった芝居町(現在の浅草六丁目付近)、夜の吉原(現在の日本橋人形町)と並
んで「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。  
注)江戸時代
は、別名で「「シビ」と言う。「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわから
ない武士にとって、この名は禁句であった。それゆえにマグロは下賤な食べ物として食べなかった。

                      すし物語 宮尾しげを著より

 

 

49「江戸を食す」すしのタネの変遷 

江戸前のにぎりずしには現在どんな材料が使われているかというと、

上戸 ( じょうご ) (酒に強い人や酒飲みの人をさしていう)

下戸 ( げこ ) (酒に弱い人をさしていう)の別なく喜ばれるというのは、それは山のわさびから、

海のアワビにいたるまで文字通り山海の珍味をもうらしているからであって、

味も淡白なものから濃厚なものまで色とりどりで、材料が不思議なほどすし飯に調和する。

材料の作り方も一方的に偏するようなことなく、千差万別というところが誰にも好かれるのであろう。

時代と共に材料は移り変わっていった。

奈良時代(西暦700年〜800年)

 すしの始まったころの馴れずし時代は主として、アユ フナ コイ ナマズマス等の川魚が

 使われていた。

  ( ふぐ ) ( すし ) 、鯉鮓 、 胎貝鮓 ( たいかいすし ) の名

  が大宝令の中に名が出ている。

平安〜鎌倉時代(西暦800年〜1330年代)

 延喜式には鯛春鮓  鮒鮓  胎貝鮓  保夜 ( ほや ) 貝鮓 ( がいすし )  

  雑魚 ( ざこ ) ( すし ) が諸国から

 朝廷に献上されている。

 鹿 猪  雉子 ( きじ ) などの鮓もあったと記されている。

室町時代(西暦1400〜1600年代)

 押し鮓 棒鮓 姿鮓の時代になると、鯵 小鯛 このしろ 鯖が使われている。

 徳川時代(西暦1679年代〜)

玉子焼 鮑 小鯛 こはだ 海老 白魚 穴子が使われていた  

昭和時代(西暦1936年代〜)

 生海老 生あわび 生いかが握りに使用していた

  

                すし物語 宮尾しげお著 文献より 

 

 

48「江戸を食す」恵方巻

「江戸を食す」節分と巻きずし

恵方巻は当時沢庵を巻いていたとは?

 四十四年の節分の日、日本風俗史学会食物史分科会の月次例会の席上、大阪市立博物館の平山敏治郎館長から「ここに来る途中、阿部野橋のすし屋の表に本日巻きずしありという広告を見たが、何のことか知らん」という質問があり、美登利鮓の久保登一氏の返事に、節分に巻きずしを食べる風習は大正の初めにはすでにあった。おもに花街で行われ、ちょうど新こうこうがつかる時期なので、その香の物を芯に巻いたノリ巻きを、切らずに全のまま、恵方のほうに向いて食べる由。老浪華人の塩路吉兆老も今日まで知らなんだ、と言われる。もちろん私も初耳だ。普通の町家ではあまりやらないようだ。全国ではどうであろうか。

篠田統『すしの本』昭和45年6月30日初版より

注)こうこうとは「香の物」の「香」を重ねたもので、この時期の香の物は沢庵漬けをさす

 

47「江戸を食す」すしの行商

すし売りは江戸ではイナセな代表とされていた。
昼間は右手を下げているが、夜になると提灯をもって、
美しく澄みきった声で「すしやァ こはだのゥすゥしィ」
と呼んで売り歩いたのである。行商人は右手をあけているのが特徴となっている。

中心をとるためと、手の置き場を容易にする為に、一番下の箱を一枚突き出している実益の担ぎ方である。すしを入れた箱は布の紐で結んでいた。

右側に手拭を頭にのせ、
すしを入れた箱
を担いだ男が見える、
これがすし売り人。
図にある町は日本橋通り 今の八重洲口通りである

 

「すしやァ こはだのゥすゥしィ」と呼んで売り歩いた。右手にはお茶入れたやかんを提げている古くは右手をあけたが、明治時代になると必ず左手あけていようです

岡持ちに「いなりずし」入れて、右手で支え、わずかに左肩にのせる売り子もあった。
天保ころまでは白足袋を用いていたが、慶応のころからは紺足袋をはくようになった。

   

 

46「江戸を食す」徳川将軍のタブーの食物

1回世界すし博覧会in静岡の時徳川記念財団徳川恒考理事長(徳川宗家18代当主)が講演された。その中で、歴代将軍の食膳にはタブーとして供されない食物が色々あった。もちろん「すし」は食べたという記録は見当たらなかったと話されておりました。

 12代家慶の場合の食事

将軍家の料理は、京都御所にならって室町以来の流派の料理人によって供されていた。

 ●朝食は二汁三菜

 一の膳は汁(味噌汁)と「向うづけ」(刺身叉は酢の物)「平」(煮物)

二の膳は吸物と「皿」(きすの焼き物)

 ●昼食と夕食は一汁五菜

汁(しじみ)と

 「平」(煮物)こちの切身、長芋、ぜんまい

 「置合」(口取り)寒天、栗、ぎせい豆腐、金糸昆布

 「焼き物」鯛

 「お外のもの」海老

 「お壷」蒸玉子

*金糸昆布とは、昆布の芯だけを取って、細く刻んだ金糸のような昆布。

*ぎせい豆腐(擬製)とは、水分を切った豆腐と野菜やキノコを混ぜ、

 溶きほぐした卵と合わせて型に流し込み、蒸したり焼いたりする料理。


将軍の食事(用いなかった食材)

・野菜では、ネギ、ニラ、らっきょう、つくね芋、いんげん、さやえんどう等

・海藻では、わかめ、ひじき、あらめ

・魚では、このしろ、さんま、いわし、まぐろ、さめ、ふぐ、あいなめ、むつ、

 あかえい、いな、ナマズ、どじょう、ふな。干物類

・貝では、かき、あさり、赤貝

・肉では、鶴、雁、鴨、うさぎ以外のすべて

・果物では、水瓜(すいか)、瓜、桃、りんご、すもも、はただ見るだけで食べず

梨、柿、蜜柑の類だけは食べた

 

 料理としては、天ぷら、油揚げ、納豆の類は供さなかった 

一般の武家でも食べないものがいくつかあった。

 すしタネとして現在も扱っている、「このしろ」「まぐろ」「ふぐ」等である。

     このしろは「この城」を食う、に通じ、また切腹を命じられた者に最後に出される

  ものであるところから忌み嫌われた。

     まぐろは昔は「しび」と呼ばれ(現在でも静岡県では使う呼び名)ており、

 『慶長見聞録』(1614年)「しびと呼ぶ声のひびき死日と聞こえて不吉なり」

  という理由。

     ふぐは危険が多いためで、戦場で死ぬべき武士が、ふぐ毒にあたって死んだら

  不名誉であり、お家断絶となる。

『江戸が和食をつくった』渡辺善次郎著より   

 

45「江戸を食す」すし変遷史          

 

西暦

年号

鮓の変遷

715

806

奈良時代

熟れずし=ホンナレ

(ミサゴすし)

ミサゴが魚をくわえて残飯にそれで発酵。
(滋賀県フナずし=ニゴロブナ)
1年くらい漬け込んだもので、ご飯は食べずフナだけ食べる

養老律令(718年)

「鮨は鮓のことなり」の記事わが国で一番古いすしの文献

806

1190

 

 

平安時代

 

 

 

 

 

熟れずし=ナマナレ

(岐阜県アユすし)
(奈良県アユの釣瓶ずし) 

延喜式(930年)
自然発酵玄米をアユ・フナの腹に入れて熟成。

土佐日記(936年)

海岸(アワビすし)

山奥(イノシシすし)

1190

1329

鎌倉時代

熟れずし=ナマナレ

 (福井県アワビすし=鰒)

(愛知県い貝ずし)

平安時代と同じで変化がない
アユ・フナを熟成。

生成

10日くらいで食べられ、素材はアユ・フナ・ナマズ・コイなどの川魚が中心でした。

1394

1573

室町時代

生成(兵庫ツナシずし)

(和歌山サバ熟れずし)
蜷川 ( にながわ ) 親元 ( ちかもと ) 日記 ( にっき ) 1473年)

(吉野釣瓶ずし)

書言字考節用集(1496年)

(宇治丸=うなぎすし)

御湯殿の上の日記(1474年

姿ずし・棒ずし

(京都サバずし)

(大阪小鯛の雀ずし)

1575

1600

 

安土・桃山

飯ずし(和歌山コケラずし)
(大阪箱ずし)

いずし(秋田県ハタハタずし)

(石川県カブラずし)

いずしは北海道〜東北地方の名称

御湯殿の上の日記(14771826年

1600

慶長05年

早ずし

生成が早ずし(10日間)

(栃木県アユの姿すし)

1603

慶長08年

飯ずし

(愛知県木曽川アユずし)

1615

元和01年

生成

長良川献上鮎鮨)

1624

寛永01年

生成

(大阪小鯛の雀ずし)

1644

正保01年

1647年飯すしのコケラすしが箱ずしの原型

1645

正保02年

いずし

(秋田県のハタハタずし)

飯ずし

(京都府の宇治丸)
(奈良県の飯ずし)

毛吹草(1645年)

1665

寛文05年

 安土時代の生成がこの時代まで温存変化なし

1673

延宝01年

早すし

 (漢方医の 松本 ( まつもと ) 喜甫 ( きすけ ) 待ちゃれずし)

 

1685

貞享02年

江戸ですし屋が店を持つ

1695

元禄08年

箱すし
(富山県マスずし)

  (静岡県田子すし )

1727

享保12年

箱すし
(越中のボラすし)

徳川吉宗サトウキビ奨励

1732

享保17年

こけらすし

1742

延保04年

生成
(吉野釣瓶ずし)

竹田出雲「義経千本桜」(1742年)

1751

寛延04年

交鮨

(押しずしの一種)

江戸総鹿子大全(1751年h)

当座鮓(早すしとも)
飯と具を桶にてちょっと押さえてつける簡便なコハダ・アジが主の鮨

1758

宝暦08年

箱すし

  (はこつけ寿し)

絵本江戸土産(1758年)

1772

安永01年

 ちらしの押しずし

(静岡県の長門鮓)
この時期には稲葉屋の立場茶屋で売っていた。

1782

天明02年

江戸では握りずしが始まっていた

1785

天明05年

卵料理の人気有り、贅沢品
万宝料理秘密箱(1785)103種類の卵料理が紹介されている

1787

天明07年

海苔巻

(銀座の長門鮓)

「江戸名物喰物重法記」には

20軒すし屋の名前に銀座長門鮓が載っている。(小吉田とは別)

海苔巻

(笹巻きすし・玉子巻き)

すしの名が江戸に初見

  (三重県湯葉巻)

 

1789

寛政01年

江戸風鮓

  (いさごすし=松の鮓)

箱寿司が廃れ、

1790

寛政02年

 白砂糖が国産化された

1793

寛政05年

ちらしずし
(大阪のすくいずし)

(岡山県のばらすし)
(静岡県のきりだめしずし)
(山口県岩国ずし)
名飯部類(1802年)

1801

享和1年

ちらしの押しずし

(長門鮓)

改元紀行(1804年)蜀山人太田南畝

1804

文化
01

握りずし

上方境の商人堺屋松五郎
(いさごすし=松の鮓)

「文化のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすし出来て、世上すしの風一変し・・・・」

1813

文化10年

ちらしの押しずし

(静岡県の長門鮓)

大阪の豪商片山重芳仙台へ下向

1823

文政06年

握りずし

   (江戸前すし)

(柿の葉すし)

与兵衛すしが工夫

妖術といふ身で握る鮨の飯

1833

天保04年

箱ずし

 (長崎県大村ずし)

 (大阪府サバ・タイ・アナゴずし)

 

関西の押しずし完成

1837

天保08年

 嘉永二年(1849)の『守貞漫稿』には

天保中期の様子記してある。

鮨には梅酢漬の生姜一種を添える。

赤き故に紅生姜とも言う。

「江戸の庶民が ( ひら ) いた食文化」
渡邉信一郎著

1843

天保14年

宝酒造が味醂製造

 

1844

弘化01年

稲荷すし流行

(江戸の稲荷すし・篠田ずし)

近世商買尽狂歌合(1852年)

1850

嘉永03年

江戸前ちらしずし
(吹き寄せと呼ぶ)  

 

1853

嘉永06年

江戸では海苔巻を干瓢のみとある

 

1856

安政03年

ちらしの押しずし

(静岡県の長門鮓)

俳人内藤鳴雪11歳の時(1857年)

鳴雪自叙伝(1922年)

1868

1912 

明治時代

明治2年(1869年)「明治天皇が京都より東京へ御再幸のさい、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」と記され、長門鮓召し上がられる

  

 

 

44「江戸を食す」江戸と上方の昔の合わせ酢

食酢の歴史

平安時代延期年間(927年)に延期式に米酢の作り方が記載されている

桃山時代までは和泉酢(大阪)の独壇場でした。

江戸時代前期には相模の中原、駿河の善徳寺(富士市)、尾張の半田などに伝えられ、名産地が誕生しました。

1800年代までは米酢が一般てきであった。  

上方の押しずしのすし飯には、日本酒から造った米酢が使用され、砂糖も使用されたもようである。

一方、江戸時代も後期の文化・文政年間になると、「握りずし」が考案された。

文化元年(1804)「高価だった米酢を粕酢にすることができたら・・・」ミツカン酢は酒粕を利用した粕酢造りが始められました。

塩の歴史

「入浜式塩田」、500年位前(室町時代末期)から昭和30年頃まで続けられ、この自然の力を利用した大変合理的な方法は、干潮と満潮の差が大きい瀬戸内海沿岸で開発・発展しました。

砂糖の歴史  
寛政2年(1790)讃岐(香川県)で白砂糖が製造され、8年後には大阪市場に廻送できるほど量産化された。

砂糖には、すし飯に粘りや艶を与えるという利点もあるし、これを使うことで保存性も高くなる。さらに、砂糖の持つ保水力で、酢をご飯粒につなぎ止めておくという効果もある

江戸の昔の合わせ酢

シャリ1升(1800cc)酢1合(180cc)塩1合(180g)

すし飯は、現在のように塩と砂糖を加えた酢を炊きたての飯に混ぜるのではなく、塩は炊き水に加え、砂糖は用いず、酢はすし箱に詰めてから適量を振りかけていました。塩が現在の分量の約3倍と多いのは、塩の精製度が低いためで飯は粕酢と塩だけで味付けがなされ、上方の押しずしとは異なり砂糖を使用しなかった。

関西の昔ながらの合わせ酢

粕酢(赤酢と称する)はシャリが黒くなりますので関西では米酢を使用(江戸の握りはタネで見えにくいので粕酢を使用)

味付けには塩・米酢・砂糖

注)昔は味醂を飯に入れて炊いたので焦げるので合わせ酢に砂糖を使用。

 砂糖は冷めても美味しく食べられるように砂糖を使う。

コンブは米1升につき20 ( もんめ ) (3.75g×20=75g=75cc)の割合。

宵から水に漬けて水だしをとり水と合わせます。

注)昆布を直接入れて湯立てするとコンブ臭くなる

冷めた状態で食べる関西のすしでは、でん粉の老化を防ぐ為、砂糖を多く使う。多量の砂糖は塩の味を浮き上がらせ、塩と酢の塩梅がとれていた味を壊してしまう。

シャリの温度が下がるにつれて砂糖、塩、酢がバラバラになるのを昆布が防ぐことができる。

現在でも適用されている合わせ酢である。

 

 

43江戸を食す」甘鯛

甘鯛には三種類ある 

白甘鯛

 一般的にはシラカワともいわれ京都では「ぐじ」静岡では「興津鯛」と呼ばれている。

 体全体が白っぽく成魚は60cm位になる

 三種類の中では一番上物とされてます。

 やや白みをおびたピンク系で尾ビレの模様が他の2種類と異なっているのも特徴。 

赤甘鯛

 体全体が赤く、あまだいの中では最も漁獲量が多く成魚は50cm位になります。 

黄甘鯛

 30cm位でも小さく、淡白すぎて味が落ちるともいわれています。 

旬は

 秋から冬が旬です。 

特徴

 他の魚に比べて脂肪分が少なく、80%近くが水分。 

興津鯛とは

 一夜干しを静岡県では興津鯛と称している。

  作り方
 
江戸時代の長門鮓復元の為一夜干しした。
 
うろこをとり3枚おろしにして、塩水につけ(時間と塩の比率)、

 水にさらし塩だしする。そして頭と尾を左右に押し身を浮き上がらせ、半日干した。
 
白梅酢(地元農家製)に漬け込み、昆布〆にする。(数日間寝かせた)

 

 

42「江戸を食す」初カツオと川柳


江戸っ子は初カツオの刺身は「からし」で、食していたのが普通だった。

ワサビなどでも食べていた江戸っ子もいたようです。

当時の川柳にも、初カツオを題材にしたのが多くある。

「初がつを 銭と芥子で二度落涙」

「梅にうぐいす鰹にはからしなり」

「春のすへ銭へからしをつけて喰い」

「初の字が五百鰹が五百なり」

「初鰹玄関ふまぬ残念さ」

高価な鰹になけなしの銭をはたいて嘆息です。

 

「今くへばよしと肴屋置いてゆき」

「おちぶれるものは鰹の値段なり」

「はづかしさ医者へ鰹の直(ね)が知れる」

安永年間には鮮度が落ちると値段も安くなった

 

「初松魚(はつかつお) からしがなくて涙かな」

大奥の老女・絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の絵島生島事件(1714)

三宅島に流されたから生島新五郎が二代目・市川団十郎によせた句が有名です。

「目には青葉山ほととぎす初鰹」

  俳人山口素堂の句です。

初鰹の出始めのこの季節は新緑が美しく、山ではほととぎすの初音がきかれる。

 

花の絵島がから糸ならば、たぐり寄せたい身がそばへ」

江島は信州高遠へ流罪となり、新五郎を哀れんで三宅島の民謡に歌はれた。

 

 

41「江戸を食す」江戸前鮨の仕事いろいろ

1、江戸前の仕事をしております。
    
刺身をのせるだけのすしが多い昨今です。
    
当店:材料の酸化を防止と甘みを引き出す、煮る、焼く、酢〆、昆布〆、茹でる等を基本コンセプトに。

2、お土産を作らない鮨屋がある。

    鮨を折り詰めにして何時間も時間が経過してから食べる鮨はその場で食べる鮨と比較したらたら

    美味しくないのは当たり前である。
  当店:江戸前鮨の基本で創っておりますので(タネとシャリが馴染ませること)、
  2時間位でお召し上がるのでしたらお土産は作っております。

3、煮切り醤油を鮨につけて供します。

  当店:味をつけているタネですので鮨タネにより、煮切り、煮ツメ、塩、柑橘で供しております。

    作り方はだし汁に味醂、酒入れて沸かし、醤油を入れる。約1割位分量が少なくなったら火を止める。

 

4、江戸時代から大正時代までは鮨の大きさは今の大きさ(指2本位)の2倍(指4本位)の大きさであった 
     と 聞いている。

  昭和の時代になってだんだんと小さくなり、1個では物足りないからといってお客様の注文で
  
2個供するよ うになった。

  当店:立ち食いは1個ずつ出しています。
     
ご飯粒の間に空気を入れて(空洞をつくる)握らないと鮨は駄目。

 

5、鮮度の良い魚は全部生で握る生嗜好が強い昨今。
    
アジ、サヨリ等塩振りして酢〆したら、古くなったから酢〆しただろうと思う客が結構いらっしゃる。

  当店:お客様の要望が強い生嗜好より、自分のやっている仕事に調子を合わせて頂く事にして
     おりま す。

     
(生、酢〆両方の鮨を用意はしておりますが、酢にした方が美味しさには格段の差があります)

 

40「江戸を食す」ひやかの語源

吉原が明暦2(1656)江戸の大火で焼けてしまい、
幕府は吉原の遊郭を浅草に移転させました。

この地には紙すきの工場があって、紙をすいて仕上げるまでに、紙をしばらく水にひたして

冷やしておく工程があり、これを「ひやかす」といった。その間、職人たちは暇なので、

近くの吉原の遊郭をのぞきに行ったという。   

すしの浅草海苔も浅草紙の漉き方など製造方法を真似て作られました。

のり職人ものりを冷やしておく間で吉原の遊郭に見に行った。

そこで、買う気もないのに店をぶらついたり、値段だけ聞いて買わないような客のことを

「ひやかし」というようになったのだ

乾し海苔(のり)の大きさや製造法のもとになったのが「浅草紙」です。

海苔1枚(全判)の標準サイズは縦21cm×19cmで、ティッシュペーパーと同じサイズです。

 

屋台店の様子

 

屋台高輪の絵

「二十六夜待ち」とは、月の名所である高輪には、多くの人が繰り出し、夕涼みを兼ねて、茶屋や船上での飲食や遊興を楽しんだ。とありました。屋台は飲食店で、すしの屋台もおあります。江戸っ子の楽しみの一つだった様です。

 

 

39「江戸を食す」浅草の海苔

 

江戸の中期までは江戸の味覚といえば上方(大阪)から「下りもの」で江戸中〜後期にかけて江戸の

独自のものが、江戸で生まれた。当時は海に近かった浅草を物資の流通拠点としたことから浅草と海苔の関係が生まれる。

上方(大阪)に流通した最初の商品が海苔である。しかし、埋め立てが進むにつれて浅草では海苔の採集ができなくなった。

その後、葛西浦中心に海苔採集がなされた。

寛延2年(260年前)海苔の発生に不可欠な貝類が江戸川の氾濫で埋まってしまい漁具や浮遊物に付着する海苔を採取する漁法はできなくなる。

それ以降の享保2年(1717)生産地は品川に移る。このころから「ひび立て」による養殖が始まり生産量が増大した。

江戸名所百景

歌川重が風景を、豊国が人物を描いた合作。
火鉢で抄き海苔を焼く女性の向うの海に、海苔養殖の

ノリヒビ(木の枝や笹竹を海中に建てて海苔を付け養殖するもの)
が見えます。
享保2年(1717)ころ品川浦で始まった海苔養殖は天明ころ盛んになり、江戸の名所になりました

江戸時代末期になると品川の養殖は衰退し中心は大森に移る。生産者の大森の生産者は日本橋ののり商と取引を拡大したので、浅草ののり商人は凋落し、浅草は「あさくさのり」の名前だけを残して脱落する。

需要が庶民に浸透していく手助けは江戸市中を天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」であった。

地方に売りに出る「旅師」も、長野県諏訪の人達であった。

山国の諏訪の人たちは厳しい冬を江戸に季節的出稼ぎで海苔を売り歩いた。

のり養殖の技術を地方に持ち出したのも諏訪の人達であった。

江戸式製法が始めて箱根を越えたのは文政2年(190年前)のことであった。(握りずしが考案された時期に重なる)

遠州舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森ののりと同じだったので地元に養殖をすすめた。

その後、森田屋は大森から製造法をもらしたと村八分にされ、その後の消息は知る人はいない。

大森の田中孫七宅は留守宅を壊される仕打ちを受ける。

それほどに江戸湾ののりは閉鎖的な生産、流通のもとで成長してきた。

舞阪、三保の境内で現在も碑が建てられております。

 

 

 

38「江戸を食す」鯖の漬け方

旬は9月から10月にかけて、脂がたっぷりのり、身がひときわ太くなってくる。

今日のマサバは淡路島からの入荷である。身体には厚みがあり丸い体系で久しぶりに

大きいマサバである。

鮮度の落ちも早いので酢〆にすることがほとんどである

サバは身割れしやすいので気をつけて3枚おろしをする。腹骨のつけ根に包丁目を入

れると塩や酢がサバに回りやすい。

ザルにたっぷりと上下に塩を敷き詰め1時間〜1時間30分位どぶ漬けする。

その後、塩を洗い流し、水分サラシでふき取る。皮目を下にして漬けること15分

その後身を返して皮目を上に向けて15分漬ける。30分経ったら酢の回り具合を中骨の

有る部分で確認する。

ザルを斜めにして酢を切る。サラシ&保鮮ペーパーで酢をふき取る。骨抜きをする。

 

 

37「江戸を食す」スルメイカとアカイカ

スルメイカ(呼び名ジルマイカイ)
昨今は茹でたイカのご注文が少なくなりました。
当店ではご年配のお客様には根強い人気商品です。
耳タブの硬さ程度に茹でた(茹で過ぎると硬くなる。 )後に煮立てた煮汁にイカを入れ、
箸でころがして味を整える。
甘い煮ツメをぬって食べる煮いかのすしは格別に美味しい。
スルメイカの場合、生よりも煮たときに味がぐんと増す。
叉、昔は甘酢に漬けた酢イカが定番であったが、嗜好の変化でメニューから消えてしまいました。
当店では酢イカのご注文があれば供します。

  江戸のイカ印籠づけ(当店は赤イカを使う)
   イカの胴の中に酢飯に甘く煮た五目を混ぜ、詰め込むのである。
 五目飯の具(かやく) 椎茸、人参、いなり、昆布、ゴマ、かんぴょうの刻んだものである。
 一般的には殆んどみられなくなった仕事である。
 関西方面でも印籠ずしと呼んでいるが、江戸では「印籠づけ」 と呼び、
 江戸細工ずしの一つにで、それなりの評価があった。
 作り方は煮イカと同じように煮る。煮立てた煮汁にイカを入れ、箸でころがして味を整える。
 丸のイカの胴の口を少し切り、姿を整える。
 イカにすし飯を詰める。イカがパンパンに張り切れる位になるまできっちり詰める。
 甘い煮ツメをぬって食べるアカイカのすしは柔らかくて懐かしい江戸の鮨です。

 

 

36「江戸を食す」すしの食べ方  

すしの食べ方は自由であり、どれからたべてもよい。

昔はその店の味をみるのには始めに酢で〆たタネ、コハダ、アジ。

次に煮たもの、アナゴ、シャコといったもの、最後に玉子焼きか、のり巻き(かんぴょう)

どれもすしの味を生かしもし、殺しもする品物であるので、そんな順にたべれば、

たいていその店の腕前が判るといわれたものである。

しかし、好き不好きがあるので、どれからたべても悪いという規則はない。

しかし、立ち食いのエチケットはある。

1、つけ醤油を使う場合はシャリに醤油をつけない。
  
タネとシャとを横にするようにして、同時に舌に直接触れるようにして口に押すようにして入 れる。
 
これはタネのうまさと飯のうまさを舌ですぐさま味わうということが、立ち食い醍醐味である。

2、立ち食いは箸を使わない

 箸を使うなら立ち食いをする必要がない
3、中には箸を使ってタネだけを醤油にひたして、それを再びシャリの上にのせてから食べている
 お客 がいる。

 すし屋泣かせである。
4、煮ツメをつけるアナゴやタコ、シャコのようなタネのものに醤油をつけるお客がある。
 習慣性もあるか知れぬが、これは頂けない。
5、つけ台の上にすしをいつまでも放り出しておくのもやめたほうがよい。
6、また、食べているのに次の注文を出すのもやめたほうがよい。

  参考文献 すし物語 宮尾しげを著 昭和35年発行

   

 

35「江戸を食す」玉子焼き

 

当店では3種類の玉子焼きを焼きます。

■玉子焼き(薄焼き玉子)は「つぶし」の生身(白身魚・海老)をすり身して、「わり」の砂糖、酒、塩、味醂、醤油を玉子で割って焼きあげます。
焼き方は長めの菜箸と脱脂綿を使い玉子鍋に食用油で皮膜を作り熱くなっている玉子鍋を適温まで下げ(手のひらを当てて感じ取る温度は長年の経験で判断)玉子液を入れ、弱火で焼きあがってきたら、さい箸でクルクルと玉子鍋と玉子の間をはがし、表面に未だ焼けないで残っている玉子液を下の鍋に落とし、玉子全体をさい箸二本でひっくり返します。この瞬間は職人技・名人芸です。専用の落し蓋で焼きを待ちます。
柔らかさでは出し巻玉子には及ばないが深い味わいがあります。
玉子焼きとは昔から薄焼き玉子のことでして、厚焼き玉子が作られてくるようになったため薄焼き、厚焼きと区別するようになりました

■厚焼き玉子(カステラ風)は薄焼き玉子の調合の2倍の量で焼きます。鶏卵は12個使用します。

だし汁は使用しません。上下から火をあてて一回で両面を焼きます。玉子液の焼けてない表面の部分は空気を抜きながら

じっくりと当店は40分の時間をかけて焼きます。

     出し巻玉子は玉子と「わり」と言いますだし汁、砂糖、塩、醤油を使い何回も重ねて全体としてフンワリと仕上げます。
本来は日本料理でお出ししていた玉子焼きでした。鮨の玉子焼きではなかったのですが、現在は7割くらいのお店がこの玉子焼を使っております
河岸玉と言って専門業者から仕入れするか自家製かはそれぞれです。

昨今の鶏卵は養鶏が多くなってきましてからは玉子焼きは各店工夫して、つぶしは白身魚(ひらめ)・海老(芝海老)・貝(小柱)・白はんぺん・大和芋等使います。どれが良いかお客様以外は判断次第です。
昔は放し飼いの鶏でしたので塩だけで焼き上げた玉子焼は他の比ではないと先輩の職人は言っております。

 

 

34「江戸を食す」しゃこの漬け込み

蝦蛄を車子とかしゃこと読んだり書いたりしております。

まわりが海老と同じように殻におおわれています。

当店では生のしゃこを年に一回程度仕入れするこがありますが、殻からはがすことが

難しい仕事です。

叉、足が早い(傷みが早い)ので魚竹寿しではほとんどが産地で茹で上げたものを仕

入れいたします。

江戸前の「小柴」産が良質で特大・大のしゃこは手に入りにくいです。

しゃこは蒸し器で少々蒸します。鰹のだしを引いて、砂糖・味醂・醤油で煮立てそば

つゆ程度の「漬け込み汁」を作ります。その中にしゃこを漬け込みます。冷蔵庫に入

れて一晩漬け込んでおきます。

蒸し器で蒸すとしゃこの鮮度の良し悪しが臭いでわかります。

 

 

33「江戸を食す」コハダは塩と酢で決まる

美味しさの決め手

1、素材のコハダは「めまわり」が揃っている
注:「めまわり」とは魚一尾の大きさのこと
コハダは脂ののり具合、厚さ、大きさ、季節(温度)により塩の時間をどの位にするか決めるので、
「めまわり」が揃っていて、鮮度の基準は目玉がみずみずしいスカイブルー色をしたコハダを選ぶこと
一貫のにぎりに一尾のコハダが使用される大きさが理想
幼魚の新子は8月〜9月頃で一貫で3尾使う  

2、振り塩の時間は長年の勘で塩加減を決める

大きめなザルに背の方を下にして荒塩で振り塩します。
塩加減はコハダの条件に合わせてカンで決める
(親方から教わった職人の門外不出の塩加減。シャリの調合の塩も同様)  

3、水洗い(塩出し)したコハダ

コハダの表面の水分とコハダから出た余分な脂肪分を洗って流します
そうしますと酢がしみこみやすくなります

4、「酢洗い」を二番酢で酢洗いをする
 注:二番酢とは前回本漬けで使用し残しておいた酢叉は、水と酢を同量で混ぜた酢
 コハダは青魚の生臭さがありますので本漬けの前に生臭さを取ために一枚一枚ゆすぎます
 ゆすいだコハダ5枚位重ねて手のひらで押して余分な酢をきり、30分位おきます
 ポイント:
 酢洗いをきちんととすれば生臭はなくなり、美味しいはここで決まります。

5、本漬けは一番酢で漬ける
 つけ具合は時間に頼らないで自分の目で見て決める(職人により時間に差異があります。

余分な酢を切り馴染ませる為一晩以上立てかけて冷蔵庫に入れておきます
2日目に召し上がるコハダが一番で、当日には握らない事です。  

修行時代、魚を最初に扱わせてもらうのがコハダで、江戸前の鮨の技術の基本中の基本です
コハダの脂・塩・酢の調和でお客様に満足いただける江戸時代から変わらぬ粋を見せる伝承加工技術です

32「江戸を食す」蛸を茹でる・煮る

魚屋・スーパーで店頭売りされているたこは時には固くて、歯切れが悪い経験を

お持ちかと思います。

江戸前の鮨屋では二通りの仕込み方があります。

動いている活蛸を仕入れする。胴(頭ではない)をひっくり返して根元から切り

落とす。

その後塩でゴシゴシとこすりぬめりを取ります。

●茹でる方法

焙じ茶(ほうじちゃ)を煮出し、水を沸騰させ、塩を塩梅よく入れます(ショッ

パイ・辛いは駄目)

その中に焙じ茶いれると、紅茶色になります。煮立ったら蛸を足から入れます。

蛸は茹でると真っ赤になりますので焙じ茶は地味な色にする為に使うのです。

最初は足が巻きついてきますが約30分間茹でますと足が伸びてきますのでその

時タイミングよく火を止めます。

茹でた蛸は煮汁が冷たくなるまで鍋から出さずにそのままにして置きます。そう

しますと柔らかく仕上がります。

●煮る方法

桜煮と言いまして日本料理からの伝承されている仕込みです。

沸騰した湯に足をくぐらせる。別の鍋に酒と水をいれ沸騰させる。 煮立ったら足

から入れる。ザラメ・醤油・小豆

入れる。沸騰したら弱火にして3時間(蛸の煮上がり状況を見て時間調整をする

1時間〜3時間)コトコトと煮る。   こまめにあく抜きをする。火を止めたら

汁が冷たくなるまで鍋から出さずにそのままにして置く.大体4時間で冷めます。

当店は桜煮で仕込みしております。

柔らかく、色つける煮る方法はこのように茹でる、煮る方法で多少の違いはあります。

「蛸を洗って大根で叩きますと柔らかく煮あがります・・・・・。」とは嘘でして、何

の役に立ちません。

 

31「江戸を食す」穴子の煮方

7月中旬〜9月初旬までが江戸前アナゴが美味しく召し上がれる季節です。

昔は羽田、大森、生麦、浦安のアナゴが代表的な産地でした。

多摩川、荒川の水が流れて、真水が多く。一方江戸川の水が流れる千葉県側

は塩分が強いとされていた。

したがって江戸前のアナゴでも潮の流れで羽田沖と千葉県沖では違うと言わ

れている。

東京浅草の老舗すし店ではメソアナゴと言って15〜20センチ位の丸付けの穴子

を好みます。

水でぬめりを取って、鍋に白砂糖、酒、薄口醤油を入れ、沸騰したらアナゴ

を10本〜15本位入れ、落し蓋をする。

叉、沸騰したらアナゴを表裏返して、ザルにあけて冷まして白く煮る。この

煮方を「さわ煮」と言います。

一方アナゴが40〜50センチ位のアナゴは煮方が違います。霜降り、水炊

き、煮るの工程です。

沸騰したら弱火で1時間位煮て、蓋をしたまま煮汁が冷めるまで置きます。

そうしますと骨は柔らかくなり、

味も滲みこみます。この煮方を「漬け込み」と言います。

 

 

30「江戸を食す」散し鮨の製法

五目(ごもく)は野菜類の具を飯に混ぜるものであり、飯の上に具とタネを並べるのが散し(ちらし)というのが定義。
タネの並べ方をすし屋間では「吹寄せ」と呼び、「それぞれのタネが少しずつ重なるように並べるのがコツで、入れ物のどこから見ても美しいようにしろ」と教えられている。
 参考:飯に混ぜる材料を「具」という。

 

明治末期のちらしずしの製法

・材料
「椎茸、木茸、玉子、おぼろ(芝海老)、小魚、貝類(その季節のもの一種)、海苔飯、生姜、以上の材料を調えましす」

・盛り

 「海苔酢飯を軽く器に盛り、椎茸(半個)、きくらげ少量を混ぜて海苔飯の上に振りかけ、その上に薄焼き玉子を短冊

 形に細くきり適宜にしき、なおその玉子の上におぼろをまき、上ぶき(小魚や貝類)をかけ、生姜をそえてすすめます。

・海苔飯

「薄き海苔(海苔巻に用いる海苔より粗きもの)を強き火にて青くなるまで焼き冷めぬうちに細かく折り裂き両掌にてよく摺り揉み細末にしてすし飯に混じ、竹箸を使ってよくかきまわして合わせるのです。飯に混ぜる海苔の分量は五合の飯につき、前記の海苔五枚のわりです」

     上ぶき
「これは季節によって次の種類のうち一品を選び、細かく短冊形などの切って用います。白魚は江戸前なら六,七尾位づつ一人前に用います。小鯛、さより、きす、鯵、白魚、赤貝、みる貝。」

    
普通小丼を用いますが薄手のやや深い小皿に盛ります方が上品になります。」

     注意
「上ぶきの上に更に少しの木茸をふりかけますと体裁がよく見えます。」
「叉上ぶきの他に小海老を適宜に切ってあしらえば色彩りよく見えます。」
「鮓店で蒲鉾、烏賊、章魚(たこ)、あなご等を上ぶきに用います。

 

揉み海苔を鮓飯に混ぜるのは、当時ほとんどのすし店でやっていた仕事だ。

明治中期までは海苔ばかりでなく、しいたけ、かんぴょう、きくらげなども飯とまぜるすし屋が多かったという。

 

29「江戸を食す」散し鮨(ちらし)

 

風俗画像』(百六十号、明治375月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)

風俗画像』(百六十号、明治375月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)

風俗画像』(百六十号、明治375月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)

「按ずるに鮨はもと一旦漬けておいて食うべきなるべし・・・・・今東国の握鮨なるものは、その漬けるに換えるものか、いえ故に早鮨の称あり。是によって考うればかの散し鮨なるものは鮨の本意に非ざるべし。おもうに東国人の性急にして迅速を貴ぶの風あり。故にかくの如き物に至ても待ことを嫌うよりして今の如き調整に遷りしもか」とある。

 すしとはすべて馴れた味覚の育成を基本として、その製法がなされるべきだ。単に鮨飯のうえに具(飯のうえに並べるタネを昔は「 ( うわ ) ぶき」といった)をならべるだけの現在のようなちらしに対して、すしか否かの論がでてくるのは当然ともいえる。

専門のすし職人にすしの基本的味覚の出所をふまえた論として注目に値する。

鮨として生まれながら鮨らしからぬものへ変わってしまう、といったこともある。

やはりちらし類もすしだ、と確信を持って新ちらしを創案されることを願う。

今、話題の「静岡ちらし」は五目鮨(ごもくすし)と散し鮨と 五目 ( ごもく ) ( すし ) (後に記述する)の基本としている。

 

 

28「江戸を食す」 煮キリ

 

搾りたての生醤油は、本来の味と香りを大切にするので醤油自体に一切味付けをしないの

で、すぐにカビが発生します。普通の醤油はしぼった後に加熱殺菌をして、保存性はよくなりますが、反面醤油本来の香りの良さがなくなります。日本酒『生酒』の吟醸や大吟醸が冷蔵することで腐敗を防ぎ、流通されています。これをヒントに搾りたての生醤油も、冷蔵することにより本来の味と香りを大切にした生醤油が流通販売されております。江戸前鮨屋では生醤油の強い香りが、淡白なすしの味がこわされてしまいますので、そこで江戸時代から「煮キリ」といいまして生醤油を、各店独自の工夫で味を作り上げております。当店は生醤油に少々の水と○○を加え、加熱して強い香りを押さえた煮キリ醤油をつくっております。シャリの酢合わせに砂糖をいれるますので、味醂は入れておりません。
当店の鮨のつけじょう油はすべても煮キリにしてございます。

かっての醤油はカビが生え、そのため使用前にこれを漉して取らねばならなかったが、現在ではまずその要はない。また、クセが強かったためか、生醤油のままつけさせるよりは、味醂やカツヲのだし汁等ともに煮て醤油の臭みを飛ばした「煮切り」がよく用いられた。

 

27「江戸を食す」 握りずしとつけじょう油

「江戸前の握りずしは、しょう油をつけてたべるものか、それとも、つけずに食べるものか」

 いまは、握りずしはしょう油をつけて食べるのとされているが、これは食べ方としても、おかしな話である

なぜならいうまでもなく江戸前鮨の特徴はいろいろ違ったタネ(ネタとはすし屋は言わない)の持ち味を生かして、それが飯(すし用語ではシャリ)と調和(なじむ)するところにあるのだから、それを、つけじょう油につけることによって日本食の基本である十色の味を一色に近づけて食べるのはというのは感心できない。すし屋にしても、それではなんだか馬鹿にされているようなものである。

 まして、タネだけズルリと剥がして、それにしょう油をベットリつけたタネをまた、もとの飯の上にかぶせて食べられたのでは、見ているこちらのほうもガッカリさせられてしまう。

 もっとも、そのくらいにして食べなければ旨くない握りも、昨今ではままあるのだから話は面倒である。

 だが、昔(明治末期まで)は、つけじょう油なしで食べられる握りが普通だった。・・・・・・・・。

結局、つけじょう油とは前処理や煮きり(生醤油を自家製の味に)を使わない純生物をタネとした握りずしの出現によって必要となったに違いない。・・・・・。

そして、純生物のタネを使うということは、江戸前伝統の技術からいえば一種の逃げ仕事であった。・・・・

 

 

著者 吉野曻雄「鮓・鮨・すし すしの事典」より引用させていただきました。

日本橋吉野鮨本店の三代目 故吉野氏は俳優の野口元夫として知られておりNHKTVドラマ「事件記者」の山長役、マルサの女等に出演した

 

26「江戸を食す」ハレとケ

 

ハレとケ」という言葉がある。ふだんの生活である「日常」を表している。また、の生活が順調に

行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。
「ハレ」語源は「晴れ」であり、祭りや年中行事を表している言葉で「晴れ舞台」「晴れ着」と使う。
ハレの日には江戸時代は餅、赤飯、鮨や酒で飲食をした。
「ケ」ふだんの生活である「日常」を表している。
生活が厳しいときはケガレ(気枯れ)という。又、非人道的行為をする人をケガレていると言う。
江戸時代の修行の身の鮨職人は寒いこの時期、冷たい水を使い「コハダ」など仕込みして、毎日々が同じことの繰り返しであった。 
普通は毎日同じことをやっているといやになるものである。
江戸時代では人為的に「ハレ」を作り出して、祭り、能狂言、正月などの行事である。
現在のすしはいつの日でも食べられる。
当店の「江戸前鮨」「静岡ちらし」はハレの日に食べられたすしである。

25「江戸を食す」江戸の魚河岸

 

元禄期(1688〜 )には日本橋魚市場(後に築地に開設)は活況呈していた。  

昼の芝居小屋が集まった芝居町(現在の浅草六丁目付近)、夜の吉原(現在の日本橋人形町)と並んで「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。

「此橋上ヨリ御城ト富士山見エテ絶景ナリ」とある。

日本橋の魚問屋の悩みは幕府が毎日登城する役人の昼食を出す為に魚介類を悪名高き「手付け」と呼ばれる係りが魚河岸をまわり「御用」と叫び、格安の値段で納入してしまう。
商売にならないので魚を隠すと「御肴役所」を設置してごまかしができないようにした。

参考)幕府公認の吉原遊廓「吉原」の語源は遊廓の開拓者が 静岡県富士市吉原 出身であったため。

 

24「江戸を食す」義経と千本桜

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下市村釣瓶鮨屋の場 一幕  

いがみの権太・・・片岡我當
弥助実は平維盛・・・片岡進之介
若葉の内侍・・・片岡愛之助
女房おくら・・・ 上村 吉弥
娘お里・・・片岡孝太郎
梶原景時・・・坂東弥十郎

(かいせつ)
 「義経千本桜」は、「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」と並んで浄瑠璃の三大名作といわれ延亨4年(1747)大坂竹本座にて初演されました。
 竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作で初演より大当たりを取り二ヶ月後には歌舞伎として上演されました。
 全五段の三段目に当たるこの「すし屋」は家族の愛情を描いた、とりわけヒューマニズムに溢れる場面です。

(あらすじ)
 壇ノ浦に平家が滅亡した後も、三位中将維盛だけは、大和国の「釣瓶鮨」の店に、弥助と名を変えて身を潜めていた。そんな身分とは露知らぬ鮨屋の娘お里は弥助に思いを焦がしている。お里は父親から今夜祝言の杯をさせてやろうと言われたので嬉しくてたまらない。
 そこへ突然、この家から勘当されていた権太が戻り、懐中の人相書きと弥助を照らし合わせ、何かをたくらんで二人を奥へやる。そして何時ものように母親に無心する。息子に甘い母親を空涙で口説いて、まんまと小遣銭をせしめる。そこにあたふたと父親の弥左衛門が帰ってきたので、権太は慌ててその金を鮨の空桶に隠して逃げ込む。弥左衛門は帰る道すがら倒れていた小金吾の生首を手に入れ、権太が金を隠した隣の空桶にそっと隠す。
 一息つくと弥助を呼び出し、梶原平三景時に匿っている維盛の首を討って渡せと迫られたと打ち明ける。そして、「上市村の隠居所の方に忍んでくれ」と言って奥へ去る。
 維盛の妻、若葉の内侍は、幼い六代君の手をひいて道に迷い、計らずもこの「釣瓶鮨」の店に一夜の宿をかりようと立ち寄る。出てきたのは町人姿になった維盛(弥助)なので驚いたが、一別いらいの再会に、その喜びはひとしおだった。 お里は初めて弥助の素性を知り、所詮、かなわぬ恋とあきらめて維盛親子を上市村の隠居所へと落としてやる。
 これを知って出てきた権太は「訴人して褒美の金にありつくのだ」と叫び、父親が首を隠した方の桶をひっ抱えるや一目散に走って行く。一大事と親父の弥左衛門が、後を追おうとした時、梶原が家来を引き連れて物々しく入ってくる。梶原の厳しい詰問に弥左衛門が困惑しているところへ、権太が首桶を抱え内侍と若君を縛って連れてくる。梶原は権太の手柄を賞賛して当座の褒美に頼朝公の陣羽織を与え、親子を引き立てて行く。計略が水の泡となり弥左衛門は怒りの刃を権太の脇腹に突き刺す。権太は深傷に苦しみながら間違えて持ち帰った鮨桶の中に首があったので、初めて父親の忠心が判り、自分の子と女房を若君と内侍の身代わりに仕立てて梶原を騙し、これまでの不幸を詫びるつもりであった。と打ち明ける。
 弥左衛門は初めて知る権太の心根に胸を打たれるが、時既に遅く我子を手にかけた悔恨の涙にくれる。瀕死の権太が吹く呼笛を合図に本物の維盛親子が姿を見せ、改めて権太に謝意を述べた上、さっきの頼朝の陣羽織に恨みの一刀を突き刺す。すると、中から数珠と袈裟がでてくる。
 かって維盛の父重盛に救けられた頼朝が、昔忘れぬ恩返しのつもりであると察した維盛は、その袈裟をかけ数珠を手に、俗界を離れ高野山へ上がって剃髪する覚悟を決める。人々が、それぞれ涙するうちに、権太は満足げに息絶えるのであった

梶原山は、梶原景時{かじわらかげとき}と息子たちの終焉(自害した)場所。
 梶原景時は、源頼朝に仕え、鎌倉幕府の創立に、功をたてましたが、頼朝没後の勢力争いで敗れました。
 正治2(1200)年、梶原一族は西国へ向かいます。
 しかし駿河国の清見ヶ関から、大内(現在の清水市)あたりで、すでに鎌倉の命を受けた、国侍の待ち伏せにあい、合戦となります。
 「もはやこれまで」とみた景時親子3人は、のちに梶原山と名づけられるこの山に入っていき、そして山頂で自害。
 現在、山頂には、梶原親子の塚がありました。
 びん水は、梶原親子が死を決意し、鬢{びん}を整えた、わき水の場所だということも、そこでわかりました。

 

23「江戸を食す」家康と佃島

 

江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃村の庄屋・森孫右衛門が家康公を助けた物語は逸話として伝えられている。
 武田勝頼の領地である持舟城( 静岡市用宗 )を攻め落城させたのは天正10年(1582)2月のこと。本能寺の変の3ヶ月前だった。

 家康は安土城を訪れた後、堺を見物していた天正10年(1582年)6月2日の早朝、本能寺の変が起こる。岡崎城へもどる直接の退路が阻まれていることを知らされ、少人数の武装のない家康一行が、土民が落ち武者にとっていかに脅威にとなるか知り抜いていた。

 一行が、神崎川( 大阪市住吉区 )にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。山越えし、やっとのことで三河岡崎城にたどりついたのです。

以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。

その後

江戸幕府の台所へ出入自由の佃島の漁民達は、江戸前の新鮮なシラウオを献上魚として、残った雑魚を江戸市中で商いし、激増に伴う町民の食生活を支える大事な漁業者として暮らしを立てていました。

 幕府は従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴でしたので、需要に追いつきません。そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。この孫右衛門は魚河岸の元となる店を開いたとも言われている。現在の築地にある中央卸売市場です。

 

 

22江戸を食す」武士が食べなかった   

江戸時代には、町人は食べたが、武士は食べられないものがあった。それはコノシロ、マグロ、フグ

であった。

コノシロは「この城」と言い、語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は縁起が悪く、落城に通じるとされたのだ。
また「腹切り魚」といって切腹を命じられた武士の最後の食膳にのぼることが多かったのです。

ことからも、縁起の悪い魚とされ、 江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言の小肌にした。  

マグロは、別名で「「シビ」と言う。「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわからない武士にとって、この名は禁句であった。それゆえにマグロは下賤な食べ物として食べなかった。  

フグを武士は食べて毒に当たればお家断絶。武士が死ぬのは戦場であって、魚の毒などで死ぬのは武士にとってあるまじきことだったのだ。
そのため、武士のほとんどは、明治維新までフグの美味しさをしらなかったのである。
江戸中期から鰒をよく食べたのは「卑賎」と言われた庶民たちであり、その美味を体験していた。武士たちは頑健にも伝統的な食生活を墨守していたのである。

その頃は、鰒が一匹12文程度であり、安蕎麦一杯が16文であるのと比較すれば、いかに安価であるかが分かる。

 

21「江戸を食す」タイの味

 

比較的長い時間、タイの味がおちないのはなぜか?
魚、は一般的に、死んでまもなく死後硬直という状態をおこす。 
筋肉のなかで変化が起こり、糖分が乳酸になり、その乳酸がたんぱく質とついて、乳酸たんぱく質になり、これが堅くてコリコリしているため、ピンと張った状態になると考えられている。 
このピンと張った状態のときが魚の味は一番よいとされている。 タイやヒラメのような泳ぎ方もゆったりした運動の少ない魚は、硬直状態がゆっくり始まり、そして長くつづく。
その上、これらの魚は消化酸素の力が弱い。当然、自己消化の速度もゆっくりしていて、身がくずれるのがおそい。 
そのため、サバやカツオなどにくらべると、長く味が変わらず、もちもよいのである。 

 

20「江戸を食す」江戸前鮨の握りずし


江戸前鮨は10貫チャンチキです。
すしタネ名  味付け&供しかた
①中トロまぐろ ヅケ醤油に漬け込み
②中トロあぶり 二杯酢数滴・モミジおろし
③活イサキ   昆布〆・スダチ・岩塩
④シロキス   酢〆・アサツキ
⑤クルマエビ  甘酢漬け
⑥カスゴ   昆布〆・酢〆・オボロをかます
⑦白貝   煮はまぐり汁で漬け込み
⑧厚焼き玉子 白身魚+山芋
⑨鳥貝   甘酢漬け
⑩江戸前穴子 煮ツメ
かんぴょう巻    
別盛りに「いか印籠漬け」
江戸時代後期から昭和20年代頃まではどこのすし店では漬けておりましたが
お客様の生趣向が今日の「いか印籠漬け」をすし店から姿を消しまった
江戸前の寿司です。

 

19「江戸を食す」手間隙かかる光物


カスゴ(春(かす)小鯛(ごたい))&キス(シロギス)

「カスッコ」=「末っ子」とはタイの中で形が小さく幼魚なのでこうなぞられた?

キスは鱚と書く。色、味良しの魚、「喜」をあててめでたい魚とした?

と伝えられている。

ウロコが多く漬け場に飛び散り、仕事が結構やり難い仕込みである。

それだけに手間隙かけ、江戸流に酢で〆た光物の握りずしは応えられない旨さがある。

こんにちのお客様は特に若い方々は光物を敬遠するようであります。

他形態のすし店は扱わない傾向があるようです。

18「江戸を食す」すしの1貫とは

 

1、にぎりずしを、1カン、2カンと数える。
カンを貫と書くようだが、正式に決まっているわけではない。
そのいわれも諸説あって、正確にはわからないのです。
現在でも握り1ケを1貫と呼ぶ。
2、にぎりずしの形が小判に似ている。江戸時代貨幣の
単位で貫があったのだろうか?
すしの価値感(美味しさ、目新しさ等)が江戸の庶民に
受け入れられ、歌舞伎や芝居小屋での風刺劇にも取り
入れられ、大人気となった。
すしと江戸小判をダブられたはないか。
江戸の町民文化はこのような、ネーミングを付けるのが
流行のようだった。
3、当時の1人前盛りのすしの数のことでありますが。
 イ、当時の1人前は、握り5個、海苔巻2切れで、
これを5カン(貫の字を当てるべきであろうか)の
チャンチキ(祭りばやしの音にかけて太古の撥(ばち)が2本だから、
そのバチの意であろう)と呼ぶ。 
 ロ、今日のすし屋でもこの5カンのチャンチキは
よく使われている言葉である。
 ハ、このようにすしの用語は江戸文化の遺産である。
とにかく江戸時代の後期は江戸グルメの最盛期。おもしろい。

4、にぎり6貫、海苔巻き1本を4つきり(昔は3切り)計10個で一人前とも言う

17「江戸を食す」下処理


■下処理・味付けの方法

●コハダ・アジ・サバ・カスゴタイサヨリ・キス
塩締めの後、酢で締める

●サーモン・マス・タイラガイ
塩締めの後、三杯酢で締める

●タイ・ヒラメ・サワラ・カンパチ・スズキ・シマアジ・ヒラマサ
塩締めの後、黒板昆布で締める

●赤貝・ミル貝
塩水で洗った後、二杯酢をくぐらせる

●トリ貝
塩締めの後、甘酢にくぐらせる

●アオヤギ
湯引きの後、二杯酢をくぐらせる

●アナゴ
水炊きの後、煮汁で煮る

●ハマグリ・ホッキ貝・ホタテ貝

サッと茹で後、漬け込みする

●タコ
塩でもんだ後、煮汁で煮る

●トコブシ
塩水で洗って後、煮汁で煮る

●アワビ
塩をまわした後、煮汁で煮詰める

●ジルマイカ・イカ印籠
茹でた後、煮汁で味付け又は甘酢をくぐらせる

●クルマエビ
塩水で茹で後、甘酢をくぐらせる

●甘エビ
塩水で洗って後、甘酢にくぐらせる

●ボタンエビ
サッと湯通しの後、甘酢にくぐらせる 

16「江戸を食す」カスゴ

カスゴは光ものとして扱われております。チダイの幼魚である。
カスゴとは江戸での方言であり、地方により呼び名はいく通りもあります。
酢〆の中では品の良い魚とされている。

15「江戸を食す」ワサビ

 

良いワサビ
①緑色していてさわやかな香りと甘さがある
選び方
①キズや黒ずみがないもの
②頭部も先端も細くなく、円柱形に近いもの
③緑色が濃くみずみずしいもの
おろし方
①流水で洗い皮をむかない
②頭部すなわち茎の方がみずみずしいく新鮮なので
③「の」の字を書くように
保存方法
①1週間以上保存する時は表面の水分をふき取って密閉し(ラップ)冷蔵庫へ
参考文献「ワサビのすべて」
著者 静岡県立大学 木苗直秀・小嶋操・古郡三千代

 

14「江戸を食す」厚焼き玉子

 

  別記 カステラ風厚焼き玉子の作り方

注意事項

    白身魚は蒸し器で蒸しても良い。

    白身魚に塩をよくすりあわせる。(ミンチども可)

    卵は白身魚に全部一緒に加えないで、一個々割って加える。

    砂糖は最後に混ぜ合わせる。

    調整した材料は目方を測り一定の量を常に玉子焼鍋に流し込む。

    トロ火で焦がさないように。

    中心芯と外芯の火力調整が要注意。

    表面をムラの無いように焼くことが重要。

    焼き過ぎる(時間)とフワフワとやわらかく仕上がらない。

    玉子焼鍋は使い終わった後の管理が悪いと次回上手に焼けない。

 

13「江戸を食す」オボロ
今朝白身魚でオボロの仕込みをする
注意事項
①魚肉のさらし方が悪いと水分を取り除きが出来ない。
②脂気や生臭みかが残る。
③玉となるので十分注意する。
④玉をほぐす為に炒り過ぎると硬くなる。
⑤食紅をほんの少々で、溶く水加減は少量
⑥砂糖、塩で味をととのえる時に炒り具合によっては砂糖が固まってしまう。

 

12「江戸を食す刺身

 

斬目正しく紅白に盛る
 
江戸末期の嘉永年間(1850年代)の刺身について様子であるが江戸では祝

賀の時に鯛の刺身、普段は鮪や鰹の刺身を食べていた。

冬にはヒラメの刺身を食べ、ヒラメや鯛の白身の刺身と、鮪の赤身の刺身を皿

に盛り並べ、「作り合わせ」と称して、その色合いも楽しんだ。

江戸では魚肉を乱切りにせず斬り、斬目正しく紅白に盛り、正列に並べること。

鯛やヒラメには辛子味噌や山葵醤油を付けて食べ、鮪や鰹は大根おろし醤油を付け

て食べた。

添え物は、糸切大根、糸切うど、生紫海苔、生防風、姫たで、黄菊、おご、大根お

ろし等を添えた。現在と同じである。

 

11「江戸を食す」酢〆キス

 

縦に幾筋も切り込みをいれて、オボロをはさんで握る。

昔の仕事である「滝川」と言う。

10「江戸を食す」穴子の調理器具


穴子を煮るのに相性の良い鍋、落し蓋使い尽くされて、
もうお役ご免の代物。
穴子煮あげの主役は「ヒキザル」。
霜降り、水炊き、味付けと3工程の作業の為ヒキザルが不可欠。

 

9「江戸を食す」俳諧から200年前のすし屋の様子

 

●「与兵衛」が大正12年の大震災まではマグロのような下司魚
  を握らなかった。
そのマグロが今日常人の口に入りにくい。世の嗜好の変化は
  恐ろしいものだ。

◆鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は店に待って折詰
◆こみあいて待ちくたびれる与兵衛すし客ももろとも手を握りけり

● 酸くして呼ぶ、鮨売りの声。
  夕闇がしだいに迫って来る頃、吉原遊郭内の道々を鮨売りは、
「ぞめき客」(登楼する当てはない が、何となく廊内をそぞろ歩き
  している男たち)の間を縫うようにして売り歩く。

  ◆先々の時計となって小商い  
  ◆鯵のすふこはだのすふと賑やかさ
  ◆けちな鮨コハダの皮に飯を張り
  ◆妖術といふ身で握る鮨の飯
  ◆握られて出来て食い付く鮨の飯 
  ◆鮓見世 評判はよしののさくら鯛すしのされば買人もおしかけてくる


8「江戸を食す」穴子押しずし

 

押しずしは握りずしの原点。
押しずしは押してタネと舎利を馴じませている。
握りずは手のひらで馴じませる。
職人はシャリの型を作りながらシャリ玉の中は空洞にしてソフトタッチで握る。
だからタネに味(煮る、焼く、酢〆等)を漬けてないと馴じまない。
(生魚でも下処理してあれば良し)

7「江戸を食す」江戸前鮨とは

 

「すしの旨さとは、その熟れた味にある。すしの基本的味が熟成にあることは明らかである。
古代のすしの面影を残していると思われる近江のフナずし、岐阜のアユずしは、

重石によって熟成され、京都のサバずしは竹の皮とスダレで締めることにより、

大阪ずしは木箱でおすことによって熟成される。江戸前ずしは掌(てのひら)から伝わる温度と、

握るという押しによって,江戸前の握りずしは熟成されるのである・・・・・・・・。」

日本橋 吉野鮨本店 3代目吉野曻雄著より

 

「江戸を食す」酢

 

1804年に熟成させた酒粕だけを原料にして酒粕酢が出来た。
1810年頃、江戸前ずしは、この酢と出会ってはじめて隆盛の一途をたどる。
それまでは酢といえば米酢だけだった。昔の酢は杉の樽に入っていてコクあった。
米酢のように酪酸臭のない酢よりも江戸時代の強い香りのする酒粕酢の方が旨い。
酒粕酢での合わせ酢は熱すると匂いが確かに強い香りがする。
シャリに少しぐら色がついたリバイバル粕酢使用の「すし」を当店でご賞味下さい。

   

5「江戸を食す」ボテ振り

 

行商・辻売り
 武士は伝統的な食事を厳守 
 当時の身分の高い武士階級や裕福な商家の人たちは、決して外食をしなかった。
 外出の際には弁当を持参し、あまり長くない外出では帰宅してから昼食を摂るのが通例である。
 食い物屋に入って物を食べたり、行商人から食物を購入したりすることは、
 下賎の者が行なうことであると信じきっていたのである。
 特に女性は一生、外食などは無縁であった。
  
 ◆先々の時計となって小商い
当時の売食産業は零細な「ボテ振り」 
 経済的にもギリギリで、その日その日を暮らしている。
 長屋住まいの庶民達は、安価で滋養のある食品を求めていた。
 その需要に応じたのは「ボテ振り」と俗称された行商である。
 町々を経巡り、長屋の中まで入り込んで、庶民の生活の必需品を、天秤棒で担って売り歩いた。 
 毎日、同じ時刻に々町並みに来る行商もあり、住人からは「ああ、豆腐売りが来たから、
 六つ半だななどと、時計の代わりになるのである。

4「江戸を食す」握り鮨


江戸時代は珍しい物を句にするのは、川柳の独断場である。
  ◆先々の時計となって小商い  
  ◆鯵のすふこはだのすふと賑やかさ
  ◆けちな鮨コハダの皮に飯を張り
  ◆握られて出来て食い付く鮨の飯 
  ◆鮓見世 評判はよしののさくら鯛すしの されば買人もおしかけてくる
  ◆妖術といふ身で握る鮨の飯 
  これは江戸の握り鮨を詠んだ最初の句である。
妖術使いが左手の掌(手のひら)に右手の指を二本包み込んで握り、呪文を唱える印形と、鮨職人がシャリを左手の掌に握り、その上にタネを乗せて、右手二本で抑えるように握る形状の類似性を目新しく、珍奇さを句にしたのである。
文政年間(180年前)のコハダ、アジ一個4文(80円位)で安価なものであった。寺社のお賽銭が12文(240円位)であるから当時の鮨は低廉であったかが判る。

3「を食す」茹でイカ

 

茹イカはスルメイカ(呼称ジルマ)が一番旨い。
最近のお客は柔らかいアカイカ(バカイカ)の方を好むようだ。
アカイカは身肉がしまり(歯応え)がない。
ジルマイカを切りつけた後、甘酢漬けにて供してみよう。
適度の堅さ(歯応え)が「すし通」には応えられない旨さである。 

2江戸を食す」光ものすし

 

最近は季節感が崩れている。
光物と言えば9月〜2月までコハダ。3月〜4月サヨリ。初夏の5月〜6月はキス。
真夏の7月〜8月はアジ。
しかし一年中魚市場にコハダがあるからすし屋は仕入れする。アジも同様である。
夏にコハダを漬けるすし店は昔は無かった。勿論魚市場にも無かった。
夏場の光ダネはアジが最高に美味しい。
旬の魚は安くて美味しい。現在アジの酢〆するすし店は少なくなった。
昔のように甘味のオボロをかませるすし屋があってもいいのではないか。
(現在酢のきき過ぎたアジはオボロをからめると良い)
アジのゼンゴは必ず包丁をいれ身をつけずにそぎ取っていく技術は今は必要としない。
それは全てアジは生で握るのが主流なので皮をむくもとなっているからゼンゴを

そぎとる必要が無いからである。
これも時代のニーズであろうか?。


1 「江戸を食す」カツオを下魚扱い

 

元来すしダネにならない魚として江戸時代から私たちが修行時代(昭和

40年ころ)まで扱わなかった。
何故だったのだろうか?
 江戸っ子好み魚。初カツオを一尾2両(15万円〜20万円)でも買ったのにすしダネに用いなかったのは不思議であった。
 握りすしが創案された当時は、魚介類は全て塩で〆て、酢、醤油にくぐらせていたので、カツオは変色が早いので無理してすしダネにする必要がなかった。
まぐろと似たカツオは下魚であったからである。 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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