ホーム  店舗紹介  お品書き  すしの事典        

 

                                       予約・問い合わせ  リンク      アクセス  

 ■ すしの学会

江戸前鮨の定義

一方では江戸前ずしが再評価されております。
江戸前の鮨は旬の材料を下処理し、『煎る』『焼く』『煮る』『酢〆』『漬ける』『昆布〆』等昔ながらの方法で、手間、暇をかけた仕事をして、シャリと馴じませてこそ『鮨』になります。
 ご存知の通り鮨は日本食料理です。一人前の寿司には和食の基本が盛り込みされています。全ての寿司には違った味があり、[江戸前鮨]とは味、色彩、季節等を楽しめるのです。一人前の
 すしの旨さとは、その熟れた味にある。すしの基本的味が熟成にあることは明らかである。
古代のすしの面影を残していると思われる近江のフナずし、岐阜のアユずしは、重石によっ
て熟成され、京都のサバずしは竹の皮とスダレで締めることにより、大阪ずしは木箱でおす
ことによって熟成される。江戸前ずしは掌(てのひら)から伝わる温度と、握るという押しによ
って,江戸前の握りずしは熟成されるのではないだろうか・・・・・・・・。
  

 

 

江戸を食す」ちらしずしの定義

「按ずるに鮨はもと一旦漬けておいて食うべきなるべし・・・・」とすしの本にはある。

「すしとはすべて馴れた味覚の育成を基本として、その製法がなされるべきであり、

単に鮨飯のうえに具(飯のうえに並べるタネを昔は「 ( うわ ) ぶき」といった)

をならべるだけの現在のようなちらしに対して、すしか否かの論がでてくるのは当然

ともいえる・・・・。」

「上方ではまぜずしを起こしずし・すくいずしと言い、江戸ではごもくずしと言う・・・・」

江戸では「ごもくずし」をまぜずし(混ぜずし・交鮓)とも呼んでいた。

現在は関西方面はちらしを「ばらずし」と呼んでいる。江戸のまぜずし対しての呼び名。

「ごもく」はその具に生臭を使用しない、すなわち精進ごもくのことであり、

生臭を使用してもよいのが「ちらし」だと、江戸老すし職人は解説している。

静岡ちらしの原点は江戸時代の長門鮓 にある。

長門鮓 は「ごもく」に漬けた魚類を「 ( うわ ) ぶき」したのであるから「まぜずし」即ち

「ごもくずし」が正しいのか?

静岡県すし組合の商標登録「静岡ちらし」はこの説から言うと「ばらずし」なのか?

方言的に関東が「五目すし」、関西が「ばらずし」といった方がいいかもしれない。

   

 

 

「江戸を食す」赤貝の仕込み

  1. 殻からむきぼうでとりだす。

  2. 身・ヒモ・ワタにわける。

  3. フリザルに入れて、この中に塩を入れて、まな板を斜めにして、
    その上で赤貝独特の血とヌメリがあるので、これを取り除く為にフリザルを振ります。

  4. アクと血が全て流されるまで水をかけて洗わないこと。
    赤貝の色と香がなくなるからです。

  5. アクと血がなくなったところでサッと水をかけ手早くきれい

  6. ヒモはつけ根の半分のところに切れ目を入れる

  7. 身はふちに包丁で切れ目を入れる

  8. 包丁の刃もとで身に細かい切れ目を入れる

  9. まな板にたたきつけて身を締めた後に握る

10.  身とひもは二杯酢にくくらせる

  1. レモンを数滴かけて握ります

  2. 秋から春にかけてが食べ頃です。

  3. 中国産はいけません国産に限ります。

  4. 血のある貝は傷みやすいので鮮度が重要なポイントです

  5. フルザル入り赤貝(振り塩が多くて塩気が強く過ぎないように

 

 

「江戸を食す」シャリ用酢

■魚竹寿しのシャリ用酢
酒粕酢(江戸前赤鮓 )と米鮓 のブレンドに
塩と砂糖を加えたのが合わせ酢です。
3年以上熟成させた吟醸酒粕を使用し、
伝統的な木桶作りのお酢をベースに
米酢をブレンドしたすし専用のシャリ酢です。
重厚でコクのあるシャリに仕上がります。
赤酢を使用しておりますので、
色がついたシャリとなります

 

 

 

 

「江戸を食す」昔の仕事 白魚

ツユの作り方
イ、みりんをうすめて、そこに白砂糖を少し加えたうす味のツユを作る
ロ、それで煮る

白煮の方法
イ、平らな鍋に先のツユを煮たてそこに塩で洗った白魚を一本づつ
  ならべて蒸しぶたをして弱火でさっと火を通す。
ロ、このときならべた白魚の上に、アミなどをのせてまっすぐ煮あがる
  ようにする。
ハ、火が通ったら手ザルにあげてあおいで冷ます。
  一本ずつはなしておく。
ニ、生煮えはいたみやすいので注意。
ホ、握るときは5〜6本ずつ頭をそろえてよせ、すしに握る。
ヘ、これを煮たかんぴょうを細く細かく切ったもので1本ずつ結んだ
  ものである。

 

「江戸を食す」白魚の握り


薄い鍋に落し蓋をして酒と白砂糖と塩で味付けて煮る
 

盆笊にあける 

わさびもつけない 

これを手のひらの上に乗せて握る 

白魚だけで握る腕さえあれば一人前・・・・と 浅草弁天山「美家古寿司」語録 

江戸時代は佃村の漁師が漁業権をもらって四手網で家康の江戸城に収めた 

その余りをすし屋が握った

 

 

「江戸を食す」魚竹寿しのシャリ用酢 

酒粕酢(江戸前赤鮓 )と米鮓 のブレンドに塩と砂糖を加えたのが合わせ酢である。

 3年以上熟成させた吟醸酒粕を使用し、伝統的な木桶作りのお酢をベースに

米酢をブレンドしたすし専用のシャリ酢です。重厚でコクのあるシャリに仕上がります。

赤酢を使用しておりますので、色が付いたシャリとなります

 

 

「江戸を食す」お盆の供え物 助六

飲食(おんじき)

毎日家族が食べるものと同じものを食前にお供えする

霊供膳(りょうぐぜん)

仏前と故人の命日や法事のときにお供えする

霊供膳は精進料理ですから、魚や肉などの生臭いものは避けます。

そこで当店の名物「助六寿司」をお勧めいたします。

助六は、いなりずしと巻きずしのセットのことです。

名前の由来

歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の主人公助六の名前に由来。

助六の恋人のおいらんの名前が「揚巻」(あげまき)なので、

「揚」が油揚げで「いなりずし」です。「巻」が巻きずし「のり巻き」

と言う事このセットを助六寿司と呼びます。

                      ブログより

 

 

「江戸を食す」川越人足

慶長12年(1607))徳川家康が府中(静岡市)の市街地を分断して流れていた

安倍川をひとつにまとめて、町の西側に迂回させ現在の位置に安倍川を築いた。

安倍川は、川越人足に渡してもらわなくてはならない川で、水深1.5Mを超えると川留め

となった。

人足の中には悪人足と義人足がいたという。

静岡市駿河区南安倍町の曾祖父の父は評判の人物で、性格は謹厳実直、体も大きかった。

大政奉還後隠棲した15代将軍徳川慶喜を肩車に乗せて川を渡ったと祖母は自慢話を語ってく

れました。

その後、明治7年に個人が独力で架けた木橋の賃取橋「安水橋」が完成。

大正12年に県内の国道1号に架かる4大河川(安倍川・富士川・天竜川・大井川)

の永久橋のひとつとして最初に完成したのが延長490.80mの英国から輸入した鋼材を使用し

た安倍川橋である。

 

 

 

「江戸を食す」湯ぶりと霜ふり 

摂氏60度から70度ぐらい熱いと感じる程度の湯をかけるのを「湯ぶり」という。 

湯ぶりは少し古い魚、例えばタイ、ヒラメ、スズキといったものでもこれをすると 

色艶も格段と良くなり身もしまって味も上がる。 

霜ふりは同じ方法だが、これは古くなった魚、マグロ、カツオ、サバといった 

類の香の臭いを抜く為に用いられる。

                             すしの雑誌より掲載

 

「江戸を食す」ショウガ 

すし屋の符諜では「ガリ」という。 

手酢・ワサビ・ハラン等と並んで抗菌力のあるすしには無くてはならない必需品です。

ガリの製法

以前はショウガの外側の皮をむいて薄く下したものに、 

摂氏60度から70度ぐらい熱いと感じる程度の湯をかけるのを「湯ぶり」という。 

そしてすぐに冷水にくぐらせて、アクを抜く。 

こうすると臭い色は消えて色を美しくして舌ざわりを和らげる特色がある。 

湯ぶりすませてから、酢2、砂糖1 塩少々の甘酢に漬ける。

                        すしの雑誌より掲載

 

「江戸を食す」茹で海老

 沸騰させた鍋に塩を入れてからクルマエビを入れます。

氷水に落とし、海老を開き、水洗いして、ザルに振り塩して、海老を並べます。

そして、海老に振り塩します。

5分〜10分そのままにしてから水洗いして、容器に並べて水切りします。

冷たい甘酢(水も入れる)にくぐらせてから、握ります。

塩と甘酢の梅塩で一段と旨みが加味されます。

 

 

「江戸を食す」下町の屋台のすし屋

下町の屋台のすし屋は、同じ町内の住人が顧客で顔見知り。

屋台店での商売は小資本で始めることが可能だった。

若いすし調理師にとっては登竜門だった

 

「江戸を食す」鮨を数える単位を「貫(カン)」と呼びますが、なぜこの字か

なぜこの字が当てられるのかについていくつかの説があって、そのひとつに「銭さし一貫」が語源であるというものがあります。江戸時代、穴あき銭96枚の穴にひもを通してまとめたものを「銭さし百文」と呼び、本来は96文なのに100文として通用したそうです。そしてこの「銭さし百文」を10個まとめて輪にしたもの、つまり960文が「銭さし一貫」(1000文)として通用していました。この「銭さし一貫」の重さは約3.6キロ「銭さし百文」の重さは360グラムほどあるのですが、この360グラムというのが当時の鮨ひとつの重量とほぼ同じくらいであったことから、小さいものを誇張する江戸っ子の洒落で「一貫鮨」と呼ばれ「貫」という単位の由来となったというのです。

 まあ、鮨一個が360グラムというのはどう考えても大きすぎるとは思いますが、いずれにしても江戸時代の鮨というのは想像以上に大きいものだったようです。
それが時を経て洗練されたとしても、明治の頃の握りはかなり大きかったと推察できます。

   参考文献 日本一江戸前鮨がわかる本  早川光著

 

 

 

江戸を食す」〆鯖マイルド 砂糖と塩の〆方       

〆サバの場合 マイルドな〆の方法

 ①手のひらに砂糖をのせ、サバに軽くまぶせる(塗るというイメージ)又はザルでふる。 

  ②冷蔵庫に40分置く。

  注):砂糖を流水で砂糖出ししない。 

 ③サバを布巾で水分をふき取る 

  ④今度はそのサバを砂糖と同量の塩をサバにまぶせる又はザルでふる。 

 ⑤冷蔵庫に60分置く 

 ⑥もちろん塩出しはしない。 

 ⑦サバを布巾で水分をふき取る(但し水で流し落と事でも可) 

  ⑧ 酢に20分漬ける。 

 ⑨酢を盆ざるに並べて、10分後に布巾で酢の水分をふき取る。

 ⑩昆布〆8時間

 〆の時間

魚の種類

砂糖(分)

塩(分)

酢(分)

昆布(時間)

サバ

40

60

20

8

アジ

15

25

10

4

コハダ

20

30

15

4

ヒラメ

20

30

 

24

カンパチ

30

45

 

24

 注):砂糖とトレハロースの混合でも可能

 

江戸を食す」サバの塩〆漬け方

旬は9月から10月にかけて、脂がたっぷりのり、身がひときわ太くなってくる。

今日のマサバは淡路島からの入荷である。身体には厚みがあり丸い体系で久しぶりに大きいマサバである。

鮮度の落ちも早いので酢〆にすることがほとんどである

サバは身割れしやすいので気をつけて3枚おろしをする。腹骨のつけ根に包丁目を入れると塩や酢がサバに回りやすい。

ザルにたっぷりと上下に塩を敷き詰め1時間〜1時間30分位どぶ漬けする。

その後、塩を洗い流し、水分サラシでふき取る。皮目を下にして漬けること15分

その後身を返して皮目を上に向けて15分漬ける。30分経ったら酢の回り具合を中骨の有る部分で確認する。

ザルを斜めにして酢を切る。サラシ&保鮮ペーパーで酢をふき取る。骨抜きをする。

 

 

「江戸を食す」ホッキ貝

産地

 主として東北・北海道。千葉より北の浅瀬に育つから北寄貝と書く。

 淡水の入り込まない内湾の砂地に育つ。

 夏が禁漁期になるほかは、一年中を通して入手出来る。

 特に冬から春にかけて味がよい。

湯霜

 ①生のままだと。先端が黒っぽい色をしているが、これを、ちょっと湯ぶりに

  すると、きれいな紅色がかった紫色にかわる。

 ②ひらいて、ワタをだしたホッキ貝を目ザルに入れて、沸騰している湯の中

  で、2〜3回ふる。

 ③色が少しうす紅色を帯びてきたところで湯から引き揚げ冷ます。

 ④しばらくすると、きれいな紅色がでてくる。

煮ホッキ貝の仕込み

 ①さっと煮て味付けをして使用。

 ②味付けははまぐりの味付けと同様。

 ③柱、ヒモも同様。

 

 

「江戸を食す」お茶  

 寿司の材料にはのり、すし米、わさび、しょうが、お茶がある

すし屋のお茶汲みは三年修行しなくてはいけないと昔から言われてきている。

親方が「あがりだよ」と、云いつけるときは、お客さまの、すしたべるのが終わりだよ」
と云う合言葉である。「お客さま、お帰りだよ」「もう、たべるのは済んだ」になる。

お変わりの二杯目のお茶を持参いたせの意味にもなる。

知識

1、            すしの肴のあぶらというものは舌先に必ず残る。そこで次の味覚を得るのに、濃くて熱い茶をすこしづつ飲んで消そうというのである。
舌先にあぶら気が残る、それを消す茶も熱いのが必要のために湯のみ茶碗は大きくて厚く、熱いのが手に持っても外に伝わってこないので、二重の用を足している。

2、            お茶は熱くてなくてはいけない。店によって気取って薄手の茶碗を使って熱くて手がつけられない。これはすし屋としては失格である。

3、            鼻で香りをかいただけで静岡の茶所の老主人はこの茶の木のあった近くに梅の木がある、桜の木がある、と臭覚の発達ですぐ判ると云っている。茶は敏感に移り香を吸収するものだそうだ。

4、            むかし江戸城にお茶汲坊主という、大名などにお茶を接待する役の男は、みんな頭をそって坊主頭であった。茶男だけが坊主頭かと云うと、茶というものは脂気を嫌う。
茶汲男がまげ(びんづけ油)を結っているとちょいと、指が頭の毛にふれる、それを知らぬまま茶器をいじる、そうすると汲んだ茶に脂気がうつるということになる。
だからお茶汲男は坊主頭にしているのである。

5、            すし屋のお茶は、色と香と味の三つが揃わねばならない。お茶自身から出るなんとも云えぬ甘味が、すしの味をを傷をつけるものである。

6、            それほど茶というものは、味に関連が深い。そこですし屋ではクセのないものを使うのが一番安全いうことから静岡地方のお茶で、粉茶を多く使う。粉茶は葉茶より早く、茶自身の香と渋みを出すからである。

7、            すし屋のお茶汲みは三年修行しなくてはいけないと云うほどに、むずかしいもである。

                    参考文献「すし物語」宮尾しげお著

 

 

「江戸を食す」蛤(ハマグリ)と価格

l                      昭和34年江戸(東京)の某すし店の価格

はまぐり・こはだ・げそ・青やぎ・平貝・鳥貝・さば  各20円

しゃこ・ひらめ・かんぱち・もんこういか・赤身まぐろ 各30円

たい・赤貝                     各40円

とろまぐろ・かっぱ巻・あわび            各50円

鉄火巻                       各60円

その他                       時価

ちなみに当時新卒者の月給は7,000円〜11,000円

l                      この頃より10円寿司が栄えてきた
高級店の最低価格は50円であった

l                      現在のはまぐり価格は30倍強の700円である

l                      江戸湾(東京湾)はご存知の通り四つの主要河川が流入しており淡水の影響は大きい
江戸前の魚貝が美味であるのはこのおかげである

l                      漁場は三つに分けられる
第一は潮干狩りで親しまれて千葉県富津から羽田・神奈川県沖
この漁場では、はまぐり・あさり・ばかがい(青やぎ)等の二枚貝
そしてアナゴ・すずき・このしろが大量に採れた。
しかしながら今ははまぐりの価格は消費者泣かせである

アナゴについてはウナギと違い全て天然で当店はこの漁場から安定価格で仕入れできております
 

 

 

 

「江戸を食す」鳥貝

産地東北から東海、九州と南の方に多い。
本日の仕入れは、伊勢湾で水揚げされた活鳥貝です
むき身もこの時期多く入荷され、良く出回っております
選ぶときは、身の厚いもの
旬は4月〜6月頃(春と秋に産卵する)
扱い方トリ貝のむき方は大変難しい
表面の黒いものをとばさないように、丁寧に扱うこと
色が飛ばないように、網の杓子に鳥貝をのせ、
 熱湯に酢を入れさっとくぐらせる
タネには足の部分が使われる
甘みがあり、独特の歯ごたえが好まれています
昔は貝の先端を切って用いた
活鳥貝はどっしりと重みがあるものを選ぶこと

 

 

 

 「江戸を食す」サヨリ

サヨリは春のタネとしてはカスゴと同様に代表的な光ものです。

3月頃が旬です。5月〜6月は産卵を迎えるので身しょうが柔らかになる。

今日の(4月初旬)サヨリはまだ肉質が締まっており、江戸湾内房産(千葉県)です。

職人は淡々と日々の仕込をしているので、サヨリも決められた手順で仕込みします

1、腹開き

2、腹の内膜が黒く匂いがあるのでこすり取り流水で洗う

3、背骨は他の魚と違い、三角形に角張っているので、

  この角度に沿って背側の身に包丁を入れる

  最初の頃は誰も苦戦する包丁使いである

4、均等に振り塩にする

5、流水で塩を洗う

6、良く水分をふき取って小骨を抜く

7、身と身を重ねないで皮目と皮目を折り込んで保管する

8、握るときは淡白なタネですのでオボロをかませます。
  
  又はショウガとアサツキを添えても違った風味で美味しいです

 

 

江戸を食す」ウナギとアナゴの違い

ウナギとアナゴ(マアナゴ)はどちらもウナギ目に属していますが、ウナギはウナギ科、アナゴはアナゴ科の魚です。

どちらも細長く円筒形で、体長は1m程度ですが、

アナゴには側線(体の両側に線状に並んでいる感覚器)の各孔に白色点があり、

背びれの下にも白色点が1列に並んでいるのが特徴です。
また、頭部にも白色点がみられます。
ウナギは淡水域に生息していますが、成熟した親は産卵のために海へくだります。
一方、アナゴは海に生息しており、海で一生を過ごします。
また、食品としてみた場合の違いは、アナゴの脂質含有量はウナギの半分程度であることです。

(参考資料:「原色魚類大図鑑」北隆館) より。

 

 

 

江戸を食す」天然真鯛

白身魚の代表格はマダイです。

最近は比較的手頃の養殖真鯛が出回っておりますが、天然は尾ヒレはピンととがっております。

天然真鯛と養殖真鯛の見分け方。

1、天然真鯛は目の上に(画像)アイシャドウをぬった鮮やかな青色がさしてある。

  更に美しくなろうとするのか?

  体にも青色の斑点がある。

  昆布〆にすると3日目から美味しくなる。

2、養殖真鯛は比較的脂分が多く、肉質は柔らかめ、その日に使うなら違いは判りにくい。

  1日たつと身が熟成して更に柔らかなり、日持ちがしにくくなる

 

 

魚偏の読み方 

 

あざ(やか)

あさり

あじ

あめのうお

あゆ

あわび

ふぐ

いか

いさぎ

いさぎ

いさぎ

いるか

いわし

いわし

いわな

うぐい

うなぎ

うろこ

えい

えそ

えび

えび

えら

えり

かじか

どじょう

かずのこ

かつお

かます

からすみ

かれい

かれい

かわはぎ

きょう

くじら

くじら

こい

こち

このしろ

このしろ

ごまめ

ごまめ

ごり

さけ

さけ

さけ

さば

さば

さめ

さより

さわら

しいら

しゃち

しゃちほこ

しらうお

すけとうだら

すし

すし

すずき

すばしり

するめ

せいご

たい

たい

たかべ

たこ

たこ

たちうお

たなご

たなご

たなご

たら

たら

ちちかぶり

ちょうざめ

つ(る)

つくら

どじょう

どじょう

とど

なます

なます

なまず

なまず

にしん

にしん

にべ

のぎ

はす

はたはた

はたはた

はまち

はも

はや

はや

はや,はえ

はらか

ひがい

ひしこ

ひらめ

ひれ

ふえ

ふか

ふぐ

ふぐ

ふな

ぶり

ぼら

ぼら,いな

まぐろ

ます

ます

まて,こち

まながつお

むつ

むつ

むろあじ

やもお

やもお

わかさぎ

わに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あざ(やか)

あさり

あじ

あめのうお

あゆ

あわび

ふぐ

いか

いさぎ

いさぎ

いさぎ

いるか

いわし

いわし

いわな

うぐい

うなぎ

うろこ

えい

えそ

えび

えび

えら

えり

かじか

どじょう

かずのこ

かつお

かます

からすみ

かれい

かれい

かわはぎ

きょう

くじら

くじら

こい

こち

このしろ

このしろ

ごまめ

ごまめ

ごり

さけ

さけ

さけ

さば

さば

さめ

さより

さわら

しいら

しゃち

しゃちほこ

しらうお

すけとうだら

すし

すし

すずき

すばしり

するめ

せいご

たい

たい

たかべ

たこ

たこ

たちうお

たなご

たなご

たなご

たら

たら

ちちかぶり

ちょうざめ

つ(る)

つくら

どじょう

どじょう

とど

なます

なます

なまず

なまず

にしん

にしん

にべ

のぎ

はす

はたはた

はたはた

はまち

はも

はや

はや

はや,はえ

はらか

ひがい

ひしこ

ひらめ

ひれ

ふえ

ふか

ふぐ

ふぐ

ふな

ぶり

ぼら

ぼら,いな

まぐろ

ます

ます

まて,こち

まながつお

むつ

むつ

むろあじ

やもお

やもお

わかさぎ

わに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「江戸を食す」江戸時代のマグロは下魚

天保の末(西暦1842年)にマグロの大漁があって、そのころまではマグロは魚の中では上等のも

のとして扱われていなかったので、そのマグロの処置に困って捨てようにも場所がなかった。

そのとき日本橋馬喰町の恵比寿鮨が試みにマグロをタネに使ったところ、江戸ッ子の気風にあって流

した。

馬喰町というところは、名のごとく馬喰が大勢いた土地であり、馬喰がいなくなってからは、

地方人相手の宿屋が多かったので、諸物の安いものが歓迎され多く売れたため、安しいすしとして恵

比寿鮨の主人が売り出したものであろう。

この時代は冷蔵庫の設備がないので鮪の色が変わるので、切りつけしてから醤油の中につけて、亀甲

色にして用いたので、鮪のことをヅケ(漬けるの略)という名が出た。

当時、上流家庭に納める鮨には鮪を用いない。御膳ずしと看板をだした店は鮪に代わってタイ、ヒラ

メの白身の魚を用いている。

 注)馬喰とは牛を鑑定・見極めて市場へ売りに行く牛の鑑定人、仲買人のこと
 

 注)江戸の魚河岸は日本橋

 元禄期(1688〜 )には日本橋魚市場(後に築地に開設)は活況呈していた。

  昼の芝居小屋が集まった芝居町(現在の浅草六丁目付近)、夜の吉原(現在の日本橋人形町)と並

  んで「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。

注)江戸時代は、別名で「「シビ」と言う。「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわから

  ない武士にとって、この名は禁句であった。それゆえにマグロは下賤な食べ物として食べなかった。

                      すし物語 宮尾しげを著より

 

 

 

「江戸を食す」すしのタネの変遷 

江戸前のにぎりずしには現在どんな材料が使われているかというと、

上戸 ( じょうご ) (酒に強い人や酒飲みの人をさしていう)

下戸 ( げこ ) (酒に弱い人をさしていう)の別なく喜ばれるというのは、それは山のわさびから、

海のアワビにいたるまで文字通り山海の珍味をもうらしているからであって、

味も淡白なものから濃厚なものまで色とりどりで、材料が不思議なほどすし飯に調和する。

材料の作り方も一方的に偏するようなことなく、千差万別というところが誰にも好かれるのであろう。

時代と共に材料は移り変わっていった。

奈良時代(西暦700年〜800年)

 すしの始まったころの馴れずし時代は主として、アユ フナ コイ ナマズマス等の川魚が

 使われていた。

  ( ふぐ ) ( すし ) 、鯉鮓 、 胎貝鮓 ( たいかいすし ) の名が大宝令の中に名が出ている。

平安〜鎌倉時代(西暦800年〜1330年代)

 延喜式には鯛春鮓  鮒鮓  胎貝鮓  保夜 ( ほや ) 貝鮓 ( がいすし ) 雑魚 ( ざこ ) ( すし ) が諸国から

 朝廷に献上されている。

 鹿 猪  雉子 ( きじ ) などの鮓もあったと記されている。

室町時代(西暦1400〜1600年代)

 押し鮓 棒鮓 姿鮓の時代になると、鯵 小鯛 このしろ 鯖が使われている。

 徳川時代(西暦1679年代〜)

玉子焼 鮑 小鯛 こはだ 海老 白魚 穴子が使われていた  

昭和時代(西暦1936年代〜)

 生海老 生あわび 生いかが握りに使用していた

  

                               すし物語 宮尾しげお著 文献より 

 

 

 

「江戸を食す」恵方巻

「江戸を食す」節分と巻きずし

恵方巻は当時沢庵を巻いていたとは?

 四十四年の節分の日、日本風俗史学会食物史分科会の月次例会の席上、大阪市立博物館の平山敏治郎館長から「ここに来る途中、阿部野橋のすし屋の表に本日巻きずしありという広告を見たが、何のことか知らん」という質問があり、美登利鮓の久保登一氏の返事に、節分に巻きずしを食べる風習は大正の初めにはすでにあった。おもに花街で行われ、ちょうど新こうこうがつかる時期なので、その香の物を芯に巻いたノリ巻きを、切らずに全のまま、恵方のほうに向いて食べる由。老浪華人の塩路吉兆老も今日まで知らなんだ、と言われる。もちろん私も初耳だ。普通の町家ではあまりやらないようだ。全国ではどうであろうか。

篠田統『すしの本』昭和45年6月30日初版より

注)こうこうとは「香の物」の「香」を重ねたもので、この時期の香の物は沢庵漬けをさす

 

 

「江戸を食す」すしの行商

すし売りは江戸ではイナセな代表とされていた。
昼間は右手を下げているが、夜になると提灯をもって、
美しく澄みきった声で「すしやァ こはだのゥすゥしィ」
と呼んで売り歩いたのである。行商人は右手をあけているのが特徴となっている。

中心をとるためと、手の置き場を容易にする為に、一番下の箱を一枚突き出している実益の担ぎ方である。すしを入れた箱は布の紐で結んでいた。

右側に手拭を頭にのせ、
すしを入れた箱
を担いだ男が見える、
これがすし売り人。
図にある町は日本橋通り 今の八重洲口通りである

 

「すしやァ こはだのゥすゥしィ」と呼んで売り歩いた。右手にはお茶入れたやかんを提げている古くは右手をあけたが、明治時代になると必ず左手あけていようです

岡持ちに「いなりずし」入れて、右手で支え、わずかに左肩にのせる売り子もあった。
天保ころまでは白足袋を用いていたが、慶応のころからは紺足袋をはくようになった。

 

 

 

 

「江戸を食す」徳川将軍のタブーの食物

1回世界すし博覧会in静岡の時徳川記念財団徳川恒考理事長(徳川宗家18代当主)が講演

された。その中で、歴代将軍の食膳にはタブーとして供されない食物が色々あった。もちろん「すし」は食べたという記録は見当たらなかったと話されておりました。

 12代家慶の場合の食事

将軍家の料理は、京都御所にならって室町以来の流派の料理人によって供されていた。

 ●朝食は二汁三菜

 一の膳は汁(味噌汁)と「向うづけ」(刺身叉は酢の物)「平」(煮物)

二の膳は吸物と「皿」(きすの焼き物)

 ●昼食と夕食は一汁五菜

汁(しじみ)と

 「平」(煮物)こちの切身、長芋、ぜんまい

 「置合」(口取り)寒天、栗、ぎせい豆腐、金糸昆布

 「焼き物」鯛

 「お外のもの」海老

 「お壷」蒸玉子

*金糸昆布とは、昆布の芯だけを取って、細く刻んだ金糸のような昆布。

*ぎせい豆腐(擬製)とは、水分を切った豆腐と野菜やキノコを混ぜ、

 溶きほぐした卵と合わせて型に流し込み、蒸したり焼いたりする料理。


将軍の食事(用いなかった食材)

・野菜では、ネギ、ニラ、らっきょう、つくね芋、いんげん、さやえんどう等

・海藻では、わかめ、ひじき、あらめ

・魚では、このしろ、さんま、いわし、まぐろ、さめ、ふぐ、あいなめ、むつ、

 あかえい、いな、ナマズ、どじょう、ふな。干物類

・貝では、かき、あさり、赤貝

・肉では、鶴、雁、鴨、うさぎ以外のすべて

・果物では、水瓜(すいか)、瓜、桃、りんご、すもも、はただ見るだけで食べず

梨、柿、蜜柑の類だけは食べた

 

 料理としては、天ぷら、油揚げ、納豆の類は供さなかった 

一般の武家でも食べないものがいくつかあった。

 すしタネとして現在も扱っている、「このしろ」「まぐろ」「ふぐ」等である。

     このしろは「この城」を食う、に通じ、また切腹を命じられた者に最後に出される

  ものであるところから忌み嫌われた。

     まぐろは昔は「しび」と呼ばれ(現在でも静岡県では使う呼び名)ており、

 『慶長見聞録』(1614年)「しびと呼ぶ声のひびき死日と聞こえて不吉なり」

  という理由。

     ふぐは危険が多いためで、戦場で死ぬべき武士が、ふぐ毒にあたって死んだら

  不名誉であり、お家断絶となる。

『江戸が和食をつくった』渡辺善次郎著より   

 

「江戸を食す」すし変遷史          

 

西暦

年号

鮓の変遷

715

806

奈良時代

熟れずし=ホンナレ

(ミサゴすし)

ミサゴが魚をくわえて残飯にそれで発酵。
(滋賀県フナずし=ニゴロブナ)
1年くらい漬け込んだもので、ご飯は食べずフナだけ食べる

養老律令(718年)

「鮨は鮓のことなり」の記事わが国で一番古いすしの文献

806

1190

 

 

平安時代

 

 

 

 

 

熟れずし=ナマナレ

(岐阜県アユすし)
(奈良県アユの釣瓶ずし) 

延喜式(930年)
自然発酵玄米をアユ・フナの腹に入れて熟成。

土佐日記(936年)

海岸(アワビすし)

山奥(イノシシすし)

1190

1329

鎌倉時代

熟れずし=ナマナレ

 (福井県アワビすし=鰒)

(愛知県い貝ずし)

平安時代と同じで変化がない
アユ・フナを熟成。

生成

10日くらいで食べられ、素材はアユ・フナ・ナマズ・コイなどの川魚が中心でした。

1394

1573

室町時代

生成(兵庫ツナシずし)

(和歌山サバ熟れずし)
蜷川 ( にながわ ) 親元 ( ちかもと ) 日記 ( にっき ) 1473年)

(吉野釣瓶ずし)

書言字考節用集(1496年)

(宇治丸=うなぎすし)

御湯殿の上の日記(1474年

姿ずし・棒ずし

(京都サバずし)

(大阪小鯛の雀ずし)

1575

1600

 

安土・桃山

飯ずし(和歌山コケラずし)
(大阪箱ずし)

いずし(秋田県ハタハタずし)

(石川県カブラずし)

いずしは北海道〜東北地方の名称

御湯殿の上の日記(14771826年

1600

慶長05年

早ずし

生成が早ずし(10日間)

(栃木県アユの姿すし)

1603

慶長08年

飯ずし

(愛知県木曽川アユずし)

1615

元和01年

生成

長良川献上鮎鮨)

1624

寛永01年

生成

(大阪小鯛の雀ずし)

1644

正保01年

1647年飯すしのコケラすしが箱ずしの原型

1645

正保02年

いずし

(秋田県のハタハタずし)

飯ずし

(京都府の宇治丸)
(奈良県の飯ずし)

毛吹草(1645年)

1665

寛文05年

 安土時代の生成がこの時代まで温存変化なし

1673

延宝01年

早すし

 (漢方医の 松本 ( まつもと ) 喜甫 ( きすけ ) 待ちゃれずし)

 

1685

貞享02年

江戸ですし屋が店を持つ

1695

元禄08年

箱すし
(富山県マスずし)

  (静岡県田子すし )

1727

享保12年

箱すし
(越中のボラすし)

徳川吉宗サトウキビ奨励

1732

享保17年

こけらすし

1742

延保04年

生成
(吉野釣瓶ずし)

竹田出雲「義経千本桜」(1742年)

1751

寛延04年

交鮨

(押しずしの一種)

江戸総鹿子大全(1751年h)

当座鮓(早すしとも)
飯と具を桶にてちょっと押さえてつける簡便なコハダ・アジが主の鮨

1758

宝暦08年

箱すし

  (はこつけ寿し)

絵本江戸土産(1758年)

1772

安永01年

 ちらしの押しずし

(静岡県の長門鮓)
この時期には稲葉屋の立場茶屋で売っていた。

1782

天明02年

江戸では握りずしが始まっていた

1785

天明05年

卵料理の人気有り、贅沢品
万宝料理秘密箱(1785)103種類の卵料理が紹介されている

1787

天明07年

海苔巻

(銀座の長門鮓)

「江戸名物喰物重法記」には

20軒すし屋の名前に銀座長門鮓が載っている。(小吉田とは別)

海苔巻

(笹巻きすし・玉子巻き)

すしの名が江戸に初見

  (三重県湯葉巻)

 

1789

寛政01年

江戸風鮓

  (いさごすし=松の鮓)

箱寿司が廃れ、

1790

寛政02年

 白砂糖が国産化された

1793

寛政05年

ちらしずし
(大阪のすくいずし)

(岡山県のばらすし)
(静岡県のきりだめしずし)
(山口県岩国ずし)
名飯部類(1802年)

1801

享和1年

ちらしの押しずし

(長門鮓)

改元紀行(1804年)蜀山人太田南畝

1804

文化
01

握りずし

上方境の商人堺屋松五郎
(いさごすし=松の鮓)

「文化のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすし出来て、世上すしの風一変し・・・・」

1813

文化10年

ちらしの押しずし

(静岡県の長門鮓)

大阪の豪商片山重芳仙台へ下向

1823

文政06年

握りずし

   (江戸前すし)

(柿の葉すし)

与兵衛すしが工夫

妖術といふ身で握る鮨の飯

1833

天保04年

箱ずし

 (長崎県大村ずし)

 (大阪府サバ・タイ・アナゴずし)

 

関西の押しずし完成

1837

天保08年

 嘉永二年(1849)の『守貞漫稿』には

天保中期の様子記してある。

鮨には梅酢漬の生姜一種を添える。

赤き故に紅生姜とも言う。

「江戸の庶民が ( ひら ) いた食文化」
渡邉信一郎著

1843

天保14年

宝酒造が味醂製造

 

1844

弘化01年

稲荷すし流行

(江戸の稲荷すし・篠田ずし)

近世商買尽狂歌合(1852年)

1850

嘉永03年

江戸前ちらしずし
(吹き寄せと呼ぶ)  

 

1853

嘉永06年

江戸では海苔巻を干瓢のみとある

 

1856

安政03年

ちらしの押しずし

(静岡県の長門鮓)

俳人内藤鳴雪11歳の時(1857年)

鳴雪自叙伝(1922年)

1868

1912 

明治時代

明治2年(1869年)「明治天皇が京都より東京へ御再幸のさい、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」と記され、長門鮓召し上がられる

  

 

 

「江戸を食す」江戸と上方の昔の合わせ酢

食酢の歴史

平安時代延期年間(927年)に延期式に米酢の作り方が記載されている

桃山時代までは和泉酢(大阪)の独壇場でした。

江戸時代前期には相模の中原、駿河の善徳寺(富士市)、尾張の半田などに伝えられ、名産地が誕生しました。

1800年代までは米酢が一般てきであった。

上方の押しずしのすし飯には、日本酒から造った米酢が使用され、砂糖も使用されたもようである。

一方、江戸時代も後期の文化・文政年間になると、「握りずし」が考案された。

文化元年(1804)「高価だった米酢を粕酢にすることができたら・・・」ミツカン酢は酒粕を利用した粕酢造りが始められました。

塩の歴史

「入浜式塩田」、500年位前(室町時代末期)から昭和30年頃まで続けられ、この自然の力を利用した大変合理的な方法は、干潮と満潮の差が大きい瀬戸内海沿岸で開発・発展しました。

砂糖の歴史

寛政2年(1790)讃岐(香川県)で白砂糖が製造され、8年後には大阪市場に廻送できるほど量産化された。

砂糖には、すし飯に粘りや艶を与えるという利点もあるし、これを使うことで保存性も高くなる。さらに、砂糖の持つ保水力で、酢をご飯粒につなぎ止めておくという効果もある

江戸の昔の合わせ酢

シャリ1升(1800cc)酢1合(180cc)塩1合(180g)

すし飯は、現在のように塩と砂糖を加えた酢を炊きたての飯に混ぜるのではなく、塩は炊き水に加え、砂糖は用いず、酢はすし箱に詰めてから適量を振りかけていました。塩が現在の分量の約3倍と多いのは、塩の精製度が低いためで飯は粕酢と塩だけで味付けがなされ、上方の押しずしとは異なり砂糖を使用しなかった。

関西の昔ながらの合わせ酢

粕酢(赤酢と称する)はシャリが黒くなりますので関西では米酢を使用(江戸の握りはタネで見えにくいので粕酢を使用)

味付けには塩・米酢・砂糖

注)昔は味醂を飯に入れて炊いたので焦げるので合わせ酢に砂糖を使用。

 砂糖は冷めても美味しく食べられるように砂糖を使う。

コンブは米1升につき20 ( もんめ ) (3.75g×20=75g=75cc)の割合。

宵から水に漬けて水だしをとり水と合わせます。

注)昆布を直接入れて湯立てするとコンブ臭くなる

冷めた状態で食べる関西のすしでは、でん粉の老化を防ぐ為、砂糖を多く使う。多量の砂糖は塩の味を浮き上がらせ、塩と酢の塩梅がとれていた味を壊してしまう。

シャリの温度が下がるにつれて砂糖、塩、酢がバラバラになるのを昆布が防ぐことができる。

現在でも適用されている合わせ酢である。

 

 

江戸を食す」甘鯛

甘鯛には三種類ある 

白甘鯛

 一般的にはシラカワともいわれ京都では「ぐじ」静岡では「興津鯛」と呼ばれている。

 体全体が白っぽく成魚は60cm位になる

 三種類の中では一番上物とされてます。

 やや白みをおびたピンク系で尾ビレの模様が他の2種類と異なっているのも特徴。 

赤甘鯛

 体全体が赤く、あまだいの中では最も漁獲量が多く成魚は50cm位になります。 

黄甘鯛

 30cm位でも小さく、淡白すぎて味が落ちるともいわれています。 

旬は

 秋から冬が旬です。 

特徴

 他の魚に比べて脂肪分が少なく、80%近くが水分。 

興津鯛とは

 一夜干しを静岡県では興津鯛と称している。

  作り方
 
江戸時代の長門鮓復元の為一夜干しした。
 
うろこをとり3枚おろしにして、塩水につけ(時間と塩の比率)、

 水にさらし塩だしする。そして頭と尾を左右に押し身を浮き上がらせ、半日干した。
 
白梅酢(地元農家製)に漬け込み、昆布〆にする。(数日間寝かせた)

 

 

「江戸を食す」初カツオと川柳


江戸っ子は初カツオの刺身は「からし」で、食していたのが普通だった。

ワサビなどでも食べていた江戸っ子もいたようです。

当時の川柳にも、初カツオを題材にしたのが多くある。

「初がつを 銭と芥子で二度落涙」

「梅にうぐいす鰹にはからしなり」

「春のすへ銭へからしをつけて喰い」

「初の字が五百鰹が五百なり」

「初鰹玄関ふまぬ残念さ」

高価な鰹になけなしの銭をはたいて嘆息です。

 

「今くへばよしと肴屋置いてゆき」

「おちぶれるものは鰹の値段なり」

「はづかしさ医者へ鰹の直(ね)が知れる」

安永年間には鮮度が落ちると値段も安くなった

 

「初松魚(はつかつお) からしがなくて涙かな」

大奥の老女・絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の絵島生島事件(1714)

三宅島に流されたから生島新五郎が二代目・市川団十郎によせた句が有名です。

「目には青葉山ほととぎす初鰹」

  俳人山口素堂の句です。

初鰹の出始めのこの季節は新緑が美しく、山ではほととぎすの初音がきかれる。

 

花の絵島がから糸ならば、たぐり寄せたい身がそばへ」

江島は信州高遠へ流罪となり、新五郎を哀れんで三宅島の民謡に歌はれた。

 

 

 

 

「江戸を食す」江戸前鮨の仕事いろいろ

1、江戸前の仕事をしております。
    
刺身をのせるだけのすしが多い昨今です。
    
当店:材料の酸化を防止と甘みを引き出す、煮る、焼く、酢〆、昆布〆、茹でる等を基本コンセプトに。

2、お土産を作らない鮨屋がある。

    鮨を折り詰めにして何時間も時間が経過してから食べる鮨はその場で食べる鮨と比較したらたら

    美味しくないのは当たり前である。
  当店:江戸前鮨の基本で創っておりますので(タネとシャリが馴染ませること)、
  2時間位でお召し上がるのでしたらお土産は作っております。

3、煮切り醤油を鮨につけて供します。

  当店:味をつけているタネですので鮨タネにより、煮切り、煮ツメ、塩、柑橘で供しております。

    作り方はだし汁に味醂、酒入れて沸かし、醤油を入れる。約1割位分量が少なくなったら火を止める。

 

4、江戸時代から大正時代までは鮨の大きさは今の大きさ(指2本位)の2倍(指4本位)の大きさであった 
     と 聞いている。

  昭和の時代になってだんだんと小さくなり、1個では物足りないからといってお客様の注文で
  
2個供するよ うになった。

  当店:立ち食いは1個ずつ出しています。
     
ご飯粒の間に空気を入れて(空洞をつくる)握らないと鮨は駄目。

 

5、鮮度の良い魚は全部生で握る生嗜好が強い昨今。
    
アジ、サヨリ等塩振りして酢〆したら、古くなったから酢〆しただろうと思う客が結構いらっしゃる。

  当店:お客様の要望が強い生嗜好より、自分のやっている仕事に調子を合わせて頂く事にして
     おりま す。

     
(生、酢〆両方の鮨を容易はしておりますが、酢にした方が美味しさには格段の差があります)

 

 

 

「江戸を食す」ひやかの語源

吉原が明暦2(1656)江戸の大火で焼けてしまい、
幕府は吉原の遊郭を浅草に移転させました。

この地には紙すきの工場があって、紙をすいて仕上げるまでに、紙をしばらく水にひたして

冷やしておく工程があり、これを「ひやかす」といった。その間、職人たちは暇なので、

近くの吉原の遊郭をのぞきに行ったという。   

すしの浅草海苔も浅草紙の漉き方など製造方法を真似て作られました。

のり職人ものりを冷やしておく間で吉原の遊郭に見に行った。

そこで、買う気もないのに店をぶらついたり、値段だけ聞いて買わないような客のことを

「ひやかし」というようになったのだ

乾し海苔(のり)の大きさや製造法のもとになったのが「浅草紙」です。

海苔1枚(全判)の標準サイズは縦21cm×19cmで、ティッシュペーパーと同じサイズです。

 

屋台店の様子

 

屋台高輪の絵

「二十六夜待ち」とは、月の名所である高輪には、多くの人が繰り出し、夕涼みを兼ねて、茶屋や船上での飲食や遊興を楽しんだ。とありました。屋台は飲食店で、すしの屋台もおあります。江戸っ子の楽しみの一つだった様です。

 

 

「江戸を食す」浅草の海苔

 

江戸の中期までは江戸の味覚といえば上方(大阪)から「下りもの」で江戸中〜後期にかけて江戸の

独自のものが、江戸で生まれた。当時は海に近かった浅草を物資の流通拠点としたことから浅草と海苔の関係が生まれる。

上方(大阪)に流通した最初の商品が海苔である。しかし、埋め立てが進むにつれて浅草では海苔の採集ができなくなった。

その後、葛西浦中心に海苔採集がなされた。

寛延2年(260年前)海苔の発生に不可欠な貝類が江戸川の氾濫で埋まってしまい漁具や浮遊物に付着する海苔を採取する漁法はできなくなる。

それ以降の享保2年(1717)生産地は品川に移る。このころから「ひび立て」による養殖が始まり生産量が増大した。

江戸名所百景

歌川重が風景を、豊国が人物を描いた合作。
火鉢で抄き海苔を焼く女性の向うの海に、海苔養殖の

ノリヒビ(木の枝や笹竹を海中に建てて海苔を付け養殖するもの)
が見えます。
享保2年(1717)ころ品川浦で始まった海苔養殖は天明ころ盛んになり、江戸の名所になりました

江戸時代末期になると品川の養殖は衰退し中心は大森に移る。生産者の大森の生産者は日本橋ののり商と取引を拡大したので、浅草ののり商人は凋落し、浅草は「あさくさのり」の名前だけを残して脱落する。

需要が庶民に浸透していく手助けは江戸市中を天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」であった。

地方に売りに出る「旅師」も、長野県諏訪の人達であった。

山国の諏訪の人たちは厳しい冬を江戸に季節的出稼ぎで海苔を売り歩いた。

のり養殖の技術を地方に持ち出したのも諏訪の人達であった。

江戸式製法が始めて箱根を越えたのは文政2年(190年前)のことであった。(握りずしが考案された時期に重なる)

遠州舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森ののりと同じだったので地元に養殖をすすめた。

その後、森田屋は大森から製造法をもらしたと村八分にされ、その後の消息は知る人はいない。

大森の田中孫七宅は留守宅を壊される仕打ちを受ける。

それほどに江戸湾ののりは閉鎖的な生産、流通のもとで成長してきた。

舞阪、三保の境内で現在も碑が建てられております。

 

 

 

 

「江戸を食す」鯖の漬け方

旬は9月から10月にかけて、脂がたっぷりのり、身がひときわ太くなってくる。

今日のマサバは淡路島からの入荷である。身体には厚みがあり丸い体系で久しぶりに大きいマサバである。

鮮度の落ちも早いので酢〆にすることがほとんどである

サバは身割れしやすいので気をつけて3枚おろしをする。腹骨のつけ根に包丁目を入れると塩や酢がサバに回りやすい。

ザルにたっぷりと上下に塩を敷き詰め1時間〜1時間30分位どぶ漬けする。

その後、塩を洗い流し、水分サラシでふき取る。皮目を下にして漬けること15分

その後身を返して皮目を上に向けて15分漬ける。30分経ったら酢の回り具合を中骨の有る部分で確認する。

ザルを斜めにして酢を切る。サラシ&保鮮ペーパーで酢をふき取る。骨抜きをする。

 

 

 

「江戸を食す」スルメイカとアカイカ

スルメイカ(呼び名ジルマイカイ)
昨今は茹でたイカのご注文が少なくなりました。
当店ではご年配のお客様には根強い人気商品です。
耳タブの硬さ程度に茹でた(茹で過ぎると硬くなる。 )後に煮立てた煮汁にイカを入れ、
箸でころがして味を整える。
甘い煮ツメをぬって食べる煮いかのすしは格別に美味しい。
スルメイカの場合、生よりも煮たときに味がぐんと増す。
叉、昔は甘酢に漬けた酢イカが定番であったが、嗜好の変化でメニューから消えてしまいました。
当店では酢イカのご注文があれば供します。

  江戸のイカ印籠づけ(当店は赤イカを使う)
   イカの胴の中に酢飯に甘く煮た五目を混ぜ、詰め込むのである。
 五目飯の具(かやく) 椎茸、人参、いなり、昆布、ゴマ、かんぴょうの刻んだものである。
 一般的には殆んどみられなくなった仕事である。
 関西方面でも印籠ずしと呼んでいるが、江戸では「印籠づけ」 と呼び、
 江戸細工ずしの一つにで、それなりの評価があった。
 作り方は煮イカと同じように煮る。煮立てた煮汁にイカを入れ、箸でころがして味を整える。
 丸のイカの胴の口を少し切り、姿を整える。
 イカにすし飯を詰める。イカがパンパンに張り切れる位になるまできっちり詰める。
 甘い煮ツメをぬって食べるアカイカのすしは柔らかくて懐かしい江戸の鮨です。

 

 

「江戸を食す」すしの食べ方  

すしの食べ方は自由であり、どれからたべてもよい。

昔はその店の味をみるのには始めに酢で〆たタネ、コハダ、アジ。

次に煮たもの、アナゴ、シャコといったもの、最後に玉子焼きか、のり巻き(かんぴょう)

どれもすしの味を生かしもし、殺しもする品物であるので、そんな順にたべれば、

たいていその店の腕前が判るといわれたものである。

しかし、好き不好きがあるので、どれからたべても悪いという規則はない。

しかし、立ち食いのエチケットはある。

1、つけ醤油を使う場合はシャリに醤油をつけない。
  
タネとシャとを横にするようにして、同時に舌に直接触れるようにして口に押すようにして入 れる。
 
これはタネのうまさと飯のうまさを舌ですぐさま味わうということが、立ち食い醍醐味である。

2、立ち食いは箸を使わない

 箸を使うなら立ち食いをする必要がない
3、中には箸を使ってタネだけを醤油にひたして、それを再びシャリの上にのせてから食べている
 お客 がいる。

 すし屋泣かせである。
4、煮ツメをつけるアナゴやタコ、シャコのようなタネのものに醤油をつけるお客がある。
 習慣性もあるか知れぬが、これは頂けない。
5、つけ台の上にすしをいつまでも放り出しておくのもやめたほうがよい。
6、また、食べているのに次の注文を出すのもやめたほうがよい。

  参考文献 すし物語 宮尾しげを著 昭和35年発行

   

 

 

「江戸を食す」玉子焼き

 

当店では3種類の玉子焼きを焼きます。

■玉子焼き(薄焼き玉子)は「つぶし」の生身(白身魚・海老)をすり身して、「わり」の砂糖、酒、塩、味醂、醤油を玉子で割って焼きあげます。
焼き方は長めの菜箸と脱脂綿を使い玉子鍋に食用油で皮膜を作り熱くなっている玉子鍋を適温まで下げ(手のひらを当てて感じ取る温度は長年の経験で判断)玉子液を入れ、弱火で焼きあがってきたら、さい箸でクルクルと玉子鍋と玉子の間をはがし、表面に未だ焼けないで残っている玉子液を下の鍋に落とし、玉子全体をさい箸二本でひっくり返します。この瞬間は職人技・名人芸です。専用の落し蓋で焼きを待ちます。
柔らかさでは出し巻玉子には及ばないが深い味わいがあります。
玉子焼きとは昔から薄焼き玉子のことでして、厚焼き玉子が作られてくるようになったため薄焼き、厚焼きと区別するようになりました

■厚焼き玉子(カステラ風)は薄焼き玉子の調合の2倍の量で焼きます。鶏卵は12個使用します。

だし汁は使用しません。上下から火をあてて一回で両面を焼きます。玉子液の焼けてない表面の部分は空気を抜きながら

じっくりと当店は40分の時間をかけて焼きます。

     出し巻玉子は「わり」と玉子とだし汁、砂糖、塩、醤油を使い何回も重ねて全体としてフンワリと仕上げます。
本来は日本料理でお出ししていた玉子焼きでした。鮨の玉子焼きではなかったのですが、現在は7割くらいのお店がこの玉子焼を使っております
河岸玉と言って専門業者から仕入れするか自家製かはそれぞれです。

昨今の鶏卵は養鶏が多くなってきましてからは玉子焼きは各店工夫して、つぶしは白身魚(ひらめ)・海老(芝海老)・貝(小柱)・白はんぺん・大和芋等使います。どれが良いかお客様以外は判断次第です。
昔は放し飼いの鶏でしたので塩だけで焼き上げた玉子焼は他の比ではないと先輩の職人は言っております。

 

 

 

「江戸を食す」しゃこの漬け込み

蝦蛄を車子とかしゃこと読んだり書いたりしております。

まわりが海老と同じように殻におおわれています。

当店では生のしゃこを年に一回程度仕入れするこがありますが、殻からはがすことが

難しい仕事です。

叉、足が早い(傷みが早い)ので魚竹寿しではほとんどが産地で茹で上げたものを仕

入れいたします。

江戸前の「小柴」産が良質で特大・大のしゃこは手に入りにくいです。

しゃこは蒸し器で少々蒸します。鰹のだしを引いて、砂糖・味醂・醤油で煮立てそば

つゆ程度の「漬け込み汁」を作ります。その中にしゃこを漬け込みます。冷蔵庫に入

れて一晩漬け込んでおきます。

蒸し器で蒸すとしゃこの鮮度の良し悪しが臭いでわかります。

 

 

 

 

「江戸を食す」コハダは塩と酢で決まる

美味しさの決め手

1、素材のコハダは「めまわり」が揃っている
注:「めまわり」とは魚一尾の大きさのこと

コハダは脂ののり具合、厚さ、大きさ、季節(温度)により塩の時間をどの位にするか決めるので、
「めまわり」が揃っていて、鮮度の基準は目玉がみずみずしいスカイブルー色をしたコハダを選ぶこと
一貫のにぎりに一尾のコハダが使用される大きさが理想
幼魚の新子は8月〜9月頃で一貫で3尾使う  

2、振り塩の時間は長年の勘で塩加減を決める

大きめなザルに背の方を下にして荒塩で振り塩します。
塩加減はコハダの条件に合わせてカンで決める
(親方から教わった職人の門外不出の塩加減。シャリの調合の塩も同様)  

3、水洗い(塩出し)したコハダ

コハダの表面の水分とコハダから出た余分な脂肪分を洗って流します
そうしますと酢がしみこみやすくなります

4、「酢洗い」を二番酢で酢洗いをする
 注:二番酢とは前回本漬けで使用し残しておいた酢叉は、水と酢を同量で混ぜた酢
 コハダは青魚の生臭さがありますので本漬けの前に生臭さを取ために一枚一枚ゆすぎます
 ゆすいだコハダ5枚位重ねて手のひらで押して余分な酢をきり、30分位おきます

 ポイント:
 酢洗いをきちんととすれば生臭はなくなり、美味しいはここで決まります。


5、本漬けは一番酢で漬ける
 つけ具合は時間に頼らないで自分の目で見て決める(職人により時間に差異があります)

余分な酢を切り馴染ませる為一晩以上立てかけて冷蔵庫に入れておきます
2日目に召し上がるコハダが一番で、当日には握らない事です。  

修行時代、魚を最初に扱わせてもらうのがコハダで、江戸前の鮨の技術の基本中の基本です
コハダの脂・塩・酢の調和でお客様に満足いただける江戸時代から変わらぬ粋を見せる伝承加工技術です

 

 

「江戸を食す」蛸を茹でる・煮る

魚屋・スーパーで店頭売りされているたこは時には固くて、歯切れが悪い経験をお持ちかと思います。

江戸前の鮨屋では二通りの仕込み方があります。

動いている活蛸を仕入れする。胴(頭ではない)をひっくり返して根元から切り落とす。

その後塩でゴシゴシとこすりぬめりを取ります。

●茹でる方法

焙じ茶(ほうじちゃ)を煮出し、水を沸騰させ、塩を塩梅よく入れます(ショッパイ・辛いは駄目)

その中に焙じ茶いれると、紅茶色になります。煮立ったら蛸を足から入れます。

蛸は茹でると真っ赤になりますので焙じ茶は地味な色にする為に使うのです。

最初は足が巻きついてきますが約30分間茹でますと足が伸びてきますのでその時タイミングよく火を止めます。

茹でた蛸は煮汁が冷たくなるまで鍋から出さずにそのままにして置きます。そうしますと柔らかく仕上がります。

●煮る方法

桜煮と言いまして日本料理からの伝承されている仕込みです。

沸騰した湯に足をくぐらせる。別の鍋に酒と水をいれ沸騰させる。 煮立ったら足から入れる。ザラメ・醤油・小豆

入れる。沸騰したら弱火にして3時間(蛸の煮上がり状況を見て時間調整をする1時間〜3時間)コトコトと煮る。   こまめにあく抜きをする。火を止めたら煮汁が冷たくなるまで鍋から出さずにそのままにして置く.大体4時間で冷めます。

当店は桜煮で仕込みしております。

柔らかく、色つける煮る方法はこのように茹でる、煮る方法で多少の違いはあります。

「蛸を洗って大根で叩きますと柔らかく煮あがります・・・・・。」とは嘘でして、何の役に立ちません。

 

 

江戸を食す」穴子の煮方

7月中旬〜9月初旬までが江戸前アナゴが美味しく召し上がれる季節です。

昔は羽田、大森、生麦、浦安のアナゴが代表的な産地でした。

多摩川、荒川の水が流れて、真水が多く。一方江戸川の水が流れる千葉県側

は塩分が強いとされていた。

したがって江戸前のアナゴでも潮の流れで羽田沖と千葉県沖では違うと言わ

れている。

東京浅草の老舗すし店ではメソアナゴと言って15〜20センチ位の丸付けの穴子

を好みます。

水でぬめりを取って、鍋に白砂糖、酒、薄口醤油を入れ、沸騰したらアナゴ

を10本〜15本位入れ、落し蓋をする。

叉、沸騰したらアナゴを表裏返して、ザルにあけて冷まして白く煮る。この

煮方を「さわ煮」と言います。

一方アナゴが40〜50センチ位のアナゴは煮方が違います。霜降り、水炊

き、煮るの工程です。

沸騰したら弱火で1時間位煮て、蓋をしたまま煮汁が冷めるまで置きます。

そうしますと骨は柔らかくなり、

味も滲みこみます。この煮方を「漬け込み」と言います。

 

 

 

「江戸を食す」散し鮨の製法

五目(ごもく)は野菜類の具を飯に混ぜるものであり、飯の上に具とタネを並べるのが散し(ちらし)というのが定義。
タネの並べ方をすし屋間では「吹寄せ」と呼び、「それぞれのタネが少しずつ重なるように並べるのがコツで、入れ物のどこから見ても美しいようにしろ」と教えられている。
 参考:飯に混ぜる材料を「具」という。

 

明治末期のちらしずしの製法

・材料
「椎茸、木茸、玉子、おぼろ(芝海老)、小魚、貝類(その季節のもの一種)、海苔飯、生姜、以上の材料を調えましす」

・盛り

 「海苔酢飯を軽く器に盛り、椎茸(半個)、きくらげ少量を混ぜて海苔飯の上に振りかけ、その上に薄焼き玉子を短冊

 形に細くきり適宜にしき、なおその玉子の上におぼろをまき、上ぶき(小魚や貝類)をかけ、生姜をそえてすすめます。

・海苔飯

「薄き海苔(海苔巻に用いる海苔より粗きもの)を強き火にて青くなるまで焼き冷めぬうちに細かく折り裂き両掌にてよく摺り揉み細末にしてすし飯に混じ、竹箸を使ってよくかきまわして合わせるのです。飯に混ぜる海苔の分量は五合の飯につき、前記の海苔五枚のわりです」

     上ぶき
「これは季節によって次の種類のうち一品を選び、細かく短冊形などの切って用います。白魚は江戸前なら六,七尾位づつ一人前に用います。小鯛、さより、きす、鯵、白魚、赤貝、みる貝。」

    
普通小丼を用いますが薄手のやや深い小皿に盛ります方が上品になります。」

     注意
「上ぶきの上に更に少しの木茸をふりかけますと体裁がよく見えます。」
「叉上ぶきの他に小海老を適宜に切ってあしらえば色彩りよく見えます。」
「鮓店で蒲鉾、烏賊、章魚(たこ)、あなご等を上ぶきに用います。

 

揉み海苔を鮓飯に混ぜるのは、当時ほとんどのすし店でやっていた仕事だ。

明治中期までは海苔ばかりでなく、しいたけ、かんぴょう、きくらげなども飯とまぜるすし屋が多かったという。

 

「江戸を食す」散し鮨(ちらし)

風俗画像』(百六十号、明治375月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)

「江戸を食す」散し鮨(ちらし)

風俗画像』(百六十号、明治375月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)

風俗画像』(百六十号、明治375月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)

「按ずるに鮨はもと一旦漬けておいて食うべきなるべし・・・・・今東国の握鮨なるものは、その漬けるに換えるものか、いえ故に早鮨の称あり。是によって考うればかの散し鮨なるものは鮨の本意に非ざるべし。おもうに東国人の性急にして迅速を貴ぶの風あり。故にかくの如き物に至ても待ことを嫌うよりして今の如き調整に遷りしもか」とある。

 すしとはすべて馴れた味覚の育成を基本として、その製法がなされるべきだ。単に鮨飯のうえに具(飯のうえに並べるタネを昔は「 ( うわ ) ぶき」といった)をならべるだけの現在のようなちらしに対して、すしか否かの論がでてくるのは当然ともいえる。

専門のすし職人にすしの基本的味覚の出所をふまえた論として注目に値する。

鮨として生まれながら鮨らしからぬものへ変わってしまう、といったこともある。

やはりちらし類もすしだ、と確信を持って新ちらしを創案されることを願う。

今、話題の「静岡ちらし」は五目鮨(ごもくすし)と散し鮨と 五目 ( ごもく ) ( すし ) (後に記述する)の基本としている。

 

 

「江戸を食す」 煮キリ

 

搾りたての生醤油は、本来の味と香りを大切にするので醤油自体に一切味付けをしないの

で、すぐにカビが発生します。普通の醤油はしぼった後に加熱殺菌をして、保存性はよくなりますが、反面醤油本来の香りの良さがなくなります。日本酒『生酒』の吟醸や大吟醸が冷蔵することで腐敗を防ぎ、流通されています。これをヒントに搾りたての生醤油も、冷蔵することにより本来の味と香りを大切にした生醤油が流通販売されております。江戸前鮨屋では生醤油の強い香りが、淡白なすしの味がこわされてしまいますので、そこで江戸時代から「煮キリ」といいまして生醤油を、各店独自の工夫で味を作り上げております。当店は生醤油に少々の水と○○を加え、加熱して強い香りを押さえた煮キリ醤油をつくっております。シャリの酢合わせに砂糖をいれるますので、味醂は入れておりません。
当店の鮨のつけじょう油はすべても煮キリにしてございます。

かっての醤油はカビが生え、そのため使用前にこれを漉して取らねばならなかったが、現在ではまずその要はない。また、クセが強かったためか、生醤油のままつけさせるよりは、味醂やカツヲのだし汁等ともに煮て醤油の臭みを飛ばした「煮切り」がよく用いられた。

 

「江戸を食す」 握りずしとつけじょう油

「江戸前の握りずしは、しょう油をつけてたべるものか、それとも、つけずに食べるものか」

 いまは、握りずしはしょう油をつけて食べるのとされているが、これは食べ方としても、おかしな話である

なぜならいうまでもなく江戸前鮨の特徴はいろいろ違ったタネ(ネタとはすし屋は言わない)の持ち味を生かして、それが飯(すし用語ではシャリ)と調和(なじむ)するところにあるのだから、それを、つけじょう油につけることによって日本食の基本である十色の味を一色に近づけて食べるのはというのは感心できない。すし屋にしても、それではなんだか馬鹿にされているようなものである。

 まして、タネだけズルリと剥がして、それにしょう油をベットリつけたタネをまた、もとの飯の上にかぶせて食べられたのでは、見ているこちらのほうもガッカリさせられてしまう。

 もっとも、そのくらいにして食べなければ旨くない握りも、昨今ではままあるのだから話は面倒である。

 だが、昔(明治末期まで)は、つけじょう油なしで食べられる握りが普通だった。・・・・・・・・。

結局、つけじょう油とは前処理や煮きり(生醤油を自家製の味に)を使わない純生物をタネとした握りずしの出現によって必要となったに違いない。・・・・・。

そして、純生物のタネを使うということは、江戸前伝統の技術からいえば一種の逃げ仕事であった。・・・・

 

 

著者 吉野曻雄「鮓・鮨・すし すしの事典」より引用させていただきました。

日本橋吉野鮨本店の三代目 故吉野氏は俳優の野口元夫として知られておりNHKTVドラマ「事件記者」の山長役、マルサの女等に出演した

 

 

「江戸を食す」ハレとケ

 

ハレとケ」という言葉がある。ふだんの生活である「日常」を表している。また、の生活が順調に

行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。
「ハレ」語源は「晴れ」であり、祭りや年中行事を表している言葉で「晴れ舞台」「晴れ着」と使う。
ハレの日には江戸時代は餅、赤飯、鮨や酒で飲食をした。
「ケ」ふだんの生活である「日常」を表している。
生活が厳しいときはケガレ(気枯れ)という。又、非人道的行為をする人をケガレていると言う。
江戸時代の修行の身の鮨職人は寒いこの時期、冷たい水を使い「コハダ」など仕込みして、毎日々が同じことの繰り返しであった。 
普通は毎日同じことをやっているといやになるものである。
江戸時代では人為的に「ハレ」を作り出して、祭り、能狂言、正月などの行事である。
現在のすしはいつの日でも食べられる。
当店の「江戸前鮨」「静岡ちらし」はハレの日に食べられたすしである。

 

 

「江戸を食す」江戸の魚河岸

 

元禄期(1688〜 )には日本橋魚市場(後に築地に開設)は活況呈していた。  

昼の芝居小屋が集まった芝居町(現在の浅草六丁目付近)、夜の吉原(現在の日本橋人形町)と並んで「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。

「此橋上ヨリ御城ト富士山見エテ絶景ナリ」とある。

日本橋の魚問屋の悩みは幕府が毎日登城する役人の昼食を出す為に魚介類を悪名高き「手付け」と呼ばれる係りが魚河岸をまわり「御用」と叫び、格安の値段で納入してしまう。
商売にならないので魚を隠すと「御肴役所」を設置してごまかしができないようにした。

参考)幕府公認の吉原遊廓「吉原」の語源は遊廓の開拓者が 静岡県富士市吉原 出身であったため。

 

 

 

「江戸を食す」義経と千本桜

 

 

下市村釣瓶鮨屋の場 一幕  

いがみの権太・・・片岡我當
弥助実は平維盛・・・片岡進之介
若葉の内侍・・・片岡愛之助
女房おくら・・・ 上村 吉弥
娘お里・・・片岡孝太郎
梶原景時・・・坂東弥十郎

(かいせつ)
 「義経千本桜」は、「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」と並んで浄瑠璃の三大名作といわれ延亨4年(1747)大坂竹本座にて初演されました。
 竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作で初演より大当たりを取り二ヶ月後には歌舞伎として上演されました。
 全五段の三段目に当たるこの「すし屋」は家族の愛情を描いた、とりわけヒューマニズムに溢れる場面です。

(あらすじ)
 壇ノ浦に平家が滅亡した後も、三位中将維盛だけは、大和国の「釣瓶鮨」の店に、弥助と名を変えて身を潜めていた。そんな身分とは露知らぬ鮨屋の娘お里は弥助に思いを焦がしている。お里は父親から今夜祝言の杯をさせてやろうと言われたので嬉しくてたまらない。
 そこへ突然、この家から勘当されていた権太が戻り、懐中の人相書きと弥助を照らし合わせ、何かをたくらんで二人を奥へやる。そして何時ものように母親に無心する。息子に甘い母親を空涙で口説いて、まんまと小遣銭をせしめる。そこにあたふたと父親の弥左衛門が帰ってきたので、権太は慌ててその金を鮨の空桶に隠して逃げ込む。弥左衛門は帰る道すがら倒れていた小金吾の生首を手に入れ、権太が金を隠した隣の空桶にそっと隠す。
 一息つくと弥助を呼び出し、梶原平三景時に匿っている維盛の首を討って渡せと迫られたと打ち明ける。そして、「上市村の隠居所の方に忍んでくれ」と言って奥へ去る。
 維盛の妻、若葉の内侍は、幼い六代君の手をひいて道に迷い、計らずもこの「釣瓶鮨」の店に一夜の宿をかりようと立ち寄る。出てきたのは町人姿になった維盛(弥助)なので驚いたが、一別いらいの再会に、その喜びはひとしおだった。 お里は初めて弥助の素性を知り、所詮、かなわぬ恋とあきらめて維盛親子を上市村の隠居所へと落としてやる。
 これを知って出てきた権太は「訴人して褒美の金にありつくのだ」と叫び、父親が首を隠した方の桶をひっ抱えるや一目散に走って行く。一大事と親父の弥左衛門が、後を追おうとした時、梶原が家来を引き連れて物々しく入ってくる。梶原の厳しい詰問に弥左衛門が困惑しているところへ、権太が首桶を抱え内侍と若君を縛って連れてくる。梶原は権太の手柄を賞賛して当座の褒美に頼朝公の陣羽織を与え、親子を引き立てて行く。計略が水の泡となり弥左衛門は怒りの刃を権太の脇腹に突き刺す。権太は深傷に苦しみながら間違えて持ち帰った鮨桶の中に首があったので、初めて父親の忠心が判り、自分の子と女房を若君と内侍の身代わりに仕立てて梶原を騙し、これまでの不幸を詫びるつもりであった。と打ち明ける。
 弥左衛門は初めて知る権太の心根に胸を打たれるが、時既に遅く我子を手にかけた悔恨の涙にくれる。瀕死の権太が吹く呼笛を合図に本物の維盛親子が姿を見せ、改めて権太に謝意を述べた上、さっきの頼朝の陣羽織に恨みの一刀を突き刺す。すると、中から数珠と袈裟がでてくる。
 かって維盛の父重盛に救けられた頼朝が、昔忘れぬ恩返しのつもりであると察した維盛は、その袈裟をかけ数珠を手に、俗界を離れ高野山へ上がって剃髪する覚悟を決める。人々が、それぞれ涙するうちに、権太は満足げに息絶えるのであった

梶原山は、梶原景時{かじわらかげとき}と息子たちの終焉(自害した)場所。
 梶原景時は、源頼朝に仕え、鎌倉幕府の創立に、功をたてましたが、頼朝没後の勢力争いで敗れました。
 正治2(1200)年、梶原一族は西国へ向かいます。
 しかし駿河国の清見ヶ関から、大内(現在の清水市)あたりで、すでに鎌倉の命を受けた、国侍の待ち伏せにあい、合戦となります。
 「もはやこれまで」とみた景時親子3人は、のちに梶原山と名づけられるこの山に入っていき、そして山頂で自害。
 現在、山頂には、梶原親子の塚がありました。
 びん水は、梶原親子が死を決意し、鬢{びん}を整えた、わき水の場所だということも、そこでわかりました。

 

「江戸を食す」家康と佃島

 

江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃村の庄屋・森孫右衛門が家康公を助けた物語は逸話として伝えられている。
 武田勝頼の領地である持舟城( 静岡市用宗 )を攻め落城させたのは天正10年(1582)2月のこと。本能寺の変の3ヶ月前だった。

 家康は安土城を訪れた後、堺を見物していた天正10年(1582年)6月2日の早朝、本能寺の変が起こる。岡崎城へもどる直接の退路が阻まれていることを知らされ、少人数の武装のない家康一行が、土民が落ち武者にとっていかに脅威にとなるか知り抜いていた。

 一行が、神崎川( 大阪市住吉区 )にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。山越えし、やっとのことで三河岡崎城にたどりついたのです。

以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。

その後

江戸幕府の台所へ出入自由の佃島の漁民達は、江戸前の新鮮なシラウオを献上魚として、残った雑魚を江戸市中で商いし、激増に伴う町民の食生活を支える大事な漁業者として暮らしを立てていました。

 幕府は従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴でしたので、需要に追いつきません。そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。この孫右衛門は魚河岸の元となる店を開いたとも言われている。現在の築地にある中央卸売市場です。

 

 

「江戸を食す」あれこれ

 

江戸を食す」武士が食べなかった   

江戸時代には、町人は食べたが、武士は食べられないものがあった。それはコノシロ、マグロ、フグ

であった。

コノシロは「この城」と言い、語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は縁起が悪く、落城に通じるとされたのだ。
また「腹切り魚」といって切腹を命じられた武士の最後の食膳にのぼることが多かったのです。

ことからも、縁起の悪い魚とされ、 江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言の小肌にした。  

マグロは、別名で「「シビ」と言う。「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわからない武士にとって、この名は禁句であった。それゆえにマグロは下賤な食べ物として食べなかった。  

フグを武士は食べて毒に当たればお家断絶。武士が死ぬのは戦場であって、魚の毒などで死ぬのは武士にとってあるまじきことだったのだ。
そのため、武士のほとんどは、明治維新までフグの美味しさをしらなかったのである。
江戸中期から鰒をよく食べたのは「卑賎」と言われた庶民たちであり、その美味を体験していた。武士たちは頑健にも伝統的な食生活を墨守していたのである。

その頃は、鰒が一匹12文程度であり、安蕎麦一杯が16文であるのと比較すれば、いかに安価であるかが分かる。

 

 

 

「江戸を食す」タイの味

 

比較的長い時間、タイの味がおちないのはなぜか?
魚、は一般的に、死んでまもなく死後硬直という状態をおこす。 
筋肉のなかで変化が起こり、糖分が乳酸になり、その乳酸がたんぱく質とついて、乳酸たんぱく質になり、これが堅くてコリコリしているため、ピンと張った状態になると考えられている。 
このピンと張った状態のときが魚の味は一番よいとされている。 タイやヒラメのような泳ぎ方もゆったりした運動の少ない魚は、硬直状態がゆっくり始まり、そして長くつづく。
その上、これらの魚は消化酸素の力が弱い。当然、自己消化の速度もゆっくりしていて、身がくずれるのがおそい。 
そのため、サバやカツオなどにくらべると、長く味が変わらず、もちもよいのである。 

 

 

「江戸を食す」江戸前鮨の握りずし


江戸前鮨は10貫チャンチキです。
すしタネ名  味付け&供しかた
①中トロまぐろ ヅケ醤油に漬け込み
②中トロあぶり 二杯酢数滴・モミジおろし
③活イサキ   昆布〆・スダチ・岩塩
④シロキス   酢〆・アサツキ
⑤クルマエビ  甘酢漬け
⑥カスゴ   昆布〆・酢〆・オボロをかます
⑦白貝   煮はまぐり汁で漬け込み
⑧厚焼き玉子 白身魚+山芋
⑨鳥貝   甘酢漬け
⑩江戸前穴子 煮ツメ
かんぴょう巻    
別盛りに「いか印籠漬け」
江戸時代後期から昭和20年代頃まではどこのすし店では漬けておりましたが
お客様の生趣向が今日の「いか印籠漬け」をすし店から姿を消しまった
江戸前の寿司です。

 

 

「江戸を食す」手間隙かかる光物


カスゴ(春(かす)小鯛(ごたい))&キス(シロギス)

「カスッコ」=「末っ子」とはタイの中で形が小さく幼魚なのでこうなぞられた?

キスは鱚と書く。色、味良しの魚、「喜」をあててめでたい魚とした?

と伝えられている。

ウロコが多く漬け場に飛び散り、仕事が結構やり難い仕込みである。

それだけに手間隙かけ、江戸流に酢で〆た光物の握りずしは応えられない旨さがある。

こんにちのお客様は特に若い方々は光物を敬遠するようであります。

他形態のすし店は扱わない傾向があるようです。

 

 

「江戸を食す」すしの1貫とは

 

1、にぎりずしを、1カン、2カンと数える。
カンを貫と書くようだが、正式に決まっているわけではない。
そのいわれも諸説あって、正確にはわからないのです。
現在でも握り1ケを1貫と呼ぶ。
2、にぎりずしの形が小判に似ている。江戸時代貨幣の
単位で貫があったのだろうか?
すしの価値感(美味しさ、目新しさ等)が江戸の庶民に
受け入れられ、歌舞伎や芝居小屋での風刺劇にも取り
入れられ、大人気となった。
すしと江戸小判をダブられたはないか。
江戸の町民文化はこのような、ネーミングを付けるのが
流行のようだった。
3、当時の1人前盛りのすしの数のことでありますが。
 イ、当時の1人前は、握り5個、海苔巻2切れで、
これを5カン(貫の字を当てるべきであろうか)の
チャンチキ(祭りばやしの音にかけて太古の撥(ばち)が2本だから、
そのバチの意であろう)と呼ぶ。 
 ロ、今日のすし屋でもこの5カンのチャンチキは
よく使われている言葉である。
 ハ、このようにすしの用語は江戸文化の遺産である。
とにかく江戸時代の後期は江戸グルメの最盛期。おもしろい。

4、にぎり6貫、海苔巻き1本を4つきり(昔は3切り)計10個で一人前とも言う

 

 

「江戸を食す」下処理


■下処理・味付けの方法

●コハダ・アジ・サバ・カスゴタイサヨリ・キス
塩締めの後、酢で締める

●サーモン・マス・タイラガイ
塩締めの後、三杯酢で締める

●タイ・ヒラメ・サワラ・カンパチ・スズキ・シマアジ・ヒラマサ
塩締めの後、黒板昆布で締める

●赤貝・ミル貝
塩水で洗った後、二杯酢をくぐらせる

●トリ貝
塩締めの後、甘酢にくぐらせる

●アオヤギ
湯引きの後、二杯酢をくぐらせる

●アナゴ
水炊きの後、煮汁で煮る

●ハマグリ・ホッキ貝・ホタテ貝

サッと茹で後、漬け込みする

●タコ
塩でもんだ後、煮汁で煮る

●トコブシ
塩水で洗って後、煮汁で煮る

●アワビ
塩をまわした後、煮汁で煮詰める

●ジルマイカ・イカ印籠
茹でた後、煮汁で味付け又は甘酢をくぐらせる

●クルマエビ
塩水で茹で後、甘酢をくぐらせる

●甘エビ
塩水で洗って後、甘酢にくぐらせる

●ボタンエビ
サッと湯通しの後、甘酢にくぐらせる 

「江戸を食す」カスゴ

 

カスゴは光ものとして扱われております。チダイの幼魚である。

カスゴとは江戸での方言であり、地方により呼び名はいく通りもあります。

酢〆の中では品の良い魚とされている。

本日仕込みました。

 

 

「江戸を食す」ワサビ

 

良いワサビ
①緑色していてさわやかな香りと甘さがある
選び方
①キズや黒ずみがないもの
②頭部も先端も細くなく、円柱形に近いもの
③緑色が濃くみずみずしいもの
おろし方
①流水で洗い皮をむかない
②頭部すなわち茎の方がみずみずしいく新鮮なので
③「の」の字を書くように
保存方法
①1週間以上保存する時は表面の水分をふき取って密閉し(ラップ)冷蔵庫へ
参考文献「ワサビのすべて」
著者 静岡県立大学 木苗直秀・小嶋操・古郡三千代

 

 

「江戸を食す」厚焼き玉子

 

  別記 カステラ風厚焼き玉子の作り方

注意事項

    白身魚は蒸し器で蒸しても良い。

    白身魚に塩をよくすりあわせる。(ミンチども可)

    卵は白身魚に全部一緒に加えないで、一個々割って加える。

    砂糖は最後に混ぜ合わせる。

    調整した材料は目方を測り一定の量を常に玉子焼鍋に流し込む。

    トロ火で焦がさないように。

    中心芯と外芯の火力調整が要注意。

    表面をムラの無いように焼くことが重要。

    焼き過ぎる(時間)とフワフワとやわらかく仕上がらない。

    玉子焼鍋は使い終わった後の管理が悪いと次回上手に焼けない。

 

「江戸を食す」オボロ

 

今朝白身魚でオボロの仕込みをする

注意事項
①魚肉のさらし方が悪いと水分を取り除きが出来ない。
②脂気や生臭みかが残る。
③玉となるので十分注意する。
④玉をほぐす為に炒り過ぎると硬くなる。
⑤食紅をほんの少々で、溶く水加減は少量
⑥砂糖、塩で味をととのえる時に炒り具合によっては砂糖が固まってしまう。

 

 

「江戸を食す刺身

 

斬目正しく紅白に盛る
 
江戸末期の嘉永年間(1850年代)の刺身について様子であるが江戸では祝

賀の時に鯛の刺身、普段は鮪や鰹の刺身を食べていた。

冬にはヒラメの刺身を食べ、ヒラメや鯛の白身の刺身と、鮪の赤身の刺身を皿

に盛り並べ、「作り合わせ」と称して、その色合いも楽しんだ。

江戸では魚肉を乱切りにせず斬り、斬目正しく紅白に盛り、正列に並べること。

鯛やヒラメには辛子味噌や山葵醤油を付けて食べ、鮪や鰹は大根おろし醤油を付け

て食べた。

添え物は、糸切大根、糸切うど、生紫海苔、生防風、姫たで、黄菊、おご、大根お

ろし等を添えた。現在と同じである。

 

 

 

「江戸を食す」酢〆キス

 

縦に幾筋も切り込みをいれて、オボロをはさんで握る。

昔の仕事である「滝川」と言う。

 

 

「江戸を食す」穴子の調理器具


穴子を煮るのに相性の良い鍋、落し蓋使い尽くされて、
もうお役ご免の代物。
穴子煮あげの主役は「ヒキザル」。
霜降り、水炊き、味付けと3工程の作業の為ヒキザルが不可欠。

 

 

「江戸を食す」俳諧から200年前のすし屋の様子

 

●「与兵衛」が大正12年の大震災まではマグロのような下司魚
  を握らなかった。
そのマグロが今日常人の口に入りにくい。世の嗜好の変化は
  恐ろしいものだ。

◆鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は店に待って折詰
◆こみあいて待ちくたびれる与兵衛すし客ももろとも手を握りけり

● 酸くして呼ぶ、鮨売りの声。
  夕闇がしだいに迫って来る頃、吉原遊郭内の道々を鮨売りは、
「ぞめき客」(登楼する当てはない が、何となく廊内をそぞろ歩き
  している男たち)の間を縫うようにして売り歩く。

  ◆先々の時計となって小商い  
  ◆鯵のすふこはだのすふと賑やかさ
  ◆けちな鮨コハダの皮に飯を張り
  ◆妖術といふ身で握る鮨の飯
  ◆握られて出来て食い付く鮨の飯 
  ◆鮓見世 評判はよしののさくら鯛すしのされば買人もおしかけてくる


「江戸を食す」穴子押しずし

 

押しずしは握りずしの原点。
押しずしは押してタネと舎利を馴じませている。
握りずは手のひらで馴じませる。
職人はシャリの型を作りながらシャリ玉の中は空洞にしてソフトタッチで握る。
だからタネに味(煮る、焼く、酢〆等)を漬けてないと馴じまない。
(生魚でも下処理してあれば良し)

 

 

「江戸を食す」江戸前鮨とは

 

「すしの旨さとは、その熟れた味にある。すしの基本的味が熟成にあることは明らかである。
古代のすしの面影を残していると思われる近江のフナずし、岐阜のアユずしは、

重石によって熟成され、京都のサバずしは竹の皮とスダレで締めることにより、

大阪ずしは木箱でおすことによって熟成される。江戸前ずしは掌(てのひら)から伝わる温度と、

握るという押しによって,江戸前の握りずしは熟成されるのである・・・・・・・・。」

日本橋 吉野鮨本店 3代目吉野曻雄著より

 

 

「江戸を食す」

 

1804年に熟成させた酒粕だけを原料にして酒粕酢が出来た。
1810年頃、江戸前ずしは、この酢と出会ってはじめて隆盛の一途をたどる。
それまでは酢といえば米酢だけだった。昔の酢は杉の樽に入っていてコクあった。
米酢のように酪酸臭のない酢よりも江戸時代の強い香りのする酒粕酢の方が旨い。
酒粕酢での合わせ酢は熱すると匂いが確かに強い香りがする。
シャリに少しぐら色がついたリバイバル粕酢使用の「すし」を当店でご賞味下さい。

  

 

「江戸を食す」ボテ振り

 

行商・辻売り
 武士は伝統的な食事を厳守 
 当時の身分の高い武士階級や裕福な商家の人たちは、決して外食をしなかった。
 外出の際には弁当を持参し、あまり長くない外出では帰宅してから昼食を摂るのが通例である。
 食い物屋に入って物を食べたり、行商人から食物を購入したりすることは、
 下賎の者が行なうことであると信じきっていたのである。
 特に女性は一生、外食などは無縁であった。
  
 ◆先々の時計となって小商い
当時の売食産業は零細な「ボテ振り」 
 経済的にもギリギリで、その日その日を暮らしている。
 長屋住まいの庶民達は、安価で滋養のある食品を求めていた。
 その需要に応じたのは「ボテ振り」と俗称された行商である。
 町々を経巡り、長屋の中まで入り込んで、庶民の生活の必需品を、天秤棒で担って売り歩いた。 
 毎日、同じ時刻に々町並みに来る行商もあり、住人からは「ああ、豆腐売りが来たから、
 六つ半だななどと、時計の代わりになるのである。

 

「江戸を食す」握り鮨


江戸時代は珍しい物を句にするのは、川柳の独断場である。
  ◆先々の時計となって小商い  
  ◆鯵のすふこはだのすふと賑やかさ
  ◆けちな鮨コハダの皮に飯を張り
  ◆握られて出来て食い付く鮨の飯 
  ◆鮓見世 評判はよしののさくら鯛すしの されば買人もおしかけてくる
  ◆妖術といふ身で握る鮨の飯 
  これは江戸の握り鮨を詠んだ最初の句である。
妖術使いが左手の掌(手のひら)に右手の指を二本包み込んで握り、呪文を唱える印形と、鮨職人がシャリを左手の掌に握り、その上にタネを乗せて、右手二本で抑えるように握る形状の類似性を目新しく、珍奇さを句にしたのである。
文政年間(180年前)のコハダ、アジ一個4文(80円位)で安価なものであった。寺社のお賽銭が12文(240円位)であるから当時の鮨は低廉であったかが判る。

「江戸を食す」茹でイカ

 

「江戸を食す」茹でイカ

 

茹イカはスルメイカ(呼称ジルマ)が一番旨い。
最近のお客は柔らかいアカイカ(バカイカ)の方を好むようだ。
アカイカは身肉がしまり(歯応え)がない。
ジルマイカを切りつけた後、甘酢漬けにて供してみよう。
適度の堅さ(歯応え)が「すし通」には応えられない旨さである。 

 

「江戸を食す」光ものすし

 

最近は季節感が崩れている。
光物と言えば9月〜2月までコハダ。3月〜4月サヨリ。初夏の5月〜6月はキス。
真夏の7月〜8月はアジ。
しかし一年中魚市場にコハダがあるからすし屋は仕入れする。アジも同様である。
夏にコハダを漬けるすし店は昔は無かった。勿論魚市場にも無かった。
夏場の光ダネはアジが最高に美味しい。
旬の魚は安くて美味しい。現在アジの酢〆するすし店は少なくなった。
昔のように甘味のオボロをかませるすし屋があってもいいのではないか。
(現在酢のきき過ぎたアジはオボロをからめると良い)
アジのゼンゴは必ず包丁をいれ身をつけずにそぎ取っていく技術は今は必要としない。
それは全てアジは生で握るのが主流なので皮をむくもとなっているからゼンゴを

そぎとる必要が無いからである。
これも時代のニーズであろうか?。


 

「江戸を食す」カツオを下魚扱い

 

元来すしダネにならない魚として江戸時代から私たちが修行時代(昭和

40年ころ)まで扱わなかった。
何故だったのだろうか?
 江戸っ子好み魚。初カツオを一尾2両(15万円〜20万円)でも飼ったのにすしダネに用いなかったのは不思議なであった。
 握りすしが創案された当時は、魚介類は全て塩で〆て、酢、醤油にくぐらせていたので、カツオは変色が早いので無理してすしダネにする必要がなかった。
まぐろと似たカツオは下魚であったからである。 

                    

  

 

 

   メールい合わせ        ページの先頭      

    静岡の鮨処 江戸前の鮨を握る店     
        株式会社うおたけ 屋号 穴子の魚竹寿し
          424-0886 静岡市清水区草薙122 
           TEL 054-345-8268 FAX 054-347-4528