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 ■すしの歴史    日本のすしの歴史

早ずしの誕生

  1. 発酵期間の短縮化
    発酵期間の短縮により調整時間を飛躍的に短くしたナマナレであるが、次なる課題は、さらにその期間を縮めることにあった。
    『料理物語』の「一夜ずし」はまた、無塩のアユを使うようにも勧めてい。これも、塩気が足りないと発酵が早く進むという経験にもとづくものであろ。一応は理にかなっているものの、以後は、むしろ魚の塩気はしっかりきかせる傾向に向かう。
    味覚的な理由と腐敗防止のためだと想像される。塩が薄いと魚は腐りやすい。
    結局、従前の材料構成では発酵期間の短縮化は限界に達したと言わざるを得ず、次段階として、発酵促進剤の混和をみるこのあたりの工夫は『料理物語』以後の料理書、たとえば『料理塩梅集』(寛文8年〈1668〉)や『合類日用料理沙』(元禄2年〈1689〉)など江戸初期の文献に明らかである。

  2. 発酵促進剤
    ひとつには、糀の混和がある。これは、今日の東北・北陸地方に広く見られる発酵ずし(北海道・青森の飯ずし、秋田のハタハタずし、山形の粥ずし、富山・石川のカブラずし、福井のニシンずしなど)にも見られる技法で、糀の作用で発酵は促進される。
    他方では、酒を混和する方法もあった。酒を放置しておくと酸っぱくなることはよく知られている。『料理網目調味沙』(享保15年〈1730〉)で、魚を浸すのに、わざわざ「古い酒」としていしているのは、その方がより早く酸っぱくなるからであろう。また、酒をしぼった粕は、後に粕酢と呼ばれる酢の原料にもなるくらいであるから、それ自体、酸味の素である。酒粕を飯に混ぜて魚身に詰めることは、『合類日用料理沙』にも記載がある。
    今ひとつの方法は、酢を混ぜることである。こうなると、発酵を促進させて酢っぽくなるのを待つ必要などはない。もちろん当時は、酢を使ったとしても「一晩は寝かす」(明和8年〈1771〉)『卓袱懐石趣向帳』、「成形させたすしの上からふりかける」(享和2年〈1802〉『名飯部類』)という具合で、現今の酢の使い方とはいささか異なるものであったが、作ったすぐから酸っぱくなっていることには変わりがない。
    長期保存の意味合いは完全になくなり、それまでの概念とはまったく異なるすしの誕生であった。
    一部には、発酵促進剤を使った改良型のナマナレを早ずしと称することもあるが、一般には、酢を使った、最初から酸味のついたものを早ずしと呼ぶ。

 



石川のカブラずし


早ずしの台頭と発酵ずしのその後
  1. 酢を使う早ずしの誕生
    このふたつの形態は、わが国にすしがもたされたところから分化していたと考えられ、つまり、わが国のすしは、姿漬けと切り身漬けの二本柱で発達してきたと言える。ところが、酢を使う早ずしの誕生後、約百年が経つと、すしの形態は一変する。
    この間の一世紀は、すしの主流が発酵ずしから早ずしに置き換わるための期間であった。当初は邪道扱いされた早ずしは、18世紀も中葉になると多くの人の知るところとなり、受け入れられた。
    加えて、迎えた田沼時代と大御所時代は、途中に寛政の改革という質素倹約期をはさむものの、江戸文化の爛熟期である。
    食に対する関心も高まった。作るのに何日も要しない上に、酢と飯と魚さえあれば「すし」と呼べたことが追い風になったのであろう、すしには多様な形態が生み出された。素材面でも、たとえば飯の代わりにオカラや甘藷を利用するなど、ユニークなアレンジもなされた。

  2. 発酵ずしの衰退
    それらが江戸の市井で起こったのは、一連の改変行為が庶民の自由な発想の結実だったことも示している。ともあれ、19世紀初頭には、すしの形態は、現代と大差ないほどまで出そろっていた。
    このような早ずしの台頭にともない、それまでのすしの王道であった発酵ずしは、近江のフナずしや出羽のハタハタずしのようにすでに特産品としての名声を得ていたものを除いては、次第に過去の遺物と化し、辺境鄙地の家庭料理くらいしか残らないほどまで転落してゆく。しかしながら、幕末に至るまで、室町時代さながらの発酵ずしの製法を堅持した例もある。
    将軍家・大名・公家などの階層でやりとりされた、贈答用のすしである。

  3. 将軍家に対する献上
    諸大名から将軍家に対する各領国の名産品献上は、江戸初期の元和年間(1615〜24)には、おおむね公式行事の体制を整えていた。献上品のなかにはすしもしばしば散見され、これを贈っていた藩は全国で十数藩を数える。
    授受されるものの階層を考えれば、その調整には細心の注意が払われたことは言いをまたず、製造所や調理人、さらには材料の調達者や輸送管理者までもが厳しい管理体制の下に置かれたことは、尾張徳川家の献上アユずし史料に明らかである。
    「将軍家御用」というレッテルで名声を高めつつ、やがて、これらはマニュアル化され、「前年のとうり」を大前提として受け継がれてゆく。典型的な役人の前例踏襲主義であり、それは庶民生活とは一切乖遊離したところで、倒幕まで続けられた。
    早ずし誕生以前の製法が、連綿と保持されることになった。早ずしに慣れきった市井の庶民連中にはもはや省みられはしなかった。一部は、維新後、新たな権力に再び献上されもしたが、やはり長続きしなかった。当の権力階層からも、敬遠されていたのである。
    こうして、献上ずしの多くは、かっての名声とは裏腹に、この機を持って、ほぼ消滅した。

 


姿漬けのすしの変容
  1. 早ずしの出現によって食べづらい姿ずし
    尾頭つきの魚をすしにした場合、頭や尾、背骨などは固くて食べづらい。そこで、頭も尾も背骨もとって、いわゆる3枚おろしにして、そのおろし身で飯を抱き込ませるという発想が生じる。もとが姿ずしであるから、全体として魚の外観を思わせるような細身の仕上がりとなる。

  2. 姿ずしから棒ずしへの移行
    これが棒ずしと称されるもので、さらに飯の部分が量的に勝ってくると、棒状の飯の上に魚身を貼り付けた松前ずしやアナゴずしのような形状になってくる。また、現今では「姿ずし」の商標を冠しつつも、現実には、頭を落とした開き身を貼りつけたサンマずしやアジずしが売られていることがあるが、これらは、姿ずしから棒ずしへの移行期の形態と位置づけられる。

  3. 棒ずしの派生形が巻きずし
    簀の子の上に飯を広げ、魚身を乗せて巻きつけるという今日的な巻ずしは、安永5年(1776)の『新撰献立部類集』が初見えである。棒状になったものを小口から切って食するとあるから、まさに現代と同じである。ただし、「飯めしを広げる前に、簀の子の上に海苔または和紙またはフグの皮を敷き、和紙の場合は、これをはがして食べる」との旨が記してある。

  4. 魚と飯の位置関係逆転
    『料理山海郷』の巻ずしはまさに魚そのものであるし、『新撰献立部類集』がいうフグの皮で巻いたすしも、仕上がりが一尾の魚を思わせる。海苔や和紙は、魚の皮の代用と見られよう。
    姿ずしと違うのは魚とご飯の位置関係で、姿ずしでは魚身の内側に飯があるのに対して、巻きずしは魚身をご飯で包む。この逆転現象を、当時の人の遊びの心の表れ、一種の「見立て」の結果だと想像する。少なくても、必要に迫られて作られたものではなかろう。

  5. 巻く素材
    後に、和紙のような「不可食品」は使用されなくなった反面、巻く素材も海苔以外にまで広がった。
    たとえば、『名飯部類』(享和2年<1802>)にはワカメで巻いた「メ巻き」が紹介されているし、幕末には、卵焼きで巻いたものも登場する。さらに、芯となる具材も、当初は魚身であったのが、いわゆる精進物にも目を向けられ、嘉永2年(1849)の随筆『守貞漫稿』では、「海苔巻ずしの中身はカンピョウのみ」と解説する。こうして、巻きずしのバリエーションは増えていった。

 

=稲荷ずしの誕生
  1. 棒ずしの変形
    嘉永2年(1849)の随筆『守貞漫稿』によれば天保年間末期(1840年ころ)に、 油揚げの小袋に五目ずしを詰め、「稲荷ずし」「篠田ずし」と称して売る者があっ たという。このすしは名古屋にはもっと前からあったもので、江戸でも店舗売りは それ以前からあった。価格は「最も賤価」だった。

  2. 稲荷ずしを切り売り
    嘉永5年(1852)の『近世商売尽狂歌合』に書き添えられた売り口上はは「一本 が16文、半分が8文、一切れが4文」とあるから。稲荷ずしは切り売りしていたこと は明らかである。売る商人の台の上には細長い稲荷ずしと包丁が置かれていた。
    細長いすしを包丁で切り、ワサビ醤油で食べるという行為は、魚の姿ずしや棒ずしに通じるところがある。稲成ずしもまた、巻きずし同様、「見立て」に端を発した 発明品で、油揚げは、魚の外皮の代用と見られなくもない。

 

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切り身漬けのすしの変容
  1. 箱ずしへの移行
    切り身漬けの発酵ずしは、酢がつ使われるようになり、今日的な箱ずしへと発展していく。

  2. 「こけら」の意味
    「こけら」とは、ひとつには木クズの意味がある。ご飯に混ぜるために薄切りした魚の身を木クズに見立てたのであろう。典型的な「切り身漬けのすし」であり、発酵ずしであることは言うまでもない。もうひとつ、瓦代わりの薄い板を指す意味がある。現在でも、箱ずしを作る際には「具材は、瓦板を並べるように、少しずつ隣に重ねながら置いてゆく」という大阪ずしの職人がおり、それゆえか、関西の箱ずしは「こけらずし」の異名を持つ。ことらはもちろん、酢を使った早ずしである。

  3. こけらずし
    すしの発生上、当初の具材は生魚であったはずだが、後に、卵焼きや野菜類も併せて乗せるようになった。『守貞漫稿』にとれば文政から天保のころ(1839ころ)、大阪の心斉橋筋の「福本」なるすし屋が、従来の箱ずしよりも具材を充実させた。
    それまではトリガイを使うのが常だったのを、タイ、・アワビ・卵焼きなどで豪華に厚くしたすしを売り始め、大好評を博したという。この豪華な箱ずしが、「こけらずし」と呼び分けられるのだとも伝えている。

  4. 抜き出して切り分ける
    箱の中の芸術品とも呼ばれる大阪の箱ずしは、この時期をもって、一応の完成をみた。今日の大阪の箱ずしの押し箱は、枠と呼んでもよいくらいの大きさである。このサイズは今に始まったことではなく、幕末期には「四寸四方」という規格ができていた。けれども他地方においては、大量のすしを発酵させる従来のすし容器を踏襲して大型の押し箱を使用することもあったはずで、通常、箱ずしとは多人数分を一挙に作り、箱から抜き出して切り分けるという手法を採る。

  5. 「押し抜きずし」
    「切る」という工程を回避するために、ひとつは箱を小型化することが考えられる。一口サイズに抜き出す、あるいは抜き出した後に包丁を要しない「押し抜きずし」は、その究極的な形態と言えよう。大阪のはきずしは、一人前ずつ作り出す程度に容器の小型化を果たした反面、最終的には「切る」という工程を残している点で、双方の中間的形態と位置づけられる。

  6. 「起こしずし」
    一方、箱から抜き出して小さく切り分ける工程を省略するために、箱から抜き出さず、さじですくい取る方法も現れた。さじで起こすから「起こしずし」と呼ばれたこのやり方は、大阪の堂島では「すくいずし」と名づけられて商品化されたと『名飯部類』に載っている。

  7. 混ぜずし
    救い出されたすしは、もはや塊をなさず、ついには最初から押しをかけないすしの誕生に至る。これが、混ぜずし(ちらしずし・五目ずし)である。ここに、押しをまったくかけない、前代未聞のすしが誕生した。発酵ずしは言うに及ばず、早ずしもまた。
    多かれ少なかれ押しの工程を有するゆえ、これはすしの歴史の中では画期的なできごとだと言える。

 

          参考文献   著者 日比野光敏 「すしの事典」

 

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