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■わが町に伝わる話(
持舟城の向井水軍と徳川家康物語 ●「持舟城と家康」 ●人質竹千代と増善寺 岡崎城に滞在していたある夜、八十歳を超えていた老臣鳥居忠吉は、こっそり主君竹千代(家康)を城内の最奥の蔵へ案内する。そこには、今川の目を盗んで密かに貯め込んだ米や銭が山積みになっており、この忠実な老臣は「殿が将来独立なさる時はこれを軍資金としてお使いなされよ」と言う。下克上の世の中のこと、不在の主君を廃して自分が三河の領主になることさえできなくはない地位にあった鳥居だが、この老臣はあくまで質朴に忠実に不在主君のために永年蓄財を続けてきたのである。その後竹千代は岡崎から墓参りを済ませ戻ってきたのである。 ●持舟城の姫様 持舟城攻防戦の終盤は天正10年(1582)2月18日、戦局は動いた。武田勝頼を討つため織田・徳川連合軍は信濃国・駿河国への侵攻を開始した。家康は駿河国からの攻撃を担当、浜松城を東進した。駿府は小京都ともてはやされるほど文化の香りが高い地であつた。その今川家12年間の人質時代この地駿河国有度郡用宗を何度も訪れた度に故郷の岡崎への望郷の念にかきたてられた。持舟城は武田勝頼の領地である。持舟城を攻め落城させたのは天正10年(1582)2月22日のことで、徳川家康と持舟城城主向井伊賀守正重の戦いは熾烈な攻防となり、向井伊賀守、三浦兵部以下400名討ち取られた。本能寺の変の3ヶ月前だった。 ●家康の佃煮物語と持舟城 「江戸前」という言葉は江戸寿司に象徴されるように威勢のよさや新鮮さを感じさせる即ち「江戸の前の海」を指しています。 佃煮も同様で江戸前の海の小魚を煮て、佃煮とする話しは天正18年(1590年)徳川家康公が江戸へ移り住むようになった頃からといいますから、400年以上もの歴史がある話です。 江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃村の庄屋・森孫右衛門、伊賀の忍者服部半蔵正成、堺の呉服商人茶屋四郎次郎清延3人が家康公を助けた物語は逸話として伝えられています。 家康は、何度も、「もはやこれまで。腹割さばいて、信長様の後を追う!」とわめいたそうです。その間堺の商人茶屋四郎次郎( 一行が、神崎川( その後、的確に働き家康の命を守ったとことにより、伊賀の地侍は江戸に召し抱えられ、警護役をつとめます。江戸城に「半蔵門」が作られました。 以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。その後大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りのできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめたという伝えもあります。 江戸幕府の台所へ出入自由の佃島の漁民達は、江戸前の新鮮な白魚を主に献上魚として、残った雑魚を江戸市中で商いし、暮らしを立てていました。当時の佃島は離島でしたから、海が荒れて漁業が出来ない時のために、昔からの生活の知恵で伝承してきた雑魚の保存を醤油炊きしておきました。やがて雑魚だけでなく江戸前の新鮮な白魚やハゼ、小海老などのいろいろな小魚を醤油で煮込み始めました。 佃の漁師は、将軍家の御肴役だけではなく、江戸の人口の激増に伴う町民の食生活を支える大事な漁業者だったのです。 幕府は増え続ける江戸住民のお魚確保のために、従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴でしたので、需要に追いつきません。そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。この孫右衛門は魚河岸の元となる店を開いたとも言われている。現在の築地にある中央卸売市場です。 武田氏滅亡三か月後の天正十年六月、持舟城の伊賀国向井水軍( 伊賀の忍者部隊(三重県伊賀市)、伊賀の豪商向井水軍とは同郷で朱印船貿易商茶屋四郎次郎とは海運業で深い関係が有り、共に家康の三河入りには過分の働きをした。 家康は半蔵には八千石をもって取り立てた。佃村の庄屋・森孫右衛門を筆頭とする漁民30余名も、徳川家の御肴役として江戸に移住をさせ、これら人々の輸送に向井水軍が担ったのです。 伊豆の国田子は伊豆水軍があった風土で、向井水軍と共に海を舞台に活躍していました。伊勢や伊賀から江戸への輸送航路は度々嵐に遭遇し内湾の持舟湊や田子湊に寄港しその間住民との関わりが蜜になり小魚のいわしの佃煮技法やカツオを干し、乾かして固めた堅魚(鰹節)紀州熊野節(薩摩、土佐、田子節も熊野節の製法取り入れた)の技術を伝授し残してくれたのです。 堺港の大商人や、京の都の上流家庭で鰹節がだしとして用いられるようになり、土佐藩主に赴任した山内一豊も鰹節を藩の貿易品にしようと考え、熊野節の製法を積極的に取り入れました。 その後の伊豆節は土佐、薩摩節と並び3代名産品と呼ばれるようになり、田子の鰹節職人は有度郡用宗に鰹節製造法を指導に来られておりました。 私の祖父、伯父、叔父もかつお船、まぐろ船漁、鰹節製造を用宗、清水、焼津で携わって参りました。 ●観音様と本丸の井戸 JR用宗駅近く、町内会事務所の横に「城山烈士供養塔」がある。1954年(昭和29年)に地元の人たちが建立したものである。 祖母の母と妹は持舟城の「城山観音」を“守り本尊”にして精進したのです。当家と向井水軍との関わりを意識するのです。昭和53年12月9日に東京在住の向井本家当主重郷氏が当家に訪ねて来られ先祖を偲んだのでした。 持舟城と向井水軍の写真
其の後の今川氏の家臣は周囲を大海駿河湾、断崖絶壁の当目峠の山、大河安倍川に囲まれた旧長田村に身分、姓名をひたすら隠しに身を伏せ、漁民、農民となり村に土着したのである。京の都に想いをはせた今川氏の家臣たちは今川の文化として祇園祭を残し、旧長田村の住民は400年もの長き間受け継ぎ今日に至っております。又、今川義元と武田信玄に仕えた、向井水軍は伊豆田子村と同様持舟湊(用宗港)を伊勢の漁業技術を後世に遺し、今日まで田子村の漁業者とは交流があり、鮪、鰹船はシラス漁船として引き継がれ全国的ブランド「用宗のシラス」を残し住民の生活の糧となっている。現在の用宗、石部、広野、小坂の各村は年1回の五穀豊穣、海難祈願等と戦国時代に持舟城で育った築山殿、長男信康、山中で戦い散った今川家の家臣や徳川の家臣達を供養する祭りが6月28日祇園祭りとして盛大に行われており、この日は各家庭では家康が三河から教え伝え、向井水軍が伊勢から持ち帰ったとされる「混ぜずし」別名祭りずしを漬ける習慣が今日まで受け継がれております。
家康が残したと伝えられている商品一覧
魚竹寿司店主 竹内勝利記 |
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■江戸時代に学ぶマーケティング
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●現在と江戸時代の相違点 ● すしダネの下処理 ● 握りの大きさ ● 低廉な屋台店のお好み注文 ●
すし職人 ●すしが高級料理に ●屋台店への規制 ●回転ずしが屋台店商法と共通 ●江戸時代の食文化懐古主義 ●江戸時代後期の食事 ● 購入先 ● 武士の食事 ●賄い屋 ■江戸時代の物価 ●江戸時代の庶民の暮らし ●当時、ウナ丼が1個2000円から4000円(100文から200文)、どじょう汁、鯨汁1椀が320円(16文)どじょう鍋は960円(48文)である。 ●初鰹の値段 ●すしの価格 ・箱押しずし(方四寸)960円。コケラずし(鶏卵焼、あわび.鯛等)1280円 ・他に、貴価のもの多く、鮓、1ツ80円(4文)より、1000、1200円(5、60文)に 至る。 ・散らし、五目鮓に椎茸、きくらげ、玉子焼、紫のり、めじそ、蓮根、筍、鮑、海老、の魚肉は生を酢に漬けたる等、皆、細かく刻み、飯に交え、丼鉢にいれ、表に金絲玉子焼きなどを置きたり、丼と云うは、一人分を小丼鉢にいれて、価、2000円或いは3000円也(100文或いは150文也)・・・・と記している。 ・松浦静山(1760〜1841)の『甲子夜話』には、「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、24万円(小判三両)に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし」とある。 松すし(松がずし・堺屋松五郎)の勢いのよさ、あるいは思い上がりぶりがよく分かる。 ●江戸のファーストフード「早ずし」の誕生 徳川家康の江戸入りが1590(天正18)年。江戸幕府を開くのが1603年。この2年前の 1601年に、家康は、天馬制度、いわゆる五街道に宿場を置く宿制を定めている。 今年は、ちょうどこの年から400年目にあたり、宿場フェスティバルのような催しが各所で計 画されている。 江戸の文化を作り出すうえでいろいろな要因が考えられるが、この街道整備こそが、人とものと 文化の交雑を生み出し、江戸っ子の粋な心意気を作り出すことに大きな貢献をしている最大の要 因だと思っている。 江戸市中の人口が急増するが、多くの人口を占めた庶民たちは今だ貧しく、手っ取り早く食事を するための屋台や棒手振による行商の物売りが数多く出回り、いわば外食ブームがおきる。 鰻を食べる習慣についての由来には諸説あるが、平賀源内が発案したという説が一般的である。 江戸時代、商売がうまく行かない鰻屋が平賀源内の所に相談に行った。源内は、「丑の日にう』 の字が附く物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書 いて店先に貼ることを勧めた。すると、物知りとして有名な源内の言うことならということで、 その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食 べる風習が定着した。 寿司屋も「すしの日」の看板を統一した400年前の室町時代から静岡県地方に伝えられている、 商品仮称「○○○すし」とネーミングをつけ江戸時代の戦略的マーケティングに学ぶ事も一案か。 江戸後期時代のバブル・グルメは3大すし屋の勢いのよさ、あるいは思い上がりぶりが、昭和後期時代のすし屋がダブって映る。70年〜85年後には江戸の3大すしは江戸庶民から見放され廃業のうきめに在った。こんにち、われを振り返りおごり(思い上がり)はあったのか。 ●江戸前すしのおいしいお寿司とは |
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静岡市からすし文化の発信を目指す「国際寿司フォーラム」の設立準備会は、4月28日、 静岡新聞4月29日記事より
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