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握りずし以後
渋い松平定信も寛政5年に失脚すると、田沼時代にいったん染みついた贅沢風は次第にその力をもりかえし,幕末掉尾の繁盛なる大御所時代の入る。
このころはすし屋がすっかり専門化しており、普通の料理人はあまりすしに手をつけなくなったためすしの話の本が意外と少ない。
この中には諸国の名産としてアユずし、鮒ずし、松百ずしの三者をあげるだけだし、作り方にしても、
早ずし アジ、モロアジ、コハダ、サッパ、小鯛、マス、アワビ、エビ、海苔巻
一夜ずし アユ、サバ
コケラずし サバ
飯なしずし 小鯛 とあって、馴れずし系はまったく姿を消している。
浪花の杉野権兵衛が「鮓飯秘伝抄」(享和2年1802)を出した。さすが上方の本場で書かれているだけあって,料理ずしが詳細に描かれている。
しかも、所収33種のすしのうちで鮒鮓、淡海鮒鮓、吉野釣瓶鮓の三者は「まだ作り方も聞かないし食べたこともない」とはっきり書いていることは、一には著者がいかに良心的に筆をとったかがわかるし、一にはさすが保守的な上方でも純馴れずしはもはや当世とは縁がきれていたことを示す。
作り方を若干あげてみよう。
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コケラずし
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上等は鯛、アワビ、松菜。中、下等は赤貝、薄焼玉子、キクラゲ、栗、
竹の子、椎茸、三つ葉を貼る。飯は白米一升に水一升、塩五勺の割
にする。冷えたらすし箱に詰め、酢をふる。蓼、山椒、生姜を薬味に
する小倉ずし、千倉ずし、わかさずし、淀川ずしなどのは多くは中下
のコケラずしである。
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起こしずし
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右の具を飯と混ぜて押す。堂島あたりの相場師は縁起をかついです
くいずしという。すくい起こして食べる。
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巻きずし
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具に鯛、アワビ、椎茸、三つ葉などを使う。
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桜ずし
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タコの足の稀醤油煮を用いる。芽紫蘇、木の芽をそえ、お起こしずし
にする。コケラには向かない。
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暖めずし
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飯の熱いうちにコケラに漬ける。長くおくと腐る(暖かいが、今日の蒸
しずしとは全然違うのに注意)
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サバずし
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北サバ(若狭、丹後より)か熊野サバを塩出しし、骨皮をとり、酢飯を
腹に詰め飯と魚を交互に詰めて押し、飯の酸味が魚に移ったらとり
出し、外側の飯粒をのけ、腹の飯は共に食べる。今井ずしはこれと同
じである。朝に漬け夕方食べる。
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薩摩ずし
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アジ、ムロの丸ずしばかりだったが、近年はコケラにも漬ける。右の
サバずしと同様に魚と飯を交互に詰め、強く重石して一日置く。酢の
代わりに酒を用いる。
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上方で馴れずしがはやらないのだから、江戸ではなおさらの話である。
弐亭三馬は「弐亭日記」(文化8年1811)の中ですし屋のいんさつ引札を書いて
◆柳ずし五昼夜も漬けやのは土手節がはやったころ、吉原通いを馬でしていた
野暮な時代の話で、現在は
◆山谷舟の三挺だて
の早漬だといっている。
立場茶屋と長門鮓
魚竹寿し店主
季刊清水 44号 2011掲載 竹内 勝利
蜀山人大田南畝の『改元紀行』(文化1年・1804)に、彼が公用で長崎へ下ったおり(享和1年・1801)の話として「十七夜山禅寺も左の方に見ゆ土橋を渡りて立場あり。左に草薙神社の道あり、村の名も草薙ち呼ぶ。小吉田の立場に至れば酒屋あり。小サキ桶に鮎を入れてひさぐ。
長門鮓
と言う。味よろし」と記されている。(筑波大学付属図書館所蔵)
今からさかのぼること230年ほどの前の江戸時代(将軍が11代家斉だった1780年頃)、東海道小吉田(現在の静岡市駿河区国吉田)にあった立場茶屋(府中と江尻宿の間に設けられた休憩所)の稲葉屋では、東海道を行く旅人に特産のお茶や山葵漬を旅の土産に販売する傍ら、甘く煮付けたニンジン、シイタケ、タケノコ、コンニヤクに蝦(甘く煮た桜エビ)を上置きした五目ずし(季節によりアユ、アマダイ、タイ、ヒラメの酢〆)を、竹のタガをはめた蓋付の小桶(直径10センチ深さ7センチ)に入れ、小腹を満たす程度のお土産として販売していた。
<復元長門鮓>
画像の長門鮓は興津鯛(アマダイ)が上置き魚である。中でも桜えびの
桶鮓が長門鮓が美味だった。旬の魚をのせた高級の長門鮓であったが、
安い桶鮓もあり、サバやアジも使った。旅人のお土産や小腹に
入れるにしても抗菌力のある紅生姜(赤梅酢漬け)は必須だった。
<明治32年の稲葉屋>
前が東海道、「御門」がはっきり見える。当時の絵図面にも「御門」があり、
ここから身分の高い人は入り、床の間と庭が見える部屋で休憩された。
これを参勤交代の途中に食した長州藩長門の殿様がたいそう美味しいと気に入り、以来「長門鮓」の長門鮓で店の名物として親しまれるようになった。 殿様のお国自慢である岩国ずしは別称「殿様ずし」と言われる箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指だが、そんな岩国すし以上に美味しいと絶賛され「長門鮓」と命名されたのは、駿河の国しか獲れない桜えびの珍しさと美味しさによるのではないだろうか。
駿国雑誌(1817年)に「長門鮓
は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓
(ごもくすし)也」とある。また、俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり、伊予松山へ帰郷の(安政4年1857)「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった」と追懐している。
明治天皇に関しても(明治2年・1869)「京都より東京へ御再幸の
砌
、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」との記録と看板が残されている。
一方、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、小吉田のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのか、近くの蒲原宿のすしにしようと声だけ聞かせている。
「すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし」
このように立場茶屋は普通茶屋とは異なり、どちらかといえば身分の高い旅人が利用した場所だった。
<歌川広重「東海道53次」19>
江尻立場茶屋 稲葉屋が描かれており、「小吉田橋」と「名物すしや」がわかる
小吉田は宿場ではないので江尻宿にしたのか?
16代当主稲葉弘さんは
「当時、3000坪の敷地があり、造り酒屋もしておった。
しかし、大名が立ち寄る度に茶店を改装したので、借金を相当した。下級武士やお供の方々はおむすび一人あたり3個あて調達し、休憩場所は近所の民家を利用した
と話してくれた。
長門鮓にまつわる歴史には最後にささやかな逸話が付け加えられている。
東海道線が開通してからの稲葉屋は次第に衰退して明治中頃には廃業され、長門鮓も幻の鮓となったが、静岡特産のワサビを使用したわさび漬けの老舗田丸屋(創業明治8年・1875)が、東海道線が開通した際わさび漬けを駅売りすることになり、長門鮓の蓋付の小桶をもとに容器を開発し、それが全国的に有名になった。長門鮓は鮓自体が消えた後も、わさび漬け容器としてなじみの深い丸桶に姿を変え、今日まで引き継がれ人々に愛され続けている。
静岡小吉田の名物
長門鮓
当時名物の地方ずしでは、まず
蜀山人大田南畝の「改元紀行」(文化1年1804)
に、彼が公用で長崎へ下ったおり(享和1年1801)静岡の東の 小吉田の立場にいたれば,酒家あり、小さき桶に鮨漬けてひさぐ、長門鮓と呼ぶ、味よろしと記してある。.
大阪の豪商山片重芳が仙台へ下方の徒次、文化10(1813)年正月に 「安倍川を渡り・・・・・小吉田の茶店に休む、此所鮓の名物にて風味よく、小桶に漬けて有り、酒も至てよし」と記してある。
俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり、父に連れられていて伊予松山へ帰郷の途中(安政4年1857)「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった。」と追懐している(「鳴雪自叙伝」大正11年)。よほど高名だったらしいが、東海道が汽車に変わった今日はどうなっているだろうか。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、「吉田」のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのが、近くの蒲原宿の
◆すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし
という声だけ聞かせている。宿場は、このよう
な大衆的すしも多かった。
「長門鮓」の概要
小吉田の立場茶屋で長門鮓を販売
日本紀行文集成に大田南畝の紀行文「改元紀行」(文化1年1804)の中に長門鮓が記されている。
「享和元年(1801)幕府の命を以って大坂なる銅座に出張したればしか云うへり。・・・・・南畝名は覃。・・・・後七左衛門と更む。杏花園櫻山人等は其別號なり。詩文を善くし。叉狂歌狂詩を好みて・・・蜀山人號あり。幕府の士にして。寛政中遠山景善と共に昌平学の對策に應じ。甲科の首位たり。ちゅじつ著述多し。
文政6年4月死す。享年75。」
「十七夜山千手禅寺も左の方に見ゆ。土橋を渡りて立場あり。左に草薙神社の道あり、村の名も草薙と呼ぶ。小吉田の立場に到れば酒屋あり。小き桶に鮎を漬てひさぐ。長門鮓といふ。味よろし。」
とある。
(筑波大学付属図書館所蔵)
香川景樹の「中空の日記」
「十三日。つとめて巴川渡る。此川庵原有渡兩郡の境と云ふ。暫し来れば草薙の神社へ詣づ道あり。左の廣野に一叢の森見ゆ。焼津なるべし。
今もその大御つるぎのたち風はかれふす草いろに見えけり。
小吉田の外れなる。長門鮓売る家に憩ふ。此所は往昔梶原景時。二代将軍の怒りを避け。一宮より落延び来て。其子景季景高等と共に討死せし渡り也。打渡したる野末に。芝山の紅ぢたるあり。里人梶原山と云う。其上の松叢に塚ありと聞くも。いとあぢきなし。遥かに拝遺りて。
此主は鎌倉影正ぬしの孫の統にて。我が遠つ祖父とは。兄弟の連なる因み外ならざめれば。斯く一首の歌を手向るも。逆縁にあらじかし。」とある。
東豊田郷土誌(
静岡市
駿河区国吉田)によれば
「小吉田立場(国吉田)に「立て場」があり、中程に稲葉源右衛門の家を休憩所となし
「立場本陣」と言い、諸侯参勤交代中の際、諸藩士が多数休憩し、昼食をなした所。」と記されている。
大阪の豪商山片重芳が仙台へ下方の徒次、(文化10年1813)年正月に 「安倍川を渡り・・・・・小吉田の茶店に休む、此所鮓の名物にて風味よく、小桶に漬けて有り、酒も至てよし」と記してある。
ロシア使節応接掛江戸凱旋には1854年、嘉永七年「安倍川の越し、大井川より小なり。上がれば、名物餅美味なり。府中に入る。宜しき城下なり。横田、狐カ崎数村を経て、小吉田に小休し、長門鮓を食ふ。小桶に入りて売る。鯛の切り身より種種品有りて味美なり。興津に入り午餐。鯛の名所なり・・・・・」。
俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり、父に連れられていて伊予松山へ帰郷の途中(安政4年1857「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった。」と追懐している(「鳴雪自叙伝」大正11年)。よほど高名だったらしい。
日本食生活史、渡辺実先生の著書で「桶ずしは梅酢を使っていましたと・・」記載?
(シャリの合わせ酢には米酢であろうと思う)
「江戸庶民が拓いたし食文化」渡邉信一郎著 生姜は梅酢を使用とある。
(魚の〆は白梅酢を使ったと想像が付く)
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、「小吉田」のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのが、近くの蒲原宿の
◆すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし
という声だけ聞かせている。宿場は、このよう
な大衆的すしも多かった。
桶すし(商品名)はチラシの押し鮓
吉田川(現存)にかかる土橋の辺を的場と言い、的場茶屋の稲葉屋小三郎製の桶ずし(五目鮓ちらし)が、最も美味だとされた。長州の殿様が賞味されたので「長門鮓」とも言われた。
駿国雑誌(1817年)には當國
、鰶(このしろ)を喰ふ者少し、故に多く鯵を鮓にする。府市鮓に製る物、鯵及び平目、鯖の類也。長門鮓
は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓
(ごもくすし)也
参考:桜えびの存在は、江戸時代から知られていましたが、2隻1組で行われる桜えび漁の歴史は浅く、明 治27(1894)年12月、由比の2人の漁師がアジの網引き漁をしていたときに網が深く潜ってしまい、偶 然に大量の桜えびが獲れたことに始まります。
駿国雑誌(1817年)の時点でも桜えび漁はしていたようです。
地元ではこの桜えびを「オボロ」にして五目ずしにまぶして食べたと言い伝わっている。
(由比の不動丸桜えび 船主岩辺幸一さん・・・談)
岩国すし(長州・山口県)は大掛かりな箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指
そこの殿様をうならせた桶すし(チラシの押し鮓)は余程の味だったか?
岩国の五目鮓の具にはない桜えびの味付けしてある長門鮓は長門の殿様は参勤交代の度に立ち寄った。
鮓の変遷から考察
お土産用の長門鮓の魚は保存性を考えると〆物用に白梅酢、そして、漬物にも使用していただろうと思われる。
生姜には赤梅酢の使用をしていた。
関西では梅酢漬の生姜(紅生姜)をつけるのが約束事になっていた。
米酢について
平安時代延期年間(927年)に延期式に米酢の作り方が記載されている
室町時代には魚にあった合わせ酢も料理書に紹介されている
桃山時代までは和泉酢(大阪)の独壇場でした。江戸時代前期には相模の中原、駿河の善徳寺(富士市)、尾張の
半田などに伝えられ、いくつかの食酢が生産され名産地が誕生しました。
江戸時代には酢が醤油・味噌と共に庶民まで普及していた。
1800年代までは米酢が一般てきであった。
大阪の押しずしは当時でも既に米酢を使用していたので、稲葉屋の長門鮓も同様にシャリの合わせ酢は米酢であったと思われる。
稲葉屋の当時の宿帳によりますと旅人は「おむすび」を購入、特に各藩の一行からは数百個単位で「おむすび」の注文が有り、梅干しの製造は
相当量と想像がつく。
冷めた状態で食べる関西のすしでは、でん粉の老化を防ぐ為、砂糖を多く使う。多量の砂糖は塩の味を浮き上がらせ、塩と酢の塩梅がとれていた味を壊したしまう。
シャリの温度が下がるにつれて砂糖、塩、酢がバラバラになるのを炊き込みには昆布だし汁を混ぜて防ぐことができる。
関西の押しずしと同様のシャリの合わせ酢ですしを漬け、具材も野菜類の必需品については通年供給できる為にも乾燥野菜も常に仕込んであった。
酒の蔵元という条件のもと、酒、酢、味醂等自家製ものであったと思われる。
毛利藩主の好物、岩国の五目鮓の具に似ており郷愁からか参勤交代の度に立ち寄った。
長州藩の武士も同行し賞味した。
ロシア使節応接掛江戸凱旋記によれば五目すしに魚は興津鯛(アマタイ)を使用していた?。
(当時、江尻沖ではあまだいアマタイ、マタイ。ヒラメはよく獲れていた。
現在でも甘鯛の水揚げは山口県(萩)が日本一。
)
その他鮎・鯵・鯖・平目等季節的な魚の使用や価格にも数種類有り。
値段は、土地の者へは24文、旅の者には32(640円)文で売った。
明治天皇は明治元年(1868年)8月27日、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、同年9月20日に京都を出発して、東京に行幸した。岩倉らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3,300人にもがお供した。
翌年の明治2年(1869年)再び「京都より東京へ御再幸のさい、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」と記されている。このときも何千人を引き連れて稲葉屋に立ち寄られたのか?。
当時1町歩有り、600〜700年の歴史有り、稲葉源右衛門は造り酒屋の蔵元であった。
東海道線が出来て田丸屋(創業明治8年・1875年)が桶鮓の桶から工夫して容器に入れた山葵漬を駅売りするようになって全国的に有名になる。
(山葵漬の樽桶は長門鮓の桶を使った。)
容器は木製で、直径10cm、深さ7cmほどの竹のタガをはめた蓋付小桶。
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江戸時代の長門鮓
復元
五目すしに興津鯛の酢〆
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長門鮓は小さき桶 10cm×7cm
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現在の山葵漬容器
17cm×3cm
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拡大は画像をクリック
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立場附 小吉田橋
小吉田の寿しやの稲葉屋
弘化元年 160年前の版画
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長門鮓の押し鮓復元
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立場附 19番目
稲葉源右衛門の茶屋
府中から1里半
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江戸時代の文献は無く、俳諧から名物があったこと知る程度。
静岡新聞(第1回世界すし博覧会in静岡記事)もご覧ください
詳細は魚竹寿しに問合せください。 054(345)8268
竹内勝利 記
鳥貝と東海道中膝栗毛
上方で鳥貝のすしが喜ばれたことは、
「東海道中膝栗毛」京都の条(文化4年1807)に
◆中には上方に流行る鳥貝の鮨なり・・・・・
◆北八「何だ、コレヤばかの刺身を鮨に付けたのだな」
◆鮨屋「御評判の千倉鮨、鯖か鯖か鳥貝や鳥貝や」
◆北八「アレ弥次さん見なせへ、あの鮨は京で喰ったが とんだ好かった 一つ やらかそふ」
と、江戸者の口にも合ったことがわかる。
「摂陽奇観」(文政2年1819)に「万安売り御代賑いろは歌教訓鑑」というのを収録しているが、その中に
◆り(利)をすこしとりかい(鳥貝、取)のすし(鮓)さばのすし(鮓)
あさくさのり(浅草海苔)もやすしまきずし(巻鮓)
とあり、海苔巻、サバずしと並んで鳥貝ずじが大衆的だったことがわかる。
●江戸末期のすし
元来コノシロが下司魚だから、せいぜい粋にはなれても上品な代物には数えられなかった。ふつうはオカラずしで、駕籠かきや人足どもの腹ふさぎというところだ。
蜀山人は和製唐紙にきごうをもとめられたとき
◆和唐紙に物書くことは御免酒に
コハダのすしや豆腐つみ入れ
と断っている。御免酒は千代田城下下馬先で供侍の陸尺どもに特に許された金魚酒で、コハダのすしもその程度に見なされていたのだ。
田沼時代は何のかのといっても勝手な真似をしていたのは老中どまりだったが、化政期の贅沢は大御所様(12代徳川家慶)が先頭だから、下々への普及も速い。
喜多村信節はその「嬉遊笑覧」(文政13年1829)において
◆文化のはじめのころ深川六軒ぼりに松がすし出きて世上すしの風一変し
と、江戸前ずしの転換期を19世紀初頭に求めている。
この松のすしはそれほど有名な贅沢ずしだったので、川柳、狂歌、狂詩にもしば
しば読みこまれている。
◆松カ鮓一分ぺろりと猫がくひ(文政)
◆算盤づくならよしなんし松ケ鮓(文政)
◆荒神様へおみやげの松ケ鮓(天保)
◆本所一番阿他家安宅の鮓 高名当時並ぶべきなし 権家の進物三重の折
玉子 は金の如く魚は水晶(天保7年1836)
◆伊豆わさび隠しに入れて人までも
泣かす安宅の丸漬けのすし
金一分は、文政中ごろの相場でだいたい銭一貫六百目、酒にして一斗余の値段だ。第三句は深川帰りに女房への賄賂と見ていいだろう。最後の歌でもわかるように、姿ずしか押しずしであって、握りではなかった。
また、高価なワサビを日常使用するようになったことも注目を要する。それまでの魚類の生臭を消すには辛子が普通に用いられ、蓼、生姜、山椒などもしばしば用いられていた。
古く元禄のころ、江島事件で三宅島に流罪にされた色男生島新五郎の
◆初かつを辛子がなくて涙かな
の句は有名だ。
華屋与兵衛
この「松ケすし」と本所「華屋与兵衛」とは天保中、水野越前守の倹約令に引っかかり手錠をくらっている。「与兵衛」も文化5年開業というから、だいたい「松ケすし」と同じころのもの。
◆押しのきく人は松公と与兵衛なり(文政)
とほめられているので、押しずしが主だったことがわかる。
文政5,6年ころ、この「与兵衛」が握りずしを発明したという。前々からいろんな人が考案し、工夫していたものを、今の形のスマートなものにしたので、彼の独創ではなかろう。いわば早ずしにおける松本善甫だという人もあるが、確かにそうらしい。
握り飯は屯食という名で平安朝以来行われているし、その握り飯に魚鮓をのせることは広西省の土人がこの百年も前からやっていることだ。だが、酢をきかせた握り飯に生魚をのせるのは、ある意味で革命的だともいえよう。
「与兵衛」が大正12年の大震災まではマグロのような下司魚を握らなかった。そのマグロが今日常人の口に入りにくい。世の嗜好の変化は恐ろしいものだ。
◆鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし 買手は店に待って折詰
◆こみあいて待ちくたびれる与兵衛すし 客ももろとも手を握りけり
◆流行の鮓屋町々に在り 此頃新たに開く両国の東 路次の奥にて名は与兵
衛客来り争い座す二間の中
歴史の古いおまんすしも栄えていた。
◆鳥飼も鮓もおまんはわるくなし(鳥飼は有名な菓子屋)
◆餅屋と聞けばおまんは鮓屋也
◆何れの歳か初めて聞く鮓屋の店 連綿数代市中に鳴る 海苔玉子塩梅妙なり知らぬこれ女房お満の情
このほか、へっつい河岸の「毛抜」、瓦町の「蛇の目」、新吉原の「通ひ鮓」、また「翁 ずし」などは、当時の流行店だったそうだ。
コハダのすし
江戸末期のコハダのずしの盛行は一部旧弊の人たちの眉をひそめさせた。コハダはコノシロの一年子だし、コノシロは此城に通じているとして武家は決して食べなかったし、焼くにおいが
人屍を焼くのと同じだというので、縁起をかついで嫌う人も多かった。
注)下野の室の八島の富人が、国司に思いをかけられたわが娘を恋人と一緒に逃がしてやり、棺にコノシロ=ツナシを詰め、娘の屍
と称し、これを焼いて上司の眼をごまかした。それでツナシを子の代というのだという説話もある。
たとえば小川顕道(文化11年1814)は、
◆河豚このしろ我等若年の頃は我家は決して食せざりしもの也・・・・・このしろは今世
も士人以上は喰はざれども、魚鮓にして士人も婦人も賞翫(しょうがん)すと呆れている。
江戸は江戸風握りのみ
「東本願寺御膳所日記」のうち慶応から明治にかけての献立は、かの田沼時代のそれに比しはるかに質素になっているが、すしは大分ふており、この辺にも時代相がうかがわれる。
3冊、一年半の間に顔を見せるすしの種類は、すし(4件)、早ずし(9件)、切りずじ(3件)、箱ずし(2件)、散らしずし(4件)、海苔巻(4件)、握りずし(12件)、鯛ずし(1件)、ハモずじ(8件)、鮒ずし(2件)、サバずし(1件)、かますずし(1件)、卯の花漬(20件)である。
握りのふえていることが目に付く。単にすしとあるものは材料に松茸、蒲鉾、玉子糸湯葉、竹の子、椎茸などが並ぶから、実質的には早漬の散らしずしだろう。
早ずしには椎茸以下の具のほか、生臭として鯛、ハモ、蒲鉾、赤貝、時には縮緬ジャコも入るので、散らしか、それよりもコケラずしかもしれない。
切りずしは鯛、玉子、赤貝などで、結局箱ずしと同一ものだろう。箱ずしも鯛が主。握りも1回の鱒を除いて残りは鯛。サバずしは稲荷祭りだけ卯の花漬は鰻(2回)鱒(8回)、残り(10回)は鯛である。さすがは本願寺で古川に水は絶えなかった。
江戸期最後の市民生活を考えるのに最も重要なのは、
喜田川守貞の「守貞漫稿」(近世風俗史ともいう)(嘉永2年1849)である。
多くの江戸の著者と異なり上方のことをよく知っており,始終江戸のそれと比較し壺をはずれない判断を下している。
守貞によると、江戸で箱ずしがすたれ出したのは5、60年、以来の話で、一方大坂に江戸風握りずしが出来たのは文政末(1830年)の戒橋畔「松ケすし」からだ。箱ずしの玉子が厚焼きになったのは天保初年(1830〜)心斎橋の「福本」からだ。江戸すしが入るまでは大阪で上等ずしは散らしで、押しずしは並であった。
江戸では五目ずしと握りずしは同等に扱われた。
稲荷ずしは、古くから名古屋にあり、江戸での振り売りは天保末(1845ころ)から始まる。 稲荷ずしの飯にはキクラゲ、干瓢などが刻んで混ぜてある。今日の関東では白飯か、せいぜい麻の実を入れる程度、 具をたくさん入れるのは関西風である。さらに、すし売りの衣装その他いろいろ面白い記事がある。
大阪の狂言作者 西沢一鳳は「皇都午睡」(嘉永中、1850ころ)において、江戸滞在中の印象のうち、当時の江戸のすしは握りばかりであること、特に「松ヶすし」や「与兵衛」のは念入りであること、へっつい岸の笹巻きを毛抜き寿司というのは(毛抜きのように)よく食う意味だ、 などと述べている。業界誌「寿」(昭和27年3月)に、明治初年の東京のすし屋番付の写真が出ている。観進元に「松之鮨」(神田川)行司「毛抜鮓」(河岸)、「与兵衛鮓」(東両国)など古いすし屋の名が見える。前頭筆頭に「小吉田鮓」(連雀町)がみえる。桶ずしの出店だろうか。今はどうなっているのだろうか。以上、すしはこの200年ばかり急激にかつ絶え間なく進展をしてきた。
それが今次の敗戦により国民の食生活全般に非常な変革を見た現在、この情勢に応じてさらに変化、発達をするかも知らず、またそのことがのぞましい。如何にして如何ように変えていくのが一番自然であるか、一番望ましいかということは人々それぞれの考えがあろうが、いずれにせよ、そのためには、過去の歴史においてその社会情勢に従って、すしが如何ように変わってきたかを調べるすし史が第一の参考になるのではなかろうか。
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