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 ■すしの知識

 すし屋の作法

すし屋のカウンターにおいて、職人に向かい、好みのすしを注文しながら食べる際、「すし通」に見える。あるいは見せるために必要とされる作法。その内実は緒論あって一定しないのだが、そうした見えない「作法」に束縛されている人は厳として存在する。

注文するすしダネの順序 
 「ギョク(玉子焼き)に始まり・・・」とする人は多い。これは、玉子焼きがその職人の腕前を計るに最もよい指標とされたためである。もっとも、できあいの玉子焼きを買っている店では意味がない。このため、塩締めや酢締めの加減で職人の腕を見ようと、ぎョクではなく「光り物から」とする人もいる。ただ、いずれにせよ、職人の腕がわかりきってる場合には不要のことである。
 握りずしの発生期を省みれば、屋台食いか持ち帰りであった。屋台のすしは、気取らない食べ物である上に、二つ三つつまむ軽食であるから、食べる順序など気にされるはずもない。後に出てきた高級料理やなみのすし屋では、職人が別室ですしを作り、それを座敷に運ばせるのだから、職人と客とのやり取りはほとんどないし、客も人目を気にして食べる必要がない。つまり、順序をあれこれ言うようになるのは屋台方式の商売を内店に取り入れた(これがカウンター形式の店になる)大正期以降のことだと推察される。この時点ですしは当初とは違う供され方をしていたのであるから、どの食べ方が本筋であるかは論ずるだけ無駄である。
自分の好きなおすしから召し上がって、気楽に食事してください。
栄養のバランスを考えた場合には参考にしてください。

すしを手で食べるか箸で食べるか
 すしを手づかみにするか箸で食べるかも同じことで、前者は屋台の食べ方、後者は料理屋での食べ方の違いにすぎない。カウンター形式は両者の合体であるから。どちらが正当であるとは言えない。
すしは手づかみの方が食べやいが、これもお客様のご自由です。

醤油をつけるのはかシャリかタネか
 つけ醤油をご飯側につけるかすしダネ側につけるかの議論は、さらの滑稽である。本来の「江戸前風の握りずし」を気取るなら、すしダネはすべて下味がついているはずで、つけ醤油を置くこと自体が不要だからである(当初もあるにはあったが、それはあくまでも下味の不足を補うものだった)。
 下処理を省いてタネに塩気ががなくなったからこそ、つけ醤油が不可欠になった。すし飯にはたいした違いはない。されば、すし飯とすしダネのいずれに醤油をつけるべきかは、もはや明確であろう。
鮨は日本食料理です。和食の基本である刺身、煮物、焼き物、酢の物等が料理(盛り込み)されているのです。全ての鮨には違った味があり、本来ならつけ醤油は不要ですが、これもお客様の好みの味加減もありますのでつけ醤油もご自由です。

酒を飲みながらすしを食べるか否か
 酒とともにすしを食べるか否か。これも議論が分かれるが幕末期における料理屋形式の高級すし屋では、当然酒は出したはずである。屋台では置かないこともあったが、それは店の切り盛りによる理由(屋台はひとりでやる場合が多かった)か、さもなくば、客はすでに呑んでいる酔客が多かったからであろう。
屋台店は5人も並べば満席である。すしを握る、お茶を出す、勘定をして支払いを受ける、という仕事もある。それを一人でこなす忙しさは想像がつく。お茶を注ぐ手間さえ省きたいから、まして酒など供している暇はなかった。

すしはひと口で食べるものなのか
 「すしはひと口で食べる」という意見に対して、「食べきれない場合は半分に切り・・・」という見解もある。ひと口でたべるのを粋とするのはどう見ても江戸庶民の気質で、男連中でにぎわった屋台に端を発していそうである。後者は、女性向のマナーブックでたまに見かけ、その裏には懐石料理の作法が見え隠れする。つまり、作法のよりどころがまったく異なっている。
好きなように食べていただければ結構でです。

このように、江戸前風握りずしの「正当なる食べ方」というのは、実は内実が非常に不確定で、理由づけもたいしたものではない。
 食通で知られる北大路魯山は「寿司談義は小遣銭が快調にまわるようになり、年も40の坂を越え、ようやく口も奢ってきてからのこと」しゃしってきてからのこと」(「握りずしの名人」『独歩』1952〜53)と述べているが、この言葉からもわかるように、大正から昭和にかけて、当時出始めたカウンター席ですしをつまむことができた人々は、ある種「特別な人」であった。彼らが、わが身の身分や特権階級意識を誇示するために、銘々勝手な方式で食べ方を規制づけた結果が「作法」であろう。個々人がそれぞれの思いを述べるからこそ、「作法」には一貫性がなく、諸説飛び交うことになる。
握りずしやだからといって特に改まった作法が必要なわけではなく、通例のマナーさえ守っていれば、後は好きに食べてよいはずである。


 すしのこぼれ話

釣瓶ずしと歌舞伎

すし屋弥助がモデル
助延享3年(1746)に完成した竹田出雲の『義経千本桜』には、源氏に破れた平維盛をかくまう役どころとして、このすし屋が登場する。

あらすじ
 吉野山中をさまよっていた維盛は、釣瓶ずしを商うすし屋の弥助に遭遇する。弥助は、かって維盛の父重盛に恩義を受けていた人物で、自ら家に作男として維盛を招き入れ、家族にも内緒で、敵の目を欺くことにした。この時、弥助はその名を維盛に譲り、自名を弥左衛門と改名する。
 維盛は、いつしか弥左衛門の娘お里と恋仲になり、祝言を上げる運びになるが、その前夜、維盛を案じて吉野を訪ね歩いていた妻子と再会する。すべてを悟ったお里は、父とともに維盛一家の逃亡を手助けする。しかし、お里の兄で名うての厄介ものである権太が維盛の正体を聞きつけ、維盛の身柄を源氏の追っ手に引き渡すと宣言。一足先に家を出た維盛たちの後を追い、やがて「維盛の首を取り、妻子は生け捕りにしてきた」と帰ってきた。
 居合わせた源氏方の梶原景時、首の入ったすし桶と妻子を引き渡した権太は、褒美をもらうが、逆上した弥左衛門に斬りつけられてしまう。死に際権太が言うには、桶の中の首は、あらかじめ弥左衛門が準備しておいたもの、差し出した妻子は自分の妻子だという。はたして、維盛一家は元気な姿で現れる。権太は改心し、わが身の家族と引き替えに維盛を守ったのだった。
 その後、首と妻子を連れて行った梶原も、すべてを承知の上で維盛一家を見逃したことも判明。維盛は一人出家するとて、吉野を後にする。

森の石松の食べたすしは?

大坂で買ったすし
講談や浪曲で演じられる「石松30石船」は、「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」「食いねえ、食いねえ、すし食いねえ」の名セリフでよく知られている。芝居などではこのすしは江戸前風の握りずしとして仕立てられることが多いが、この場面は金毘羅代参を終えた帰り道の、大坂から京都伏見に向かう淀川の船上でのできごとで、次郎長一家を誉められた石松が乗り合い客に勧めたのは大坂で買ったすしだったことになる。

「押ずし」である
先代広沢虎造の口演では、「八軒屋から伏見へ渡す渡す船・・・(中略)・・・これへ石松さんが乗り込んで・・・(中略)・・・大坂本町橋名物の押しずしを脇へ置いて酒を呑み、すしを食べ・・・」と、「押ずし」であることを明言している。

大坂で江戸前握りずしは売られていた
大坂に初の江戸風ずし(握りずし)屋ができたのが文政の終わりごろ(1820年代後半)。石松の金毘羅代参は文久のころ(1860年代前半)であるから、大坂本町で江戸風の握りずしが売られていても不自然ではない。

「にぎりずし」である
東京風の握りずしが大阪で広がったのは、明治15年ごろから本町の「鉄砲家」が売り出してからである。広沢虎造の18番、森の石松が舟のなかで「江戸っ子だ、すし食いネェ」とやって大阪本町の大阪鮓を取り寄せる・・・・・。この 「鉄砲家」は本町きってのすし屋だから、自然この店が石松のすし屋だということになり、なかなかはやる。店に「石松大明神」も祀られている。主人いわく「石松の金毘羅参りは文久3年だから、開店と年代がひらくが、お客さまはムードで来て下さるのだから、そんな細かいことはどうでも良い。広沢さんには大いに感謝しています」と。

                           すしの本 篠田 統著より

遊郭と化粧笹

笹の葉
すし同士が接触するのを防ぐために置かれる笹の葉のこと。『守貞漫稿』(嘉永2年<1849>)にその記載があり、江戸ではクマザサ、京坂ではハランを好むとある。
笹にせよハランにせよ、単なる仕切りだけではなく、そこに職人の包丁の腕を見せるため、さまざまな細工きりが施された。これがいっそうすし盛りを豪華に見せる。

台屋(遊郭)のすし
この盛り付けを半ば悪用したのが、「台屋(遊郭)のすし」で、笹をたくさん使い、少ないすしで豪華に見せた。

虎が出る
「台屋から 虎の出そうなすしが来る」の川柳は、虎が出てきそうな竹薮さながらの笹まみれ状態を表現している。

すしの盛り込み

明治時代の1人前
桶や皿にに盛る時には七五三などの奇数が好まれたいう。大皿から小皿に取り分ける時も、七五三を意識した。食事としての1人前には3個というのは少ないように思うが、当時の握りの大きさから考えると5個・7個ぐらいで満腹にはなる。

「5カンのチャンチキ」
大正から昭和期には握り5個と細まき2切れを1人前とする風潮があった。これを「5カンのチャンチキ」と言う。合計7個だから、七五三の理屈には叶っている。

「重ね盛り」
箱ずしの時代からすしは重ねて盛るのが普通であった。明治時代でも、場合によっては昭和になっても、そうした「重ね盛り」の習慣は根強くあった。桶や皿で中央を高くしてピラミッド状に盛ることを「杉形(すぎなり)に盛る」と言う。

「台屋盛り」
遊郭出入りのすし屋では、少ない数で見栄えをよくするために、すしを重ねることはしなかった。こうした段重ねにしない盛り方を「流し盛り」もしくは「台屋盛り」(台屋とは遊郭のこと)と言った。元来があまり誉められた発想で盛られたものでないから、「堅気のすし屋ではやらない」とさえ陰口を聞かれ、店によっては1人前のすし盛りでもなるべく重ねて盛ったという。

流し盛り
ところがいつのころからか、この流し盛りが一般的となり、現在では重ね盛りはすっかり陰をひそめてしまった。

その他の盛り
重ねない盛り方がすべてが流し盛りというわけではない。
「放射盛り}
中央に芯のような存在を作り、そこからすしを放射状に並べる。
「東西南北盛り」
多くはすしダネ別に置かれるが、1人前ずつセットにして放射状に並べる。これはどの方からも平等に「1人前」が取りやすい。
「水引盛り」
赤身のすしダネと白身のすしダネを左右に置き分ける。水引よろしく、赤い色を右側に配する。
「山水盛り」
重ね盛りと流し盛りを組み合わせ、器の中で山河風景を描く。

お茶と湯のみ

すし屋のお茶
すし屋のお茶は粉茶とされる。一説には、すし屋がまだ低廉な食べ物であった時代、お茶にかかる経費を削減するために、最も安い粉茶を使ったのが起源だという。粉茶は玉露などの高級葉茶のように香りが立たず、また、旨味も少ない。それゆえにすしの持ち味を殺さないとして、価格とは別の理由でこれを使う向きもある。

すし屋の湯のみ
粉茶は熱い湯で入れねばならず、薄い湯のみ茶碗だと厚くてもてない。また、屋台での商売のころは、こまめに客に茶を供する手間を惜しみ、大きな湯飲みを用いたという。かくて、すし屋特有の分厚くて大きな湯のみ茶碗の伝統ができたらしい。

   参考文献   著者 日比野光敏 「すしの事典」

 

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